アースガルズからの刺客 ①
神々しいまでに広大な宮殿。
その宮殿は異様な雰囲気を以て見る者を圧倒する。
宮殿の床、壁、柱、天井から屋根まで、ありとあらゆる箇所が戦士たちの鎧や盾、武器で構成されているのだ。
宮殿の素材となった無数の武具。
それらは新品などではなく、激戦の末に戦場に遺棄されたもののようだ。
所々破損し、ひしゃげてはいるものの、決して見窄らしいことはない。
むしろこの武具の持ち主が、生前力の限りを尽くして戦場に散った事を想起されるが如く、雄々しく光り輝いていた。
この宮殿は〝各々が自らの信念に基づいて戦った一般兵″という〝名もなき英雄″たちの武器…いや魂で創られていると言っても過言ではない。
そんな無骨であるが美しい宮殿。
それはまるで戦士たちが戦場に輝くが如く。
アースガルズに鎮座するこの大宮殿の名はヴァルハラ宮という。
戦争と死を司るという大神オーディンの居城の一つである。
ヴァルハラ宮の大回廊にはヴァルハラ宮にて雑事を行う多くの戦乙女の姿が見かけられた。
だが皆の顔には笑顔がないようだ。
回廊の隅で泣いている者たちもいる。
「ヒック、ヒック…。もうやだぁ。あの戦士たち…。私たちの立場を知っているからってセクハラ三昧…」
「私もお尻とか胸とか…しつこく触られて…。でも上司に相談しようにも、肝心の上司はオーディン様ただお一人…。あのジジィ、「女は戦士の糧となれ」とか言って聞く耳もってくれないし…。うううっ」
「…いつまでこんな生活が続くの…? ホントに最終戦争ってくるのぉ…? …えぐえぐ」
いかに宮殿が壮麗であっても、そこで働く者にとっては喜ばしい職場ではないようだ。
そんな悲壮感漂う大回廊を、一人の女神がヒールをカツカツと鳴らしながら歩いている。
その足音からは不機嫌そうな、緊張しているような様子が感じられた。
女神の服装は優雅さとはかけ離れたカッチリとしたドレス。
その装いは彼女の堅物で神経質そうな雰囲気を、更に硬質的なものにしている。
長い金髪をカチューシャのような髪留めでまとめ、四角形眼鏡をかけたその姿は、さながらお局様…ではなく優秀な秘書のようであった。
女神の名はフッラ。
大神オーディンの妻である女神フレイヤに仕え、知恵と策謀を張り巡らすという女神。
なお、ジエラを人間界に送り込み、そこで大戦果を挙げるように仕組んだのは彼女である。
彼女に気がついたヴァルハラ勤めの戦乙女たちは慌てたように頭を下げる。
ヒソヒソ
「フッラ様よ」
「全く表情が動かないわ。正に鉄面皮って感じ」
「…そう言えばフッラ様って仕事と結婚したって聞いてたけど、今更になってお婿さん探しを始めたってホント?」
「私もああなる前に寿退職したいなー」
「同感。でもここの戦士って、ガサツで粗暴で最悪なのばっかり。ああ、私の王子様って何処にいらっしゃるのやら…」
姦しい戦乙女たちが小声で話しているが、フッラの耳には入っていない。
これからオーディンとの面会が控えているため、頭の中でのオーディンとの対話シュミレータションに余念がないためだ。
だが、そんなフッラに話しかける男がいた。
「んごっ、んごっ、んっん……ッ。げふうぅぅッ。…よぉ、年増女神っ。ヒック」
酒瓶を片手に、酒臭い息を吐く男だった。
紳士とは程遠い、下劣極まりない男だ。
フッラは当然のごとく無視する。
だが酔漢はからみ酒だった。
フッラと並び歩きながら、「年増なら年増らしく、もっと愛想よくしろってんだ。そんなんじゃ男もできねぇ」「そんなにガチガチなドレス着たところで、弛んだ身体は隠せねぇぞぉ」などと暴言を吐きまくっている。
フッラはこめかみの青筋を隠しながら、男…戦士を最後まで無視した。
彼女のからかい甲斐のない態度に飽きたのか、男は「ケッ。お高くとまりやがってよぉッ。ヒック」と何処かに行ってしまった。
