竜騎士レース
「どうぞ」
「失礼いたします。お嬢様、ただいま戻りました」
部屋に入ってきたのは、この家唯一の使用人である執事のグレイ。その名の通り灰色の髪を後ろに撫で付け、眼鏡の奥の鳶色の目には知的な色を宿している。その整った容姿と相まって、まさに執事そのもの。
子供の頃から我が家に仕えていたから、私にとっては兄のような存在だけれど、そんな私から見てもかなりの美形。以前にメイド達がよくキャーキャー騒いでいた。
そんなグレイは、浮浪孤児寸前になるところを我が家で働くことになり、どうにか食いつなぐことができたという理由から、こうして今になっても我が家に仕えていてくれる。
彼ほど優秀なら他にどこにでも就職先があるだろうに。なんという忠誠心。
今日も叔父の家に直談判に行って、領地は我が家のものだからと、いくばくかの金銭を頂いてきたところなのだ。彼のお給金もそこから捻出している。私も叔父の家に付いて行きたかったが、父を一人にするわけにも行かず、今まで留守番していたのだった。
「ヒルデガルトお嬢様。今日は久しぶりにリンゴのパイをお出しできそうですよ」
「まあ、本当?!」
グレイは執事でありながら家事もできるのだ。特にリンゴのパイが絶品。一ヶ月ぶりくらいかな。楽しみー。
それにしても薄給でありながら、私たちの生活のお世話もしてくれるだなんて、グレイの忠誠心恐るべし。
そんな事を考えながら、ふと手元に目を落とすと、例の日記帳が目に入った。
「ねえグレイ、竜騎士レースって確か日の曜日、つまり今日開催されているのよね?」
「お嬢様、賭け事でもなさるのですか?」
「違うの。本物の竜騎士をこの目で見てみたくて。ちょっと競技場まで行って見物してくるから、あとはお願い」
「お嬢様、まさかあの格好で行かれるのですか?」
「あの格好しかないでしょう?」
「ですが、もしもお嬢様の正体がばれたら……」
「大丈夫。危なそうな所には近づかないから」
「しかし……」
渋るグレイを部屋から締め出したのち、早速ドレスを脱ぎ捨てて着替える。
この国の庶民の娘の格好へと。
そうして私はこっそりと街へと繰り出したのだった。
競技場前は活気に溢れ、そこかしこで予想屋が声を張り上げる。食べ物の屋台も立ち並び、あたりは騒然としていた。
こういうところは男性が多いと思っていたが、女性の姿も結構目に留まる。
他にも貴族の馬車がひっきりなしに出入りして、竜騎士レースの人気が伺えるといえよう。
私は完全に一般市民としてそこに存在していた。
だって、いつものドレス姿で一般席になんかいたら目立つし、かといって貴族が利用するような個室が並ぶ、通称「花の回廊」を歩けるようなお金もない。
それに、下手に目立って社交界の知り合いにでも見られたりしたら
「あら、例のご令嬢よ。あの、領地を乗っ取られたっていう……」
なんてプークスクスされた日には耐えられそうにない。
そういうわけで、スカーフで顔を極力隠すようにして、一般人として競技場に足を踏み入れたのだった。
席を確保しようと歩き回りつつ、入口で貰った無料新聞を広げる。クーウェルの出場するのは第9レース。今日のメインレースらしい。このすぐ後だ。
ええと、騎手の名前は……と確認しようとしたところで
「あら、あんたもメインレース目当てかい?」
近くにいた一般マダムに話しかけられた。
「え、ええ、まあ。その、クーウェルというドラゴンに興味がありまして」
「おや、珍しいね。あんたみたいな若い娘さんは、てっきりルーウェン様にお熱だと思っていたのに」
「あの、ルーウェン様というのは……?」
「あんた、まさかあのルーウェン様を知らないのかい!? あんたのお目当てのクーウェルの乗り手だよ」
「え」
手元の新聞に改めて目を落とせば、騎手欄には確かに「ルーウェン・シェルバー」の文字が。
あの日記の持ち主はこの人なんだろうか?
