78話 歴史の終焉
天正十年六月二日早朝
稀代の英雄、織田信長はその生涯を閉じた。
そして、光秀謀反の一報は妙覚寺にいる嫡男信忠にも伝えられた。すぐに手勢を引き連れ、救援に向かおうとしていた信忠の元へ、村井貞勝が駆け付けたのだった。
「中将様……某、此処に来る前に見て参りましたが、本能寺は早、焼け落ちてござります。明智勢はすぐに此処へも攻め寄せましょう。何卒安土までお逃げ為されませ……
我等、一命を賭して退路を確保いたします故……」
貞勝は懇願した。
「春長軒、まだ父上の生死はわからぬのであろう?
上手く逃げおおせておられるやもしれぬ。
わしが、おめおめ一人で逃げるなど、思いもよらぬ事じゃ」
「否暫く……本能寺は完全に取り巻かれておりました。
いくら上様と言えど、脱出は不可能。
中将様がご存命なれば、織田の家は立ち直れ申す。
それに……それに中将様は家督を譲られた御身……
織田家の頭領は中将様にござりますれば……何卒……」
理を説いて、貞勝は説得しようと試みた。
「父上のおらぬ織田家など、どうする事もできまい。
それはわしが一番わかっておる。それに……
日向守が手抜かりなどあろうはずがない。
京周辺の街道など、すでに封鎖されておるわ……
わしは二条新御所にて迎え撃つ。
大坂の丹羽、蜂屋の軍勢が駆けつけるまで防げば、何とかなろう?
すぐに早馬を出すのじゃ……
そして、町家におる者共にすぐ駆けつけるよう触れるのじゃ」
「心得ました……それしかござりますまい。
新御所であれば、幾分守りも堅固……それに親王様方々、公家衆もおられますれば、時間も稼げましょう。早速手配り致します」
こうして、信忠以下織田家の手勢は二条新御所に立て籠ったのである。
町家に分宿していた、信長馬廻り衆も駆けつけていた。
野々村三十郎や毛利新助といった歴戦の勇士も大勢いた。
そこへ、明智治右衛門光忠の軍勢が押し寄せた。
光忠は予め、光秀に言い含められていた。
「治右衛門……信忠は二条新御所に籠るであろう。
親王様方々がおられる。そこで、すぐに休戦し、徒歩にてご退出頂くのじゃ。
輿を用意しておいて、すぐに内裏へお送りせよ。
また、数に任せて無理攻めしてはならぬ。
敵は小勢とはいえ、歴戦の者も多い。
親王様方々にご退出頂く間に、少しでも多くで囲み、鉄砲で戦え……
近衛邸の屋根の上からならば、城内が狙えるはずじゃ。
一兵でも犠牲を少なくするのじゃ。よいな……」
そして、治右衛門は光秀の言いつけ通りの行動を取ったのである。
休戦が終わると、飛び道具を中心に着実に攻める……
信忠勢は何度か門外の討って出、気勢を上げたが、明智軍の弓鉄砲は如何ともし難く、次第に攻撃を封じられ、着実に討ち取られていった。
此処に籠った手勢も空しく散っていった……
組織的な抵抗が不可能とわかると、信忠は割腹して果てたのだった……
信長同様、遺骸を残さぬまま、見事な死であった……
光秀は謀反の成功を確信した後、本能寺の見聞に訪れた。
そこへ、斎藤利三が報告した。
「殿、上様のご遺体は、本能寺と共に灰燼に帰したと思われます。
探せども、見つかりませぬ……」
「そうか……」
光秀は一言だけ答えた。
利三も心中を察したのか、それ以上語り掛けなかった。
灰となった本能寺に佇み、光秀は独り瞑目した。
そして、今は無き主君に語り掛けた……
「上様……申し訳ござりませぬ……
上様を担ぎ、天下布武を実現させるよう働いたのは某でござる。
その本人が、こうして上様を死に追いやってしまい申した……
どこで斯くも目的が違ってのでありましょうや?
某は、恐らく気づいてしもうたのです。
上様の天下が万民を安寧に導くものでないことに……
上様はご自分を信じ、揺らぐことはありませなんだ。
少しでも家臣の言に耳を傾けて頂いたならば……
いや、今更言っても詮無きことでござるな?
某は、息子十五郎に日ノ本の未来を聞きましてござる。
それは、過酷な未来にて……それを覆すため、上様に背きました。
ですが、後悔はしておりませぬ。
何十年か先には、十五郎が海を渡り、日ノ本以外の天下へ参りましょう。
それは、日ノ本の未来のための布石にござります。
某も近い将来、上様の元に参りましょう。
その時は如何なるお叱りもお受けいたします故、お許しくださりませ。
そして……都合のよい申し様ですが……
日ノ本の未来の為、十五郎を見守り下さらぬか?
彼奴が地獄へ行った折には、土産話を持参させます故……」
光秀の目尻からは、一筋の涙が零れた……
だが、今の光秀にとって感傷に浸る時間などなかった。
この騒乱の様子を、数多の闇の眼が見届けていた。
伊賀の三左の手下たちである。そして、急ぎ備中へ使者が飛んだ。
それ以外にも、この変の顛末はあらゆる方面へ伝えられるに違いない。
一方、備中高松である。
十五郎は、源七とともに小早川隆景の陣中にいた。
二人を残し、周りは厳重に兵に囲まれている。
「源七……そろそろ時間であるな?
無事成功した事とは思うが……」
「若殿……大殿ほどの武将が仕損じるはずがありませぬ。
懸念はこの後の動きでありましょう?」
源七も心配している様子だった。
斯くいう俺も不安だったのだ。果たして毛利がどう結論するのか……
「うむ。仮に事が成就したとして、毛利家がどうするか……
わしは、秀吉の背後を突くとは思っておらぬ。
だが、どのように動くかも読めぬのじゃ」
「左様ですな……某の頭では到底理解もできませぬ」
「少しでも時間を稼ぎたいものよ……」
源七との間でそんなやり取りをしていた頃、変は成功を見ていたのだった。
俺の手の内にある歴史は此処で終わる……
そして、今後は未知の歴史と相対し、克服せねばならない。
俺は、ジリジリと身を焼く日輪を見上げた。
白く光り輝き直視は出来ない。
そう言えば、未来でもこの日輪は変わることなく、我らを照らしていたんだな……
思わずそんな感傷に囚われたのだった……