◇
ヴァルハラ宮。
玉座の間。
広大な空間の一段高い雛壇で、重厚な安楽椅子でうたたねする老人がいる。
彼は蒼い鍔広帽子を顔に被せて、ガゴッ、ガゴゴッと、イビキをかいている。
フッラが雛壇の側に近づいても全く気づいた様子もない。
こんな暇そうな老人など、田舎の酒場に行けば何処にでもいるだろう。
だが一見して威厳のかけらもない、この老人こそが大神オーディンである。
彼はいつの日か勃発するであろう最終戦争の兆候を見逃すまいと、そしてその最終戦争で神々の先兵となって勇敢に戦う戦士をスカウトするために人間界を監視している。
戦争で勇敢に戦って戦場に散った戦士の魂は栄誉ある『エインヘルヤル』となり、晴れてヴァルハラの門をくぐる資格を得るのだ。
なお、戦争がない国で見どころある戦士を発見した場合、このオーディンという神は無理矢理にでも戦争を起こし、目当ての戦士を戦死させて魂とするのだが。
そして彼が座る安楽椅子は至高座という。
この椅子に座ると〝あらゆる世界において、座る者の望むモノが見える″という神の道具だ。
彼ははこの至高座で眠ることで、戦士の活躍する様を覗き見る事ができる。
武器を振り回して血塗れになって戦う戦士。
女子供を背に守って戦う戦士。
単騎で敵の大群に吶喊する戦士。
オーディンはそんな夢を見ているに違いない。
そんな彼を見上げる女神フッラ。
フッラは謁見の時間になっても惰眠を貪るオーディンを無表情で睨みつけている。
だが起こすわけにはいかない。
機嫌を損ねると、フッラの計画の実現が遠のいてしまう。
「…ふ、ふ、ふばぁっくしょんッ!! …むうぅ」
フッラの殺視線が功を奏したのだろうか。
オーディンの口髭が彼の鼻をくすぐり、盛大なくしゃみと共に彼は目を覚ました。
フッラは二度寝されてはかなわんとばかりに、すぐさま壇上のオーディンに向かって声を張り上げた。
「…オーディン様、此度は私のために貴重なお時間を割いていただき、誠に恐悦に存じます!」
「…おお、お? おお…フッラではないか。…久しいな。未だに独り身であるか? ふあっはっはっは!」
オーディンは開口一番、フッラを揶揄う。
女など彼にとっては利用する存在であり、敬意の対象ではない。
彼によって利用され捨てられた女性は枚挙にいとまがない程だ。
「………」
フッラは微笑を維持するのに精一杯だ。
オーディンの肩にはいつのまにか二匹の烏…思考と記憶がとまっており、ギャアギャアと耳障りに鳴いた。
まるでオーディンと共にフッラを虚仮にしているかのようである。
「………ご機嫌でございますね。オーディン様。誰ぞ素晴らしい戦士様でもお見かけになりましたか?」
オーディンの哄笑を遮るようにフッラが声をかける。
彼の興味は最終戦争と戦士にしかない。
特に戦士の収集には熱心であり、優秀な戦士の魂を手に入れた時などは昼夜ぶっ通しでの大宴会となるほどだ。
「それじゃ!」と、オーディンは上機嫌で膝を打つ。
「とある人間界で素晴らしい戦士に巡り合ったのじゃ。ヘルマンという名の戦士での、その男っぷりといい威風堂々とした態度といい、まったく惚れ惚れする好男子じゃ。きっと戦場でも勇ましいに違いなかろうて」
「ふあっはっはっは!」と機嫌よく笑うオーディン。
この老人は男色の気があるのかと疑うばかりに熱心にヘルマンを語る。
だが内心フッラはドキリとした。
ヘルマンという戦士は、つい最近グナーから聞いた名前と同じ。
フレイヤの内縁の夫(?)であるジエラが、人間界にて見出した戦士と同じ名前なのである。
「…左様でございますか。ではいつものように、かの人間界に戦乱を起こし、ヘルマンという戦士を屠らんとお考えなのでしょうか?」
するとオーディンは顔を顰める。
