朝の出来事
「お嬢様、ヒルデガルトお嬢様。起きてらっしゃいますか?」
翌朝、グレイが寝室のドアをノックする音で目が覚めた。
うーん……眠い……
「今何時?」
半分寝ながら聞くと
「6時半です」という答え。
こんな朝早くからなにごと?
まさか、お父様に何かあったとか!?
私は急いでガウンを羽織ると、寝室のドアを細く開ける。
「どうしたの? 何かあったの?」
「いえ、それが、お嬢様にお会いしたいという男性が来ていらっしゃいまして……ルーウェン・シェルバーと名乗られておりました」
え、なにそれ。ルーウェン様が?
いくら婚約者とはいえ、こんな時間に訪ねてくるなんてなにごと?
「どんなご用件で?」
「いえ、それが、ただお嬢様に会いにきたとしか仰られなくて……」
ますますわからない。何かあるわけじゃないのかな?
「それだけの用事だったら追い返して。私は寝てますって」
「かしこまりました」
と、二度寝しようとドアを閉めかけたところで思い直す。
「待って、グレイ。やっぱり私が対応するわ。顔を洗うから洗面器を持ってきて」
よく考えたらルーウェン様はこちらの弱みを知っている。杜撰な対応をして秘密をバラされたりなんかしたらたまったものではない。
でも、本当に会いにきただけだったら? こんな早朝に起こされる私の身にもなってほしい。ここは自ら確かめなければ。
グレイが用意してくれた水を張った洗面器で顔を洗い終えると、クローゼットの前に立つ。
取り出したのはいつものドレス……ではなく、黒い奉仕服。袖を通して、結った髪にカチューシャをつけて、瓶底眼鏡をかければ完成だ。
「お嬢様、その格好で応対するので?」
部屋の前で控えていたグレイか驚くのも無理はない。私はいつものドレスではなく、メイド服を着用していたのだから。
「くだらない用事だったら追い返すためよ。まともな用事だったらドレスに着替えるから」
「それなら私が……」
「いいの。自分で見極めたいから」
そうして玄関に向かいドアをあけると、そこにはやたらキラキラした笑顔を浮かべるルーウェン様がいたが、私の姿を見ると眉をひそめた。
「なんだお前は。ヒルダ様はどうした?」
やっぱりこの男、私がそのヒルダ本人だと気付いていない。
「お嬢様はお休み中です。何のご用件でしょう?」
「さっきの男にも言ったはずだ。ヒルダ様に会いたいと」
「どのような理由で?」
「俺はヒルダ様の婚約者なのだから、会いにきて当然だろう。それにお義父上にも挨拶しなければならないからな」
こんな早朝から私に会いに!? 嬉しい!
なんて思うわけないじゃないか。この男、常識が欠落してるの?
「先ほども申しました通り、お嬢様はお休み中です。もちろん旦那様も。こんな時間に訪ねてこられるのは非常識です」
「何故だ」
「女性には何かと準備することもありますし、こちらもおもてなしの用意などしなければなりません。万全の体制でルーウェン様をお迎えするにも時間が必要なのです。事前に書簡かなにかでご連絡頂けませんと、こちらも困るのです。それに、こんな時間にいらっしゃられても普通に迷惑です」
「俺は気にしないが」
「お嬢様が気にされます。それに見たところなにもお持ちでないようですが、こういった場合はお花やお菓子なんかのプレゼントを持ってくるのが常識でございますよ」
ルーウェン様は顎に手を添え、少しの間考えるそぶりを見せる。
「むむ、そうなのか……? では今から花屋と菓子屋に……」
「こんな時間に開いているお店なんてあると思いませんけど」
「……確かに……俺はなんという失態をしでかしてしまったのか……!」
「ともかく、正式な手続きを踏んでから、またいらしてください。あと、こういう時のマナーも学んでくださいね。この件はお嬢様には黙っていて差し上げますから」
「なんと、俺の失態をヒルダ様に隠してくれるとは。メイド、お前はいい奴だな」
