まさに今、そこに転がっている危機
日本がアルゼンチンを威嚇しているところにアメリカが武力介入となれば、それはもう恐ろしい騒ぎになるのは間違いない。
さしずめ我が双子の兄は何だろう。 油田か? レアメタルか?
いや、天然ガスの方がイメージにあうな。つかみどころっつーか手ごたえがないところなんか、ぴったりだ。
とばっちりを食らう気も観戦する気もない俺は、授業が終わるなりさっさと教室を後にした。
今日は多分、まともに掃除になるまい。
SHRをやるのも面倒だったので、部室に向かう道すがら、職員室に立ち寄った。
幸いなことに、まだ我らが担任は在席中だ。
「センセー、伝達事項ッス。いま教室で三竦みの大戦が勃発してますんで、行ってもムダっすよ」
女三人寄ればかしましい、という。男に勝ち目は全くない。
だるそうに天井を仰いだ担任の心痛や、いかばかりか。 ――単に面倒くさがってるだけかもしれない。
「……伝達ご苦労。ついでにもう部活行けと伝えてくれ」
「イエッサー」
敬礼で返した俺は、くるりときびすを返して、はたと動きを止めた。
職員室に、奥野の姿を見つけたからだ。目の前にはおそらくクラス全員分のノートが山と積まれている。
「いや奥野さん、大丈夫? ちょっとこれ全部は無理でしょ」
「大丈夫ですよー、わたし、こう見えても力持ちなんですから」
「はあ、そりゃ頑張るね。……委員長はどうしたの」
「え、っと……あの、人生の一大事とかで……」
「あー、なるほど。一己君ね」
数学担当の律先生があっさり納得する。
おい幼馴染、お前こんなところでこんなこと言われてんぞ。もうちょっと自重しろ。
それはさておき、俺は考えた。
これは多分、千載一遇のチャンスだ。
(……ふむ)
こんなときテレパシーが使えたら便利だと思うが、いくら双子とはいえそんなものは持ち合わせていない。
代わりに文明の利器を取り出し、手早く兄弟宛にメッセージを送った。
≪奥野が大荷物に苦戦中。職員室に急行されたし≫
よし、これで義理は果たした。
このシチュエーションで一己が奥野を手伝えば、好感度アップ間違いなしだ。是非とも感謝してもらいたい。
満足して顔を上げたとき、 律先生と――俺が所属する数学部の顧問と、ばっちり目が合ってしまった。
「おー、なんだ、いいとこにいるじゃない。ニキ君」
「えっ?」
奥野が驚いた声を上げて、あわててこっちを振り返った。
実にまずい展開だ。しょっぱなから作戦が躓いた。
「さて。状況は見ればわかると思うけど、まさかこの大荷物を女の子一人に運ばせようなんて言わないね?」
「……えーと」
「言ったらもれなくコレは没収です」
にこにこと数学部の顧問が掲げたのは、今日もらえるはずの数学パズル雑誌だ。
――おい、脅迫じゃねぇかそれ。
「あの、ほんとに大丈夫です。井島君も予定があるだろうし……。わたし、すごくひまなんです!」
「なーに言ってんの。こういうときは素直に任せるもんよ」
あわてた様子の奥野に、律先生は涼しい顔で言ってのけた。
……奥野が本気で遠慮してるのはわかるんだが、ここで「じゃあよろしく」なんて言ったら確実に律先生にどつかれるだろう。
「……いいよ、どうせ一度戻るし」
「あの……ごめんね」
「いいって。いくら俺でもそこまで薄情じゃねぇよ」
きょとんと目を瞬いた奥野が、はにかむみたいに笑った。
「薄情なんて思わないよ。井島君は、優しいもの。ありがとう」
「……どーいたしまして」
どうにも落ち着かない気分になりながら、ノートを抱えて職員室を出た。
さすがに半分ずつというわけには行かないから、三分の二くらいは俺持ちだ。
一己のやつ、メールは見ただろうか。さっさと来てくれりゃ、押し付けて退散するんだが。
まあ、どこかで行き会うだろうと思いたい。
授業と放課後の間の時間は、いつもなら掃除をしてSHRをやっている時間帯だ。
廊下はやけに静かで、窓から入り込む日差しがやけにのどかだった。この学校の敷地内のどこかで、極東と北米と南米が火花を散らしているとは到底思えない。
――いいかげん苦しいなこれ。いっそアルゼンチンじゃなくてアイルランドだったら日米愛で漢字三文字、楽なモンなんだが。アルゼンチンの漢字表記って何だっけか。
そんなどうでもいいことを考えていた俺は、奥野の足音が小走りになっていることに、ようやく気づいた。
足を止めて振り返れば、奥野が肩を上下させながら苦笑を浮かべる。
「悪い。速かったか?」
「ううん、ごめんね。わたし、足遅くて」
タッパの差があるんだから、もうちょっと気を使うべきだったか。
そもそも急いで教室に着いても、あまりメリットはないのだ。
一己はまだ現れない。
俺が作ってやった千載一遇のチャンスをふいにする気か、あいつ。携帯見てないのか?
