第5話 二人の問題児
陽は、十五歳になりました。
中学三年生。初めての受験を経験する歳です。
中学校は三年間しかないので、毎年クラス替えが行われます。三年生となった陽は、真尋ちゃんや志乃ちゃん、如月君とも別のクラスとなってしまいました。
仲の良い友達が誰もいないクラスにぽつんといると、周りが賑わっていればいるほど、無性にもの悲しさを感じます。何気なく首を巡らせると、廊下側から数えて二列目の一番前の席に座る女生徒に目が行きました。
彼女は、三つ編みを左右の耳のうしろできっちりと結び、縁の黒い大きな眼鏡をかけ、黙々と、三年生で習うはずの理科の教科書を読み続けていました。
新しくなったクラスに周囲が賑わう中、まるで彼女だけが別世界に取り残されてしまったかのように、そこだけ静かな空気が流れているようです。
陽は、その女生徒を知っています。話したことはありませんが、学校ではとても有名な生徒なのです。
名前は、本条由梨。
両親ともに外科のお医者さんで、お姉さんも医者を目指して大学に通っているそうです。そして、由梨ちゃんのお母さんは、先生方の間でも有名な教育ママだったのです。
陽の通う中学校では、原則として生徒は何かしらの部活動に参加しなければいけません。けれども、一年生の時、由梨ちゃんのお母さんが校長室に直談判に来ました。
「勉学に不要なことはさせないで欲しい」と。
部活などに時間を取られ、成績が落ちることがあったらどう責任を取るつもりだとまで脅しをかけたらしいと、当時、そんな噂が生徒の間でも囁かれたのです。
そんなことがあり、彼女に不用意に近づく生徒はいなくなりました。どこでお母さんの目が光っているかわからないからです。
話しかけただけであっても、「余計な知識を娘に吹き込むな」と言われるかもしれません。もっとも、そんなことがあったという話は聞いたことがないのですが、学校に来た時のお母さんの様子を見る限りでは、「あの人なら言いかねない」と思われるほどの剣幕と迫力を持った人だったのです。
もう一人、気になる生徒が目につきました。彼女も、由梨ちゃんに負けず劣らず、全学年を通して有名な生徒です。
桐生ひかる。
彼女が有名な理由は、おもにその自由すぎる生活スタイルが要因です。
陽の中学校の規則として、制服のボタンは一番上まで止めることとありますが、ひかるちゃんは第二ボタンまで外しています。スカート丈も膝下と決まっているのに、彼女のスカート丈は膝上十センチぐらいでしょうか。髪は短く切りそろえていますが、金色に近い明るい茶髪です。アクセサリーももちろん禁止ですが、ブレスレットをし、耳にはピアスを開け、香水をふりかけ、しかも化粧までしているのです。
格好だけではなく生活態度も自由奔放で、彼女はよく無断で学校を休みます。
学校に来たかと思えば、授業の途中で勝手に教室を出て行ったり、先生ともめた挙句に昼間に帰宅したりすることもあったようです。
噂では、地元の不良グループに入っているとか、警察に補導された経歴があるとか、そんな話がまことしやかに囁かれていました。
そんな、学校でも一、二を争う有名人が、二人とも陽のクラスメイトとなったのでした。
「たいへんなクラスに入っちゃったね」
すぐうしろの席でひそひそと話す声が聞こえてきました。陽だけでなく、他のクラスメイトたちも、由梨ちゃんとひかるちゃんのことが気になっている様子です。授業中であっても、休み時間になってからも、クラスメイトたちは何かにつけてちらちらと彼女たちに奇異の視線を送ります。
「陽ちゃん」
昼休み、声を辿ると、廊下で手を振る志乃ちゃんの姿がありました。
「志乃ちゃん。あ、真尋ちゃんも」
廊下に出ると、そこには真尋ちゃんもいました。
「陽ちゃんのクラス、すごいね。なんかたいへんそう」
「たいへん……なのかなあ?」
「だって、問題児が二人もいるんだよ」
志乃ちゃんがこそこそと話すので、
「問題児って……。そんなこと、私にはまだわからないよ」
陽はそう返しました。すると、
「あ、本条さんは優等生だものね」
