第82話
三月二十六日、土曜日。
姫奈は既に春休みに入っていた。その日はアルバイトを終えた後、明日が第四日曜日でEPITAPHが定休日のため、晶の部屋に向かった。一泊用の手荷物を準備していた。
晶の部屋に着くと、姫奈は晶に続いて洗面所を借りた。
クレンジングシートを使用するため、眼鏡を外した。
レンズに度の入っていない眼鏡なのだから、視界が変わることは無かった。レンズにブルーライトを遮断する効果があるが、その機能が欲しいわけでも無かった。
あくまでも、ファッションとしての眼鏡だった。
童顔を誤魔化すために掛けていたのだと、姫奈はふと思い出した。忘れそうになるほど、自分にとってどうでもいい理由となっていた。
鏡に映った自分の顔は、化粧をしているとはいえ、身長の割に確かに幼く見えた。
しかし、以前までとは違い、嫌な印象では無かった。
化粧をしたところで、やはり根本的には変わらない。この顔も『自分』を構成するひとつなのだと、姫奈は悟った。
そして、顔も身長も名前も――そんなものでは自分の価値を測れないとも、悟っていた。
姫奈がこれまで抱えていた数々のコンプレックスは、最早どこかに消え去っていた。嫌だった部分を含め自身を愛せるほどに、自信に満ち溢れていた。
表面から伝わる情報での、万人への理解は望まない。他人にどう思われても構わない。
内面にあるものは決して後ろめたくはなく、誰にも否定できないのだから――
そう割り切った現在の姫奈にとって、眼鏡は最早不要なものだった。
この世界を歩くための、仮面としての役目は終えていた。
姫奈は洗面台に置かれたそれを見下ろしながら――その隣にあった晶の医療用眼帯が目に入った。先に洗面所を使用し、外されていたものだった。
晶さんは、どうして眼帯を着けているんだっけ?
ふと、疑問に思う。どうでもいい理由ではなかったはずだが、姫奈はすぐに思い出せなかった。
――私は他人に見せたくないからこうやって隠してる。
ようやく、初めて義眼を見せて貰った時のことを思い出した。
あの時も――何度も見てきた現在も、義眼は本物と変わらない精巧なものだった。左右の瞳で虹彩異色症のような違和感も無かった。
姫奈の目からは、隠す必要は無いと思った。だから、どうして義眼を見せたくないのか、疑問だった。
まず浮かんだのが、義眼を持つ者にしか分からない悩みだった。姫奈はなるべく晶に寄せたつもりだが、それでも義眼をどうしても見せたくない感覚があるのなら、理解できなかった。
そして、次に浮かんだのが――他に何か理由があるのではないかという疑いだった。
だが、姫奈はすぐに首を横に振った。
愛する人のことは、大抵は理解しているつもりだった。その自信があるからこそ『空白』の部分を認めたくなかった。そのようなものは無いと思いたかった。
「おい? まだか?」
キッチンから晶の声が聞こえ、姫奈は我に返った。
「はい! すぐに行きます!」
急いで化粧を落とし、髪をクリップで纏めると、キッチンへと向かった。
今夜はカレーライスを作ることになっていた。晶が具材を切っていた。
「お待たせしました」
「ジャガイモは大皿にラップかけてレンジで五分。鍋は油たんまりひいて温めてくれ」
まな板から顔を上げた晶の顔を、姫奈はじっと見つめた。
晶は帰宅後、医療用眼帯を外していた。玉ねぎを切っていたからか、左目だけが辛そうに涙ぐんでいた。それを除いても、やはり左右の瞳に違和感は無かった。
「どうした? 大丈夫か?」
「は、はい! 任せてください!」
ずっと顔を見つめていたせいか、不審げな表情の晶から確かめられ、姫奈は慌てて頷いた。
わたしも眼鏡を外しますんで、晶さんも眼帯を外しましょうよ――
このタイミングでの提案は流石に唐突であると思い、姫奈はひとまず料理に専念した。
*
夕食とキッチンの片付けが済んでからだった。
「ちょっといいか? 衣替え手伝ってくれ」
姫奈がキッチンのリモコンで風呂の湯張りを始めた時、晶から声をかけられた。
この一室に出入りするようになり、姫奈はおよその間取りを理解していた。しかし、まだ入ったことの無い部屋がいくつかあった。
晶の声がした方へと歩くと、扉が開き、明かりが漏れている部屋があった。
「うわぁ……」
姫奈は思わず声が漏れるほど、悪い意味で驚いた。
夏の日だとは忘れたままだったが、一度だけ中を僅かに覗いたことのある部屋だと思い出した。
未開封のものも含め無造作に積み上げられた段ボール箱と、衣装ケース。そして、ウォークインクローゼットがあるにも関わらず、移動式のハンガーラックがいくつか置かれていた。
衣装部屋として独立しているのだと、姫奈は理解した。
衣服の量は、姫奈の感覚では明らかに過剰だった。それだけではなく、ハンガーラックに掛けられた衣服は夏服から冬服まで、姫奈がこの一年間のどこかで見たものだった。
「晶さん……。あのへん、クリーニングには出したんですか?」
姫奈は、ビニールカバーの被っていない夏服を指さした。
