94 歌うことはそれほど
「〜〜♪」
「いいぞ、その調子。どんどんこちら側の世界に来るのよ」
「それは無理だと思うの〜」
「そうね、もう頂点に位置してるもの。仮面被ってあの人気だもの。元々確固たる人気なのに、これ以上何しても意味ないのよね」
「にしては、偶に歌とダンスのレッスン受けさせてるよね〜」
「だって、勿体無いじゃない。いざという時に、出来ても良いと思って」
自宅ではなく、美雨の働く金剛プロダクション。そのレッスン場にて奴と玲奈と美雨の3人。
因みに、美雨は普通に休日。玲奈は有休消化中で暇だからとくっついてきたのだ。
流れている曲は、世間では公表されておらず、お蔵入りされてしまったもの。男性アイドル用に作成したはいいが、「この歌詞が気に入らない」「自分の趣味に合わない」等の難癖をつけて、断る事が多い。仕方なく歌詞を変える事もあれば、無かったことにするしかない。
そうやって不採用に終わった曲は、「倉庫行き」と言われ、別の男性によって歌われる事もあれば、そのまま誰にも受け入れられず腐ってしまうものまである。
美雨は、その倉庫行きとなった曲の中から、悠人に歌って欲しい曲をピックアップ。また、事前にその曲のデータを悠人に渡しており、好印象を抱いている事を確認した上で。
どうせ使う機会があるかどうか怪しいし、売らなきゃ大丈夫。そして何より、作詞作曲家達に許可を得ていた。
歌声を録音してそのデータを渡すという契約を交わして。
運命の日、美雨は悠人に問う。
折角だし、うちで試しに歌ってみない、と。
「いいんですか!?」
食い気味に答えられて、少し動揺したが計画通りといった所。
現在奴は、上機嫌で熱唱している。
意外な事に、奴は歌うのは好きらしい。だが、カラオケに行く機会が全くなく、自宅で歌う事などない。
今までのストレスを発散しているかの様にも見える。
しかし、今歌っているのガチガチのラブソング。
だから、真夏も優菜もあまりカラオケに行かせない。
「しかし、不味いわね。まさかラブソングばかり選択されるとは思わなかったわ」
「いや本当、よく聞く鼻歌はラブソング多いなぁ〜って思ってたけど、ここまでとはねぇ〜」
普通の曲であれば耐えられると思っていた美雨と玲奈。しかし、1曲目家族に関して、2曲目も複数の女性に対して、3曲目だってたった1人の為のラブソング。
確実に全ての女性の理性を溶かす目的で歌ってんじゃねえのと疑いたくなる程に奴は歌い続ける。
信用されているんだろうけど、理性的な2人もそろそろ限界を迎えていた。足がガクガクと震えて、顔もとても熱くなっている。手を使って耳を塞ぎたいと思ったが、この機会を逃すのもとても惜しく数センチ手前で止まっている。
「……ふぅ」
「あれ、サメピーと玲奈さん来てたのー? うぇ!? 悠人君!? グラウザーっての方が良いかな!」
「……時未来、さん」
「きゃー!! 私な事知ってくれてるなんて嬉しい! 髪も白くなってて神々しい! それに想像してたよりもカッコ可愛い!」
やはり何も起きないはずもなく、誰かしらが訪れてしまう。非常事態の為に常に持ち歩いている特別仕様の目出しアイマスクを即座に付けた。
時未来。
現役高校生でありながら、人気アイドル総選挙で1位。今時代のアイドルといえば真っ先に名前が出る程の知名度。曲の再生数は億を越え、円盤は常に500万枚以上も売れている。最近では、月9のドラマの主役に抜擢されていた。
「サ……いえ、お会いできて嬉しいです」
この時ばかりは悠人も知られてて良かったと思った。何故なら身分を隠す事なく接することができるからだ。
だから、本名でサインを求めようとして、彼女の服装を見てその言葉を飲み込んだ。
明らかに私服であり、帽子を被り、サングラスを胸元にかけていた。これから誰かしらと待ち合わせして出掛けるのであろう。ならば、普通の女性として扱うべきだと。
私生活にまで、アイドルの行いをお願いするべきではないのだ。この場で会えた事で満足しよう、男は思った。
あっ、よく見ると同じジーパン着ている。
「サイン、貰えるかなぁ?」
「あっ、じゃあ自分もサイン貰って良いですか?」
「きゃー!! もう、ノー問題、全然良いよ!」
便乗。
時未来。
まさか自分のファンとは思わず感激のあまり抱きついてしまった。直ぐに我に返り、慌てて離れるも特に何も言われる事もなく、「時さんらしいです」と笑顔で言われてしまう。
(完全に堕ちた)
(堕ちたねぇ〜)
その光景を見ていた2人は、息を吐くように女性を堕とす少年を見ていた。しかし、運が良ければ、この国のトップアイドル達のデュエットが聞けるかもと、興味を示し始めた。
「折角だから、デュエットしてみない? 未来、あの曲なら悠人君も知ってるから、準備して」
「えっ、サイン貰うだけじゃなくてデュエットも!?」
「……あれですね、分かりました。では、時さん、一曲付き合ってもらえませんか?」
「よ、喜んで!」
時未来。
メディア出演も多い彼女は、一般人と比べると男性と接する事は多いので、免疫はそれなりにある。
しかし、男性から誘われる等、初めてだらけの体験にはちゃめちゃが押し寄せてくる。
木下悠人。
一ファンとして、それ以上は踏み込んではいけないとは思いつつも、優々とマイクを持つ彼女に辞めましょうと言えなかった。
時未来。
アイドルになる時、目指した夢を一つ達成した。
しかも、美雨は気を利かせて、曲用の衣装を持ってきて2人に着せさせる。そして、マイク1本を2人で使うように指示。当然、悠人の左手と未来の右手が重なり合う。その手を離さずにお願いと、一言入れて。
歌い始めた。
それに合わせて悠人と未来は思い思いに熱唱。流石というべきか、初めて会ったというのにお互いの声で邪魔をしていない。
悠人が歌う時、未来は引っ張られる。未来が歌う時、悠人は引っ張られる。2人が歌う時、そっと寄り添う様に。
不満はレッスン場だということを除けば、美雨が見たかった構図。
美雨の一つの夢もまた叶ったのだった。
(まーた、ガチガチのラブソングじゃないの〜。でも、良いわ〜この曲)
玲奈は、それでも良いと思わせる程の歌唱力に自然と耳を傾けていた。
「ありがとう! すっごく楽しかった! また、歌おうね〜!」
時未来。
その一言を最後に去って行った。
元々、友人と会社で待ち合わせしていたが、早く来てしまった為、気晴らしに歌おうとレッスン場に赴いた。
それがこんなことになろうとは、思わなかったが。
ちゃっかり連絡先も渡す事も忘れない。また、悠人が断る前に走り出してしまった。とりあえず、捨てるのも失礼なので、そのまま登録してメールを感謝のメッセージを入れた悠人。そして、直ぐに返信が返ってきた。
「ゲーム実況者、アイドル、次はVtuberかな〜?」
「マジであり得そうね」
「いや、会う機会無いだろ」
「分からないわよ? 悠人君、運命力あるから」
「アプリのガチャだけにして欲しいね」
その後、別のアイドル達に乱入され、また一波乱あったとか。