と志乃ちゃんがつけ足すように言います。
「でも、優秀過ぎて問題があるというか……。あと、桐生さんは完全に問題児でしょ。学校はサボるし、レディースに入っているって話だし、警察に補導されたとかいうじゃない?」
そんな話を隣で聞いていた真尋ちゃんの片眉が、ぴくりと上がりました。
「ねえ、志乃。それさ、誰が言っているの?」
「誰って? えっと、みんな、じゃない?」
「みんなって、誰? じゃないって、何?」
ほんの少しだけ、真尋ちゃんは怒っているようです。幼稚園の頃からの付き合いである陽にはわかります。同じく幼稚園の頃から一緒にいる志乃ちゃんにも、それはわかっていることでしょう。
「志乃は、本条さんや桐生さんと同じクラスになったことはあるの?」
「ない、けど……」
「話したことはあるの?」
「……ない」
「なら、本当はどういう人かなんて、わからないじゃない。噂とかさ、全部を信じるなとは言わないけれど、信じすぎるのも良くないと思うよ。参考までにとどめておいた方がいいと思う」
「だって、みんな言っているんだよ? みんなが言っていることが正しいんじゃないの?」
「そのみんなが、流れている噂をただ信じているだけかもしれないでしょ。志乃みたいに」
「え……」
「噂には尾びれ背びれがつくものだよ。人なんてね、実際に話してみないとわからないものだよ。遠くから見ていただけじゃあ、わからない。よく知りもしないのに、人のことを悪く言ったらいけないよ」
真尋ちゃんにそこまで言われ、志乃ちゃんはきゅっと口を結びました。険悪な空気になりかけたところで、陽が、
「真尋ちゃんは大人だねえ」
とさも関心したように言うと、そのおどけた感じに、真尋ちゃんの周りを取り囲む空気が穏やかになりました。そして、真尋ちゃんがふっと笑います。それを見た志乃ちゃんも、顔を緩め、にこりと笑いました。
この三人は、幼稚園の頃からずっとこうなのです。
しっかり者で正義感が強く、正しいと思ったことをはっきりと言う真尋ちゃんと、流行に敏感でその場の空気に流されがちな志乃ちゃん。そして、どちらにもつかず、争いを好まず、調和することをもって良しとするタイプの陽。志乃ちゃんが暴走しかけたら冷静な真尋ちゃんが止め、真尋ちゃんと志乃ちゃんがぶつかりそうになったら陽が二人を和ませ、楽観的な志乃ちゃんが慎重になりすぎた真尋ちゃんの肩の力を抜いてあげる。
そういうふうにして、三人はずっと一緒に過ごしてきたのでした。
「ねえ、あんたさ、それの何が楽しいの?」
昼休み中の教室が、一瞬にして静かになりました。クラスメイトたちは一切の動きを止め、一様に声のぬしを見つめています。その先にいるのは、桐生ひかるちゃんです。そして、そのひかるちゃんの視線の先には、教科書を読み耽る本条由梨ちゃんがいました。
「疲れない? 本を読むのが好きだって言うのはわかるけれどさ、教科書なんておもしろいものじゃないでしょ?」
「……」
「おい、無視かよ」
ひんやりとした空気が漂う中、由梨ちゃんは黙々と教科書を読み続けています。
「……っち、なんだよ。聞かれたことに答えることもできねえのかよ。それとも、私みたいな落ちこぼれとは口も利きたくないってか?」
「……話しかけないで……」
教室中の空気がどんどん冷え込んでいくようです。
ひかるちゃんの質問に答えないどころか、喧嘩を売っているかのような由梨ちゃんの発言に、それを遠くから見つめていたクラスメイトたちは、みな顔を引き攣らせました。
陽も多くのクラスメイトたちと同じように、表情を固くしながら二人のなりゆきを見守っています。
机が倒されるか、椅子を投げ飛ばすか、はたまた由梨ちゃんに殴りかかりでもするのではないかという想像がクラスメイトたちの脳裏によぎりました。
ですが、そのどれもが実行されることはありませんでした。
「……何を怖がってんだよ」
ぼそっとつぶやかれた言葉が陽の耳に届きました。
「わかったよ。話しかけなければいいんだろ」
そう言って背を向けたひかるちゃんは、なぜかひどく傷ついているようでした。ひかるちゃんは、教室から出て行こうと歩き出します。けれども、先へは進めませんでした。