いや、本当は全然隠れてないんだけどね。
「早速正式な手続きに則って面会措置を取ることにしよう。それでは失礼する」
言うなりルーウェン様は踵を返す。
私は慌ててその背中に声を掛ける。
「あ、ルーウェン様、少々お待ちを」
「なんだ?」
「お嬢様から伺ったと思いますが、このペンドラゴン家は少々財政的に厳しい事になっております。そのため、パーティにも気軽に出席できないと」
「それがどうしたというんだ」
「ですから、お嬢様に似合うパーティ用の流行のドレスなどを贈られると大変喜ばれると思いますよ? ちなみにサイズは……」
少々恥ずかしいが、そんな事は言ってられない。ルーウェン様に私の体型や靴のサイズをこそりと伝える。
「なに!? それはいい事を聞いた! 早速ドレスの手配をしよう! 何から何まで世話になるな。メイドよ。それではさらばだ」
ルーウェン様は風のように去っていった。
うむ。これは今後が非常に心配である。
とりあえず朝から疲れた。今は現実から目をそらして二度寝しよ。
玄関のドアを閉めると、廊下の奥から主人を気にする犬のようにグレイが走り寄ってきた。
「お嬢様!」
「ああ、大丈夫。さっきの人はもう帰ったから」
「そうではなく! 失礼ながら陰から話は聞かせて頂きました。婚約者とは一体どういうことでしょうか!?」
「あ、そういえば言ってなかったわね。ごめんなさい。私、婚約したの。さっきの人、ルーウェン・シェルバー様とね」
その途端、グレイの目が見開かれたかと思うと、陸に打ち上がった魚のように口をぱくぱくさせる。
「そそそそそ、そんな、ここここ婚約だなんて……!」
が、それもわずかな間。すぐに冷静な様子を若干取り戻すと
「わ、私は反対です。あのような常識のない男」
「でも、あれでも国で一、二を争う竜騎士で、侯爵家の三男なんですってよ」
「な……あの男が竜騎士!? 一体この国の倫理観はどうなっているのか……」
「そうね。あの方だけが特別だと思いたいわ……あ、そうだ。この事をお父様にも報告しないとね」
グレイの瞳がかすかに揺れる。
「ご主人様が許してくださるかどうか……」
「きっと大丈夫よ。お母様が生きていらした頃から、私の嫁ぎ先を捜していたじゃない。侯爵家の三男なんて婿養子に恰好な人選よ。それに、婚約が決まったとなれば、叔父様も領地を返してくださるかもしれないし」
まあ、本当は偽装婚約なんだけど……。
元の生活に戻れるまでの辛抱だ。
「グレイ、お父様がお目覚めになったら教えてね。婚約の事を伝えるから」
「それなら私のほうからお伝えしておきましょうか?」
「それは助かるけど……でも、大切な事だし、やっぱり私から伝えるわ。たとえドア越しでも」
お父様はこのお屋敷に引っ越してきてから一度も私と顔を合わせてくれない。食事も自室兼寝室にグレイが運んでいる。
私の顔を見ると母の事を思い出して苦しくなってしまうからだと。
元々私は父親似だと言われて育ってきたのけれど……そんな私にも少しは母の面影があるのだろうか。
考えると、なんだか憂鬱な気分になって、二度寝する気も失せてしまった。
「せっかく早起きした事だし、お屋敷内のお掃除でもしましようかしら」
「お嬢様、それならば私に任せてくださいと日頃から言っているではありませんか! 掃除中に怪我でもなさったらどうするのですか!」
「だって、グレイには朝食を作って貰わないといけないし、お父様のお世話もあるし、他にも色々あって大変でしょう? それに、こんな朝早くから色々あって、もうお腹が空いちゃったのよ。近いうちにルーウェン様もいらっしゃるはずだろうし、少しでも奇麗な状態を保っておかないとね。せっかくのメイド姿だしお掃除をするにはもってこいよ」
「しかし……」
グレイが何か言いかけたが、私はその横を擦り抜けると、掃除用具のある物置きへと向かった。




