第80話
三月十三日、日曜日。
第二日曜日のため、EPITAPHは定休日だった。姫奈は朝から、晶の部屋で休日を過ごしていた。
「本当にこれでよかったのか?」
リビングのソファーで横になっている晶から、訊ねられた。
「何がですか?」
「折角の休みだし……明日ホワイトデーだし……」
「わたしは晶さんと一緒に居られるなら、おウチデートでも充分です。あんまり休めないかもしれませんけど、休んでください」
姫奈はキッチンで、フライパンのホットケーキをひっくり返した。バニラの甘い香りが立ち昇った。
デートに行きたい所は沢山あったが、連日働き詰めの晶を連れ出すのは気が引けた。加えて今日が実質のホワイトデーであることから、自宅で甘いものを食べて過ごそうと、ホットケーキを延々焼いていた。なお、ホワイトデーの贈り物は事前に話し合い、無しになった。
料理下手な姫奈でも、市販のホットケーキミックスを使用すると、簡単にホットケーキが作れた。
「まずは、もっちり版です」
卵と水を使用したものを焼いた。厚みは無いが、五枚重ねると数以上の多量に見えた。
その上にたっぷりのホイップクリームと春らしく苺を乗せ、さらにメープルシロップをかけた。
「おおっ。家で作ったにしては凄いな」
リビングに運ぶと、晶は起き上がって驚いた。
外の店で食べるものに比べれば不格好ではあるが、スイーツとしては迫力があった。
「たぶん途中で飽きると思うんで、これもあります」
姫奈はさらに、輪切りにしたバナナとチョコレートソースを、別の皿に用意した。苺さえ片付ければ、ホイップクリームに乗せても味は問題無いと思った。
「でかした! 最高じゃないか」
晶は満足気に、ナイフとフォークを動かした。
姫奈は猫と犬のイラストがそれぞれ描かれたふたつのマグカップに、カフェインレスのコーヒーを淹れた。
大皿に重ねられたホットケーキを、ふたりで食べた。焼いてまだ間もない――温かいホットケーキとホイップクリームの相性が絶妙であり、苺の甘酸っぱさが良いアクセントになっていると姫奈は思った。
三分の二ほど食べると、バナナとチョコレートソースで味を変えた。まるで正反対のようになった甘みもまた、美味しかった。
量が多すぎないかと姫奈は心配していたが、ふたりですぐに食べ切った。
「次は、ふわふわ版です」
続いて、卵と――水の代わりに牛乳を使用して焼いた。厚みのあるものとなり、三枚重ねると圧巻だった。
バニラのアイスクリームとメープルシロップをトッピングし、晶の元へと運んだ。
「良いチョイスだな。これなら、まだ食べられそうだ」
「そうですね。いい感じにアイスが溶けてます」
食感と味付けの変化によりふたりの手は進むものの、半分を食べたあたりで速度は落ちた。
砂糖と少量の水を焦がしただけの簡易的なキャラメルソースと輪切りのバナナで、さらに味を変えた。しかし、ふたり掛かりでも完食は無理だった。
「流石にしんどい……。今日はもう、何も入らん……」
「そうは言っても、夜になればまたお腹空きますよ。ソーセージと適当な野菜で、ポトフでも作ります」
「ちょうどいいな。楽しみにしてる」
姫奈はキッチンの片付けを済ませると、腹部が楽になるまで晶とリビングで過ごした。
「お前。髪伸びてきたな」
「そうなんですよ。でも、最近忙しくて……」
晶から髪の毛を触れられ、そろそろ切りに行かなければいけない時期だと思い出した。
しかしながら姫奈の空き時間もあまり無く、美容室も混んでいる時期だった。
「毛先ぐらいなら私が切ってやるよ」
「本当ですか!? ありがとうございます」
晶はダイニングテーブルから椅子をひとつリビングまで運び、さらに姿見鏡とビニール袋の準備をした。
姫奈はビニール袋に大きく穴を開けると、それを首から被り椅子に座った。
リビングの広い窓からは、明るい日差しが差し込んでいた。室内の電灯が不要なほど、明るかった。
温かな光を浴びながら――姫奈は、晶に髪の毛を切って貰った。
「なんだか、懐かしいですね」
「私がこうして切るのも、あの時以来か」
「はい。あの時は、ひどすぎました」
姫奈はかつての容姿を思い返すが、苦笑するしかなかった。恥ずかしい思い出というより、笑える小話だった。
美容室に行くのが怖いから、晶に最低限を切って貰った。
ありえない話だった。その理由に晶が目を丸くしたのを、現在でも覚えていた。確かに、理解し難いものだった。
そう。あの頃は、容姿や美容に全くの無頓着だった。自分に自信を持てない理由のひとつだった。
