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水色桔梗ノ末裔   作者: げきお
本能寺への道
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77話 魔王の息づかい

天正十年六月二日未明


丹波亀山城を進発した明智軍は、漆黒の闇の中、老ノ坂を越えようとしていた。しかし、雑兵の中では訝しみ、ざわつく者も多かったのだ。中国に向かう場合、老ノ坂の手前で街道を右に進み、三草峠越えをするのが通常である。そこに疑問を生じた者もいたのだ。

老ノ坂を下りた軍勢は沓掛という在所で小休止した。


光秀は、此処で明智忍軍の組頭たちを密かに呼び出した。

そして、告げたのである。

「皆の者、よく聞いてほしい。

これより、惟任日向守光秀、上様に対し奉り謀反いたす。

薄々気にかけていた者もいたかもしれぬが、今がその時じゃ。

今まで十五郎や他の同盟者と入念に準備しての決意である。

そして、天下を統べ、日ノ本の発展に尽くそうと誓った。

明智家と日ノ本の未来は、お前たちの働きに掛かっておる。

わしに力を貸してほしい‥‥‥」


「大殿様、よくぞ申して下された‥‥‥

この上は我ら甲賀衆、一層の忠誠を誓いまする」

源三が即座に答えた。


「うむ。頼み入る‥‥‥

では、これより手配りを申し渡す。

源三と弥一の組は、京の町に潜入し、間者や通報しようとする者あれば、必ず討ち取れ。そして、本能寺が焼け落ちるのを見届ければ、すぐに河内方面に向かうのじゃ。

堺におる徳川殿を討ち取ってもらいたい。伊賀方面から三河に帰還するを企図するであろうから、木津川の渡しを渡るまでが勝負じゃ」


「承知。必ずや成し遂げまする」

源三、弥一等が即座に答えた。


「源八、源九、疾風の組は訓練した擲弾兵部隊を率い、瀬田方面に向かい橋を確保するのじゃ。山岡の軍勢が来るであろうから奇襲にて討ち取り、必ず確保せよ。

すぐに左馬助の軍勢を遣わす故、時間を稼ぐのじゃ」


「承知致しました。一命を賭して」

皆が唱和した。


「では行け‥‥‥くれぐれも命を粗末にはするでないぞ」

最後に光秀はこう付け加えた。



一方、全軍に対して光秀から命令が下された。

「上様からのお達しにより、これから洛中に向かい、我らが馬揃えを御覧に入れる。下々の者まで粗相なきよう心がけよ‥‥‥」

この陣触れで、誰しもが先程三草越えをしなかった事に得心したのだった。さらに光秀は軍目付の安田国継を呼び、先駆けを命じた。

抜け駆けする者、前途に怪しき者あれば、悉く切り捨てよという非情な命令である。そして、国継は手勢を引き連れ先行し、桂川を渡ったのだった。

国嗣は早朝から畑に瓜を作る農民が発見した。農民たちは殺気立った武者が急ぎ来るのに驚いて逃げたので、これを追い回して2、30人斬り殺した。

憐れ……とも思ったが、厳命なので仕方なかったのだ。


六月二日未明、桂川に到達すると、光秀は触をだして、馬の沓を切り捨てさせ、徒歩の足軽に新しく足半あしなかの草鞋に替えるように命じ、火縄を一尺五寸に切って火をつけ、五本づつ火先を下にして掲げるように指示した。明智軍の軍紀による戦闘準備命令である。

夜明け頃、桂川を渡り終えた先鋒の斎藤利三は告げた……

曰く、「殿はこれより天下様に御成りになる。出世は手柄次第と心得よ」

そして、市中に入ると、町々の境にあった木戸を押し開け、潜り戸を過ぎるまでは幟や旗指物を付けないこと、本能寺の森・さいかちの木・竹藪を目印にして諸隊諸組で思い思いに分進して、目的地に急ぐように下知したのだった。

軍勢は、各隊が粛々と北上していく。

辺りが薄明るくなる頃、到着した部隊は本能寺を包囲し終えたのである。

先鋒の斎藤勢は完全武装の三千。十分な兵力と言えた。


利三は深く息を吸い込んだ。「是で良いのだ……」心の中でそう呟いた。

そして、勢いよく采を振ったのである……

鬨の声が大きくこだまし、辺りは喧騒に包まれた。



その頃、信長は丁度起きだし、顔を洗い清めようとしたところであった。

妙に蒸し暑く、ほとんど寝付けないでいた。だが、妙な胸騒ぎを覚えたとか、そういったこともなく、珍しい事でもなかった。この時間に外が騒がしい事に違和感を覚え、すぐに蘭丸を呼んだのである。


「お乱……この騒ぎは何じゃ?下々の者がじゃれ合っておるのか?」


其処へ、普段は冷静な蘭丸が上気した面持ちで跪いた。

「上様、すぐにお支度を……お逃げくだされ。謀反でござります」


「謀反……とな……如何なる者の企てか?」

あくまで冷静に信長は問いかけた。


「水色桔梗の旗印……明智が者と見えまする……

妙覚寺には信忠様の手勢が居られます。

町家におる馬廻り衆も駆けつけましょう。

お急ぎくださりませ……」


「ハッハハハハハ……明智とな……光秀が謀反とな……

お乱、槍弓を持てぃ……一戦した後、始末は自分でつける」


「しかし……諦めてはなりませぬ。我等一命を賭して……」

蘭丸は懇願した。


「お乱よ……光秀がいざ謀反して、わしを此処から逃すと思うか?

彼奴の力はわしが一番わかっておる……

旗揚げしたが最後、すべて手の内ぞ……

だが、わしの首は渡さぬ……髪一本までな……」


「上様……某……今この時、真の生を得た喜びにて……」

蘭丸はそういって微笑んだ。


「うむ。共に参ろうぞ……」


こうして、信長は乱戦の中に躍り出たのである。

信長出馬と知って、明智勢はいきり立った。

信長が弓を射る……矢は正確に明智軍の雑兵の眉間に吸い込まれた。

二度までも正確に射倒す。そして、弓の弦が切れると槍を持ち戦う……

武芸にも秀でた信長の槍に雑兵が串刺しにされる。

信長自身と、その周辺だけは、壁が出来たように進めなかった。

それを見た斎藤勢の弓隊が前面に出て、一斉に射撃する。

信長を守る兵の幾人かが打倒された……

そして、信長の腕にも弓が突き刺さる……

それを無言で引き抜くと、信長は奥へと歩み出した。

「女房衆は苦しゅうない。急ぎ罷り出よ……」

そう告げ、殿中の最奥の部屋に籠ると、内側から戸を閉め、火を放った。

信長はいつものように胡坐をかき、瞑目した……


「光秀……いや、十五郎の仕業か……ずっと前から……

わしを討つ腹積もりだったのかの?

日ノ本以外の天下へ、共に参ると……申したの?

おまえ独りで行くと申すのか……

ふっ……今此処に至って考えても詮無き事か……

しかし、いい夢を見た……戦国の世を堪能し尽くしたの……

先に地獄で待っておる。あまり長く待たすでないぞ……

どうも、似合わぬな……第六天魔王と呼ばれたわしが……

今この時になって、命を惜しんでおる……

良かろう……日ノ本以外の天下……

お前がわしの代わりに堪能致せ……

そして、地獄でその有様を聞かせよ……ワッハッハッハッハ」


こうして、稀代の英雄、織田信長の生涯は幕を下ろしたのだった。

天正十年六月二日辰の刻前であった……






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