「…そうしたいのは山々なのだがのう。ヘルマンは人間界の悪竜を斃す程の戦士じゃ。格下の戦士を何人倒したところで英雄やら勇者とはいえん。竜殺しであるヘルマンが英雄として戦死する舞台を整えるのは難しいでのう」
オーディンはヘルマンを戦死させてヴァルハラに迎えたいと思っているようだが、その最期の晴れ舞台を用意するのに苦慮しているようだ。「ヘルマン一人に何千何万という戦士をぶつけ、血と肉と鉄の大津波にて押しつぶそうにものう…」と、気でも違ったかのような事をブツブツと呟いている。
フッラは当初の予定とは異なるが、オーディンがヘルマンという竜殺しに執心している事を利用する事にした。
ヘルマンがジエラと共にいるのなら、彼女の計画はより成功する確率が上がるだろう。
「恐れながらオーディン様。ヘルマンなる戦士をこのヴァルハラ宮にお迎えするにあたり、このフッラに良い策がございます」
「…女の分際で、このオーディンに意見するだと…? フレイヤの端女の女神ごときがでしゃばるでない」
ご機嫌から一転。
オーディンは隻眼でフッラを睨みつける。
隻眼は爛々と不気味に輝き、策を提案しようとするフッラを呪い殺さんばかりだ。
それはつまり、フッラが己では思いつかない策を出すという事に怒りと嫉妬を感じているのだ。
老人の狭量ここに極まれりである。
だがフッラとしてもオーディンに提言すればこういう反応を返されるのは予想がついていたので、用意しておいたご機嫌とりのセリフをへりくだって述べる。
「お怒りはごもっともでございます。ですが『愚者も千に一つは賢き事を言う』と申します。偉大なる賢者である貴方様は、私のような愚者の意見から役に立つ案を見出し、それを踏み台としてより素晴らしい策を講じられる事でしょう」
「……それもそうじゃな。我が知恵の大海に小石を投じ、小さな波紋を作らせる事も一興じゃろう。フッラよ、お主の策とやらを儂に語って見せよ」
◇
ヴァルハラ宮の大広間に、大勢の戦士がひしめいている。
長年にわたり、オーディンが様々な人間界からスカウトしてきた屈強な戦士たちである。
彼らの印象は一様にして〝無骨″、〝粗暴″、〝野蛮″…などなど。
さぞかし生前は個人の武勇のみを頼みに、戦場で暴れまわっただろう。
彼らは戦場に斃れて魂となった後、このヴァルハラ宮に食客として招かれていた。
いつか起こるであろう最終戦争のために、昼は訓練三昧、夜は宴会三昧という生活を送っている。
そして宮殿の壁に整列するのは宮殿勤めの戦乙女たち。
彼女たちは戦場を翔ける戦乙女とは異なり、宴会で戦士たちの給仕…ホステス役を勤める立場にある。
彼女たちは徘徊癖のあるオーディンと、セクハラ戦士たちの相手で疲れ切っているようだ。
そんな彼らを壇上から見下ろすのはオーディン。
そしてその下に控えるはフッラだ。
「…よくぞ参った。我が戦士たちよ。これからお主たちはとある人間界に赴き、一人の戦士を葬ってもらいたい」
ざわざわ
ガヤガヤ
「…なんだって俺たちが」
「俺たちは鍛えに鍛えているんだぜ。今更人間の戦士如き相手にならねぇよ」
戦士たちが騒めくのも無理もないだろう。
彼らは生前、剛勇で鳴らした戦士たちだ。そして死した後は、このヴァルハラ宮の闘技場で腕を磨き続けているのだ。
…という事になっている。
現実にはいつ起こるかわからない最終戦争への緊張感が薄れ、一日の大部分を宴会で過ごす毎日である。
だが、それでも生前は一騎当千とも謳われた戦士である。
人間界の戦士などに早々遅れを取るはずがない。
「ふあっはっはっは。頼もしいことじゃ。じゃが、その戦士も中々の腕前じゃぞ。なにせ竜殺しじゃからな」
ざわっ
「竜殺しを…殺して来いってか!?」
「…おもしれぇなァ」
さすがは生前命知らずで名を馳せた戦士たちである。
相手が竜殺しであっても気後れする者などいない。