それが晶に化粧までを教わり、少しだけ前を向くことが出来たのは――変わることが出来たのは、この部屋からだった。
「わたし……卒業したら夜間のカフェ専門学校に通って、ちゃんとバリスタの勉強をします」
ジョキジョキとハサミの音を聞きながら、姫奈はふと漏らした。
この決意も、かつてこの部屋で髪の毛を切って貰った頃に比べれば――大きな変化だった。あの頃は、この選択肢はそもそも存在しなかった。
この告白に、晶は一度ハサミを止めた。
「本当にそれでいいのか? 大学に行きながらバイトも出来るんじゃないのか?」
「バイト扱いはダメです! チーフバリスタにしてください! ……わたしがやりたいことは、勉強したいことは大学じゃなくて専門学校で習うんですから、何もおかしな選択じゃないですよ」
姫奈は鏡越しに、晶の不安そうな表情が見えた。それを安心させるように微笑んだ。
「親にも似たようなこと言われましたけど、わたしが本当にやりたいことを理解して汲んでくれました。学校で成績上位なんで、大学受験から専門学校に逃げるわけじゃないと説得できました。……専門学校も充分に大変なんでしょうけど」
姫奈は高校生としての本分をきちんと果たしているからこそ、親を説得できた。このために勉学の結果を残してきたわけではないが、結果として役に立った。
以降も卒業まで成績順位を維持することが、専門学校への進学にあたり、親から課せられた条件だった。決して容易いものではないが、姫奈は目標のためにこれからも頑張るつもりだった。
「バリスタの民間資格があるみたいなんで、まずはそれから取って……豆の選び方と焙煎も勉強したいですし……競技会で名前を残せたら、お店に箔が付きます」
「お前……そこまで考えてくれてるのか」
ハサミを置いた晶から、背後から抱き締められた。切った髪が肩に積もっていたが、気にする様子は無かった。
「すまないな……」
「違いますよ。そこは感謝するところです」
「そうだな。ありがとう――私の人生に付き合ってくれて」
「それが私の望みですからね。これからも晶さんに引っ張って貰いたいですし……わたしも晶さんを引っ張りますし……」
姫奈は肩に乗った晶の顔と、頬を擦り合わせた。
どちらが先導するわけではない。ここまでふたりで歩いてきたように、これからもふたりで支え合って歩いて行きたかった。
「そうしていこうな。でも――本当にどうしようもなくなった時は、私が責任を取る。だから、安心して付いてきてくれ」
姫奈は言葉の意味がよく分からなかった。
しかし、鏡越しに微笑む晶が逞しく見え、一緒に笑いあった。
そして、そっとキスをした。
髪を切って貰った後、姫奈は晶とソファーに座った。
晶がごろんと横になり、姫奈の太ももに頭を置かれた。
「お前が居てくれて、私は幸せ者だな……」
姫奈は晶の顔を覗き込むと、伸びた晶の指先が頬に触れた。
温かな指先だった。
「私も現在、すっごい充実感を掴みました! 何だって出来そうな気がします!」
アルバイト、恋愛、勉学――全てが順調だった。姫奈は、これ以上無いぐらいの自信に満ち溢れていた。
ふと『我が世の春』という言葉を思い出した。
違っていて欲しいが、もし現在が人生の絶頂期だとしても、きっと疑わないだろう。
「落ち着いたら、お花見デートに行きましょうよ」
「いいな。酒持っていって、屋台で何か買って……」
「もー。すぐにそれなんですから」
「綺麗な桜を眺めて飲むと、美味いんだよ」
姫奈は微笑みながら、プラチナベージュのショートボブヘアーの頭を優しく撫でた。
右腕に着けた腕時計が目に入った。
晶から貰った当時はこの高級時計に気後れしたが、現在はすっかり馴染み、自分に相応しいとさえ思えた。
窓からは温かな陽射しが差し込んでいた。
春の訪れを感じさせた。
一年前、憂鬱な春から始まった。
季節は巡り、現在はかつてないほどの高揚感で、再びこの季節を迎えた。
自分がそうであるように――次はきっと、希望に包まれた新しい季節がやってくる。
この陽だまりのような日々が、きっといつまでも続く。
姫奈はそう信じ、心を踊らせていた。
そう。この時は――
次回 第30章『三月三十一日』
そして、その日が訪れる。
今後の更新予定
第30章 10.18 10.19 10.20
第31章 10.22
第32章(幕間) 10.23
終章(1話だけ) 10.24
以上で完結となります。
なお、上記の第31章以降は次回予告がありません。
皆さんの期待に添える結末かは分かりませんが、最後までよろしくお願いします。