由梨ちゃんに袖をつかまれたからです。
「……ごめん、なさい……」
教科書で顔を隠しながら、由梨ちゃんがぼそぼそと謝ります。
「べつに。よく思われないことには慣れてるから」
ひかるちゃんがそう告げると、由梨ちゃんはふるふると首を振りました。
「……違うの。私は……あなたのことは、怖くない。でも、私には話しかけないで欲しいの」
「なんで?」
「あなたが、傷つくことになるから」
「どういうことだよ」
「……私の家族のこと、知らないの?」
「ああ、あんたの母親、すっごい教育ママなんだってな」
「……そうね。私が、お母さんの期待に応えられないせいなの。交友関係もね、監視されているわ。とにかく今は、勉強の邪魔になるようなことは一切許されていないの」
「……まるで囚人だな」
ため息混じりにつぶやくと、ひかるちゃんは由梨ちゃんのうしろに回り込みます。何をするつもりだろうかと見ていると、由梨ちゃんの三つ編みを結わえていたゴムを取ってしまいました。
「ちょ……何するのっ?」
「勉強の邪魔になることは許されてないんだろう? だったら、息抜きしようよ。息抜きは、脳を休めるために必要だって聞いたことがあるんだ」
「……息抜きって……?」
「私らもさ、もう来年には高校生だよ。もう少しおしゃれしてみてもいいんじゃない?」
ひかるちゃんは鞄からブラシを取り出すと、由梨ちゃんの黒々とした髪の毛を丁寧に梳いていきます。その上で、シャープペンやボールペンを髪の毛先から巻きつけはじめました。
「ドライヤーとかさ、熱があればいいんだけれどね」
十本ぐらい巻きつけたあと、鞄からポーチを取り出したひかるちゃんは、由梨ちゃんの黒縁眼鏡を外しました。
「あれ、結構目が大きいじゃん。眼鏡をしているのもったいないよ。コンタクトレンズにすれば?」
「……無理だよ。お母さんが許さないもの」
「それも駄目なのか? コンタクトレンズにしたからって、勉強ができなくなるわけじゃないと思うけれどなあ」
「うちは両親が医者なの。コンタクトレンズは異物だから、目には良くないのよ。これ以上目が悪くなったら学力にも影響が出ると思っているの」
「ふうん」
相槌を打ちながら、ひかるちゃんが由梨ちゃんの頬に何かを押し当てています。
「……ひゃあ、何っ?」
驚く由梨ちゃんには構わず、ひかるちゃんは由梨ちゃんの顔を、手にしたもので丁寧に撫でていきました。
「これ……化粧水?」
尋ねると、
「そうだよ」
ひかるちゃんは何食わぬ顔で答えます。
「……どうして?」
「化粧をする前には肌を整えないとね」
「え、化粧……?」
「うん」
「なに、考えているの? ここは学校よ。もうすぐ授業が始まるのに……」
「別にいいじゃん。あんた、髪が長いんだしさ。帰るまでそれで隠していたらいいよ」
「やめて!」
意外に大きな声に、ひかるちゃんは目を見開きました。
「……わかったよ」
そう言うと、化粧下地を塗り始めたのです。
「ちょっと……!」
「ほら、動くなよ。休み時間が終わるまでには元通りにするから」
「……何の意味があるの?」
「だから、息抜きだって言っただろう」
「……」
「化粧っていうのはさ、気持ちを切り替えるのにちょうどいいんだよ」
慣れた手つきで施され、ものの十分ぐらいで、
「ほら、できた」
と鏡を手渡されました。
髪に巻きつけられたペンはすべて抜き取られ、ふわふわの巻き毛が出来上がっています。心なしか、頭も軽やかです。由梨ちゃんはもともと色白なので、ファンデーションを引いてもその白さはそれほど変わりません。ただ、少しばかり蒼い顔色が、チークを引いたことで血色が良くなったように見えました。白い肌に映える桃色のアイシャドーの下には、マスカラで長さと厚みを増した黒い睫毛。それがまた、瞳をさらに大きく見せていました。
「な? 可愛いだろ?」
どうだ! と言わんばかりににやりと笑うひかるちゃんを前に、由梨ちゃんはどうしたら良いかわからないような、居心地が悪いような、はにかんだ笑みを浮かべていました。