「えーっと。ああ、そうだ。SHRはナシだとさ」
「そうなの? ……ふふ、たしかに止めに入るのは難しいかもね」
「俺は止める気ないけどな」
楽しそうに奥野が笑う。
細い声は、鈴を振るみたいな響きがあった。
「でも、やっと日常が帰ってきたって感じがするなあ」
いやな日常だ。
俺はもっと平和に過ごしたい。
「井島君は大変そうだけど、みんな綺麗な子ばっかりだもんね。丘ちゃんが盛り上がっちゃって」
「……放送部のヤツ……美人ならいいってもんでもないだろーに……」
心底嫌そうな顔で言うと、奥野が小首をかしげた。
「そう? みんな可愛いと思うけど……」
「そうだな。一己が絡まなきゃな」
うんざりした気分はしっかり伝わったのだろう。
奥野は困ったように笑った。
「みんな、恋をしているから可愛いんじゃないかなぁ。女の子だもん」
「あれを可愛いというなら異議を唱えたい」
「えぇ?」
どうにも認識の相違があるようだ。自信満々に一己をとりあう姿の、どの辺が可愛らしいというのだろう。
そう、奴らはなぜ揃いも揃ってああも迷いなく好意をアピールできるのだろうか。
一己が拒むことはないと知っているからか?
確かに、あいつは他人を否定しない。よく言えば懐が深い、悪く言えばこだわりがない。まあ、俺が知っている範囲での話だ。
一己はとりわけ好意に鈍いわけではないのだが、「べ、別に好きなんかじゃないわよ!」という照れ隠しに、「そうなのか」とあっさり納得して引き下がってしまう人間だ。だから疑似ハーレム状態というか、つかず離れずで周囲に女の影が増えていく。クラスの男子が殺意を覚えるゆえんである。
これまでは、そうだった。
――でも、もしあいつが奥野とうまく行くことがあったら、そうもいかないだろう。
うむ。もしそうなったら、どうするんだろうか。
彼女ができたから誤解されたくない、なんて台詞を、言えるのだろうか。あいつが。
考え込んでしまった俺に何を思ったのか、奥野はフォローするように言った。
「ええっと……じゃあ、そういうところが可愛いっていうのは、私の主観かも。でも、坂田さんもネヴィヤさんも、すごくいい子だよ。オフェリア先生は、まだよくわからないけど……井島君を好きな人は、素敵な人が多いなって思うの」
「……まあ、確かにな」
確かに、真弓もネヴィヤも、基本的に単体ならいいやつだ。一己が絡むと迷惑なだけで。
そして俺の人生というものは、基本的に一己とかかわらずに生きていけるモンではないのである。少なくとも、今のところは。
「ああ、でも、奥野もいいやつだと思うぜ」
「え……」
奥野が足を止めたので、俺はつられて立ち止まった。
ものすごく驚かれた気がする。
目をまるくして俺を見ていた奥野が、やがて、くしゃりと笑った。
「……ありがとう。嬉しい」
――あれ? なんだ、これ。
何か、妙に引っかかる。
どこか覚えのある反応だ。だけど、どこで見たのか、なんだったのか思い出せない。
「っと、悪い、急ぐんだった」
「あ、うん。ごめんね、立ち話しちゃって」
とっさに嘘をついて、俺は何かにせかされるように足を速めた。
自分でもよく分からないが、何かがまずい気がしたのだ。直感には従うことにして、それから先は無言で通した。
結局教室に着くまで一己は現れなかった。
あのバカ、俺の厚意を無にしやがってと内心で毒づきながら扉を開けて――思わず、天井を仰ぎそうになる。
無人だった。教室が。
なんだなんだ、何の陰謀だ。誰の策略だ。つーかマジで放送部辺りが仕組んだんじゃねぇかこれ。だとすりゃ相手を間違えているとクレームをつけたい。
「あれ? ……みんな、どこ行ったんだろうね」
「体育館か裏庭かグラウンドってとこだろ、あいつらの決戦なら」
「うーん、初日で決戦になるかなぁ」
奥野が不思議そうにつぶやく。
俺は適当な相槌を打ちながら、ノートを教壇に置いた。
「悪い、ここ置いとくな。あと頼む」
「うん、ありがとう」
笑顔で返した奥野が、一瞬だけ迷うような目をして、うつむいた。
――やばい。なんかこれは、本格的にまずい気がする。
「じゃ、また明日――」
「井島君」
何かを決意したように、奥野が絶妙のタイミングで顔を上げる。
まっすぐでひたむきな目。
それは、見覚えのある色をしていた。
「……井島君、わたしね、井島君のこと――」
――うわ待った、やめてくれ!
内心で俺が叫んだとき、唐突に教室の扉が開いた。
そこにいた田沼の坊主頭に、俺は本気で後光を見た。
「やーっとみつけた! おいニキ、いいかげんあいつら止めろって! グラウンド占領して練習できねーんだよ!」
「……はあ? ったく、めんどくせぇな」
よしいいぞ俺、すごく自然な返事だ。やればできるじゃないか。
平然とした顔をしていることを祈りながら、俺は奥野に手を振った。
「悪い、奥野。あと頼む」
「えっ……あ、うん……」
「へ? なに、お前ら何の話?」
「いいから行くぞ。どうせ先輩がキレかけてんだろ」
そうだった! と顔色を青くした田沼がとたんに俺をせかし始める。
そそくさと教室を後にして校舎を出た。
強張っていた背筋にじわじわと実感が忍び寄る。俺は、脱力するようにしゃがみこむと、肺の空気を全部搾り出す勢いでため息を吐いた。
「おーい、ニキ? どうしたー?」
「……ちょっと俺、今ならお前に一週間くらい本気で感謝できそうな気がする」
「なんだその具体的なの」