などと考えていると、レース開始を知らせるファンファーレが鳴り響く。
「ああ、ほら、奥から数えて3番目のドラゴンに乗ってるのがルーウェン様だよ。今日もいい男っぷりだわあ。あーあ。あたしがあと30歳若ければねえ……」
マダムはうっとりしているようだが、距離があるため私には豆粒にしか見えない。
むしろドラゴンの美しさに目を奪われた。
輝くばかりの純白の鱗に覆われた、しなやかな身体の曲線。
ドラゴンを近くで見るのは初めてだけれど、それでもクーウェルの美しさは他のドラゴンが霞むほど。
思わず見とれていると、大きなシンバルの音が鳴り響き、それを合図にレースがスタートした。
ドラゴンたちは一斉にその翼をはばたかせ飛び立つ。
競馬なら見た事があるが、ドラゴンのレースは初めてだ。ただ飛んでスピードを競うだけじゃない。様々な障害が用意されているのだ。
たとえば地面すれすれに設置された輪っかをくぐるだとか。かと思えば、高いポールを回避しながら飛び回ったりだとか。
成功するたびに観客席から歓声が上がる。
その中でも例のクーウェルの動きは素晴らしかった。他のドラゴンよりも桁違いの速さで飛び回り、華麗に障害物を回避してゆく。そのたびに黄色い声援も上がる。
結局、他のドラコンに大きく差をつけて、クーウェルは見事優勝したのだった。
「すごい……」
私が圧倒されていると、例の一般マダムが私の手を引っぱる。な、なんだなんだ。いったい何事?
「ほらあんた、ぼけっとしてると他の娘に遅れを取るよ。なにしろルーウェン様との握手会は先着50名までだからね!」
あ、握手会? そんなものもあるのか。
私はマダムになかば引っ張られるように、ルーウェン様とやらの握手会の列に並ぶことになった。
と、次の瞬間
「はーい、ルーウェン様との握手会はここで締めきりでーす」
係員らしき男性が、私の背後の女性たちを遮るようにロープを張る。
なんと、私がちょうど50番目の握手希望者だったらしい。背後では女性たちの不満の声が上がる。
危なかった……マダムに感謝。
そうして無事に握手会に参加してみたものの、前の女性たちの歩みが異様に遅い。握手するのにそんなに時間が掛かるのかな?
疑問に思って前方に目を凝らすと、どうやら握手だけではなく短いお喋りなどもしているようだ。何かをプレゼントしている女性もいる。
ははあ、さてはこの牛歩の原因はあれか。50人限定でもこの有様なのだから、ファンの女性が全員押し寄せたらきりがない。そのための人数制限なのだろう。
ゆっくりと歩きながら、私はルーウェン様を観察する。
さらりとした動きやすそうな長さの金髪に、涼し気な青い瞳。バランスの良い鼻梁が顔のパーツを引き締めている。
うーん、確かにこれは観覧者の女性達が夢中になるのも頷ける。アイスブルーの瞳のせいか、一見冷たい印象でありながら、ファンの女の子達と話す時には笑顔も漏れて、それが良い方へのギャップへと働いている。
これでトップランカーの竜騎士となれば、人気が出るのも当然であろう。
よし、いいぞいいぞ。
そんな事を考えているうちに私の番が来た。
「やあ、よく来てくれましたね。貴女の応援のおかげで優勝することができましたよ。ありがとう」
ルーウェン様は手を差し出しながら握手を促してきた。なかなかフレンドリーだな。
が、私はそれをスルーする。
「握手は我慢します。その代わりルーウェン様のサインが欲しいのです」
「なんだ、そういう事ならお安いご用だ。婚姻届以外になら、喜んでサインしますよ」
その言葉を待っていた。私は鞄から例の日記帳を取り出す。
と、それを目にした途端、ルーウェン様の顔がみるみると険しくなった。
「お、お、おい女。そのノートをどこで手に入れた……!」
言葉遣いが急に乱暴に変化する。顔つきも厳しく、こちらを睨みつける。
え、なに怖い。まさかこれが彼の本性? しかし、このノートを知っているということは、やはり持ち主は目の前の青年なんだろうか。
その豹変っぷりに若干怯えながらも、私は無理やり笑顔をひねり出す。
「あら、私ったら間違えて違うノートを持ってきてしまいました。残念ですがサインは諦めます。ルナティックアイズ……いえ、クーウェルもとても素敵なドラゴンですね。これからも頑張ってください。応援していますから」
「おい、俺の質問に答えろ! どこでそれを……!」
「それはルーウェン様が一番ご存知のはずではありませんの? たとえばベッドの下とか」
私が笑みを浮かべると、ルーウェン様の顔がより一層険しくなった。
「はーい、これでルーウェン様との握手会は終了となりまーす」
その時、係員らしき男性が私を押し出すようにルーウェン様から遠ざける。どうやら握手タイムが終わったようだ。
私は振り返るともう一度ルーウェン様に微笑む。
が、心なしか彼は青い顔をしているようだった。