「……もう、わかったから、メイク落としを貸して」
「え、もうとるのかよ?」
「だって、あと十分ぐらいで先生が来ちゃうもの」
「じゃあさ、落とす前に写真撮ろうよ」
「え、だめ! それはやめて」
「なんで? 携帯は? 持ってないの?」
「……持っているけど」
「なら、写真撮ろうよ。それで、疲れた時にその写真を見るんだ。元気が出るんじゃないか?」
なかば押し切られるようなかたちで、由梨ちゃんはひかるちゃんと一緒に写真を撮りました。
ひかるちゃんは、やっぱり強引です。けれども、その一連の流れを見ていた陽には、由梨ちゃんが嫌々ひかるちゃんに付き合わされているようには思えませんでした。由梨ちゃんの笑顔が、由梨ちゃんにとって、本当に良い息抜きになったと語っているように陽には思えたのです。
「今日も内巻きでいい?」
ボールペンを由梨ちゃんの髪に巻きつけながら、ひかるちゃんが尋ねます。
「うん」
由梨ちゃんが答えました。
近頃、ひかるちゃんと由梨ちゃんが一緒にいる姿をよく見かけます。
「やっぱりうまくいかないなあ。本当はカーラーの方がいいんだけれどね」
「だめよ。学校に持って来たりしたら、先生に怒られるわ」
「私は別にいいけれど」
「だめ。ひかるはただでさえよく見られてないんだから、やめてちょうだい」
「あ、そうだ。コンタクトレンズ持ってきたよ」
「ひかるって目が悪かったの?」
「全然」
「なら、どうして?」
「使用期限が過ぎている物をね、知り合いがくれたんだ。合うのがあるかわからないけれど」
「あ、この度数なら合うかも」
「これなら、カラコンもあるよ。グリーンとかどう?」
「透明でいいよ」
笑って由梨ちゃんが答えると、ひかるちゃんもパッケージを外しながらにこりと笑いました。
「なんか、すっごく意外」
ひかるちゃんと由梨ちゃんを遠巻きに見つめていた志乃ちゃんがつぶやきます。
「だからね、人は見た目に寄らないのよ」
まるでお母さんみたいなことを言う真尋ちゃんを横目で見ながら、陽はくすりと笑いました。
「そうだ! それよりさ、もうすぐ夏休みだよ。何して遊ぶ?」
目をきらきらとさせている志乃ちゃんに、
「私たち、いちおう受験生だよ?」
真尋ちゃんが苦笑いで答えました。
「わかってるよお。でも、夏休み中ずっと勉強しているわけじゃないでしょ? 中学最後の夏休みだよ。思い出作りも必要じゃない?」
「まあ、それは一理ある、かな」
「ねえ、海行こうよ。可愛いビキニ買ってね、それから大きな浮き輪! イルカの浮き輪で遊ぼうよ」
「ビキニって……また何かの雑誌に影響されたな。第一、志乃のお母さんが許してくれるわけないよ」
「あ、やっぱり? ビキニで海、憧れだったんだけどなあ」
「もう少し大人になってから行けばいいじゃない。陽はどう思う?」
ずっと黙ったまま何かを考えている様子の陽に、真尋ちゃんが尋ねました。すると陽は、
「私は、行けない思う」
と答えます。二人は目を丸くして陽を見つめます。
「真尋ちゃんは大丈夫だと思う。でも、志乃ちゃんは……」
言葉を濁した陽を見て、真尋ちゃんも察したようにうなずきました。
「あ、確かに、志乃は難しいかもね」
「ちょっと、どうして? 二人とも私を除け者にするつもり?」
「違うの、志乃ちゃん。私も真尋ちゃんも、志乃ちゃんと遊びたいと思っているんだよ」
真尋ちゃんはこくりとうなずきます。ですが、それと同時に、
「志乃、さっきの先生の話を聞いてなかったの? この間の期末テストで赤点を取ったら、夏休み返上で補習授業だって言っていたじゃない」
と告げると、見る間に志乃ちゃんの顔が蒼褪めていきました。
「……で、でも、まだ、結果はわからないし……」
「自信あるの? 試験が終わった時、全然だめだったって言っていたよね」
その時、次の授業の始まりを知らせるチャイムが鳴りました。
「……答案、今日返されるんだって」
最後の陽の言葉に、大きなショックを受けた志乃ちゃんは、ふらふらとした足取りで自分の教室へと戻って行ったのでした。