「出そうとは思ってたんだが、気づいたらこんな時期になってだな……」
「もう春ですよ!? 季節が一周しちゃうじゃないですか!?」
どれも値段の高そうな衣服だったので、勿体ないと哀れんだ。そして、夏服を今さらクリーニングに出しても手遅れなのではと思った。
「ちょうど明日が休みでよかったですよ。明日、冬服と秋服だけでもクリーニングに出しましょうよ」
「ああ。エントランスのコンシェルジュに頼んだらな、宅配クリーニングを手配してくれるぞ」
「そんな便利なサービスあるのに放っていたんですか!?」
自慢げに紹介する晶を、姫奈は怒った。
たかが衣替えだが、衣服の量といい散らかし具合といい、確かに手伝いが必要な惨状だった。どうしてここまで放っておいたのだろうと、姫奈は頭を抱えた。
「晶さん……。ここにある服、ぶっちゃけ全部必要なんですか?」
未開封の段ボール箱が割と目につくため、まずはそれが疑問だった。この一年晶の格好を見てきた身として、数こそあれど、実際に使用するのは限られる気がした。
「どうだろうなぁ。見てみないと、正直わからん」
「それじゃあ、今日と明日でひとつずつ事業仕分けしましょう」
「は? 言いたいことはなんとなく分かるが、そういう言葉じゃないだろ?」
「断捨離ってことです! ミニマリスト精神です!」
「お前、意味分かってないだろ!?」
あまりやる気ではない晶に構わず、姫奈は動き出した。まずは、散らかった部屋の整理から始めた。
結果的にこの物量がどの程度減るのかは見当がつかないが、姫奈としては四月を迎える前に片付けてしまいたかった。
明日は市街地の方へ遊びに行く予定だった。残念には思うも、きっぱりと諦めがついた。
*
きりのいいところで衣服の整理を終えると、ふたりで風呂に入った。そして、少しの間リビングでテレビを観た後、寝室へと向かった。
「わたし……卒業したら、晶さんと一緒に暮らしたいです」
姫奈はベッドに横になりながら――暗い部屋で、スタンドライトの明かりに照らされた晶の横顔を眺めた。
「同棲ってことか?」
「……そうなりますね」
寝返りを打った晶と、目が合った。
真顔でその言葉を訊ねられると恥ずかしくなり、姫奈は照れ笑いをした。
「晶さんは生活力が無さすぎです。わたしが居ないとダメです」
この寝室こそ最低限の家具で落ち着いているが、かつてはあの広いリビングに不自然にベッドが置かれていた。そして衣装部屋の件もあり、晶ひとりを放っておけない気持ちが強まった。
もっとも、世話以外にも同棲を望む単純な理由はあるが――
「お前にそう言われると、世話ないな。……いいよ。私も、お前と暮らしたい」
「それじゃあ、晶さんは料理をお願いします。わたしはそれ以外の家事をやりますんで」
「いや、そういうのは曜日の当番制だろ。お前の作った料理を私は食べたい」
「いいですけど、晶さんに洗濯や掃除できるんですか?」
姫奈は晶と、ベッドの中で笑いあった。
「別に、ここみたいに豪華な暮らしは望みません。2LDKぐらいの所で、わたし基準で普通な暮らしが出来たらなって思います」
「私も、正直ここは住み難い。頃合いを見て麗美に返すよ」
「そのためにも、まずは断捨離ですね」
「そういうお前も、服や荷物は少なくしろよ?」
「わたしは元々、そんなに持ってないですよ」
姫奈は庶民的な暮らしで充分だった。晶と一緒に居られるなら、どんな所でもきっと幸せだろう。
そう。贅沢は望まない。晶の財産とて無尽蔵では無いので、今後大きな店を構える以上、節約するに越したことはないと思った。
「この傷……落ち着いたら、そろそろ治そうと思う」
晶はそう言いながら、右胸の傷跡を指さした。
傷跡を治せないのかといつか訊ねたことを、姫奈は思い出した。
あの時は誤魔化されたが、やはり治せるのだと知り――晶がそういう気持ちになったことも、嬉しかった。
「それじゃあ、これでミニスカート履けますね」
姫奈は晶の右股の傷跡を撫でた。
「バカ。前も言ったかもしれないが、歳の問題だ」
「えー。わたしのためにも履いてくださいよー」
どうしてもという望みではないが、姫奈は晶をからかった。
明るい話題に、気分が上がっていた。
「そうだ。わたし、猫ちゃんを飼ってみたいです。……今まで一度も飼ったことないですけど」
「猫? 私も飼ったことないから、全然知らないぞ? いろいろ種類あるんだろ?」
「別に、雑種でいいですよ。保護猫の譲渡会があるみたいなんで、そこで貰い受けましょう。責任もって育てましょう」
「そうだな。救える命は、助けないとな」
それらは決して、遠い将来図では無かった。
内容としても、叶う範囲での希望と現実的な考えが盛り込まれているからこそ、姫奈は楽しく想像できた。
「あと二年……楽しみですね」
「ああ。たぶん、あっという間だ」
姫奈は晶と見つめ合うと、ベッドの中で抱き合い、キスをした。
この腕の中の温もりを感じたまま、きっと幸せな日々を過ごし、きっと幸せな日々が訪れる――姫奈はそう思っていた。
ふたりで語り合う未来が必ず現実になる、と。




