第二話 外回りという仕事
雨は、朝よりもはっきりとした降り方に変わっていた。
駅を出た瞬間、空気が一段冷たく感じられる。歩道に落ちる水滴の音が、街の雑音を均していく。こんな日は、人の流れもどこか鈍い。
最初の訪問先までは徒歩十分ほどだった。
地図で見れば近いが、実際に歩くとそれなりに距離がある。ビルとビルの間を抜け、信号を二つ渡る。スーツの裾が、少しずつ重くなっていくのがわかる。
傘を差し直す。
強い風が一度吹いたが、骨が鳴ることはなかった。布は張ったままで、形を崩さない。視界の端で、誰かの傘が裏返るのが見えた。
外回りの仕事は、天気に左右されやすい。
晴れていれば、多少の無理も効く。雨の日は違う。足取りも、気持ちも、確実に削られていく。それでも、約束の時間は変わらない。
訪問先のビルに入り、傘をたたむ。
水滴はほとんど残らず、床を汚すこともなかった。受付を済ませ、エレベーターを待つ間、腕時計を見る。少し早い。こういう余裕だけは、外回りの仕事で身についた。
商談は、可もなく不可もなく終わった。
決定は先送り。よくある結果だった。担当者は丁寧だったが、言葉の端々に慎重さが滲んでいた。こちらも、それ以上踏み込むことはできなかった。
ビルを出ると、雨はさらに強くなっていた。
次の訪問先まで、また歩く。スマートフォンでルートを確認し、傘を開く。
足元に注意しながら歩いていると、不意に思う。
この仕事は、どこまでが自分の責任なのだろうか。
数字が出なければ、努力が足りないと言われる。
だが、努力がそのまま結果に結びつく仕事でもない。相手の事情、タイミング、景気。自分ではどうにもならない要素が、いつも隣にある。
それでも、行かないわけにはいかない。
外に出て、会って、話して、帰る。その繰り返しだ。
交差点で信号を待つ。
横断歩道に、無数の傘が並ぶ。色も形もばらばらで、それぞれが自分の世界を守っているように見えた。誰も、隣の傘を気にしていない。ただ、自分の足元を確保することに集中している。
ふと、父の背中が重なった。
雨の日も、雪の日も、父は変わらず家を出ていった。子どもだった自分は、その理由を深く考えたことがなかった。ただ、そういうものだと思っていた。
父がどんな仕事をしていたのか、詳しくは知らない。
聞けば答えてくれたのかもしれないが、聞かなかった。今となっては、それが少しだけ心に引っかかる。
次の訪問先に着く頃には、靴の中が少し湿っていた。
それでも、傘は問題なく機能している。風に煽られても、布は安定したままだった。
この傘は、派手ではない。
持っていて気分が上がるわけでもない。だが、壊れない。濡れにくい。たたみやすい。外回りという仕事には、それで十分だった。
商談を終え、再び外に出る。
雨はやむ気配を見せない。今日は、まだ終わらない。
歩きながら、胸の奥に小さな疲れが溜まっていくのを感じる。
それでも足を止めないのは、惰性だけではない。理由ははっきりしないが、やめてしまう決定の方が、もっと重く感じられた。
傘を少し傾け、風をやり過ごす。
折れないことが、強さなのかどうかはわからない。
だが、少なくとも今日は、折れずにここまで来ている。
そう思いながら、次の駅へ向かって歩き続けた。




