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胸を張って歩ける日まで  作者: 未田
第28章『胸を張って歩ける日まで』
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第77話(前)

 二月も終盤に差し掛かった日曜日。

 まだ冷え込む中、午前は晶を休ませ、姫奈ひとりでEPITAPHを忙しく回していた。


 午後から晶が加わり、しばらくしてのことだった。

 少し客足が落ち着いた午後二時頃、ひとりの女性客が訪れた。

 テーパードパンツとニット、その上にコートを羽織り、マフラーを首に垂らしていた。使い込まれたであろう革製のトートバッグが目につく程度であり、姫奈には何の変哲も無い客に映った。

 ただ――入店するや否や、店内をきょろきょろと見渡す様子が、姫奈に少し警戒心を抱かせた。


「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」


 姫奈は促すと、女性はカウンター席に腰掛けた。

 コートを脱ぎながらも相変わらず落ち着かない様子であり、姫奈の警戒心はさらに高まった。

 しかし――既に視界に入っているであろう晶の姿には一切気を留めないのが、今まで訪れた『マスコミ』と違っていた。


「そちらがメニューになります。決まりましたら、お申し付けください」


 考えすぎかな? 本当に違うのかな?

 姫奈はどこか戸惑いつつも、テーブルの小さなメニュースタンドに手を向けた。


「それじゃあ、ホットコーヒーお願いします」

「かしこまりました」


 女性はメニューをじっと眺めた後、ごく普通に注文してきた。

 姫奈の中で、疑いはほとんど晴れた。


「へぇ……。ハンドドリップだなんて、珍しいですね」


 とはいえ、淹れる様子をカウンター越しにまじまじと見られ、なんだか調子が狂った。

 マスコミでは無いのかもしれないが、変わった客だと思った。


「すいません。お姉さんの写真撮らせて貰ってもいいですか? すっごくカッコいいんで」

「え――構いませんけど。他のお客様の迷惑にならないようにだけ、お願いします」


 客からその提案をされたのは初めてだった。飲み物ならまだしも、店員を撮るのである。

 姫奈は戸惑い――どちらかと言うと嫌だったが、サービスを提供する側として断る理由が見つからなかった。

 携帯電話の背面カメラを向けられると思った。しかし女性は、トートバッグから大きいデジタルカメラを取り出した。滅多に目にすることのない、本格的なものだった。

 シャッター音と弱いフラッシュを浴びながら――やはり恥ずかしいと、姫奈は承諾したことを後悔した。


 ちらりと晶に目をやると、笑うのを必死で堪えていた。

 女性のカメラの視界には、おそらく晶の姿は入っていない。やはり晶を狙ったマスコミでは無いにしろ、変な客だと姫奈は思った。


「お待たせしました。ホットコーヒーです」


 姫奈はキッチンカウンターを回り込み、女性にマグカップを差し出した。

 女性はコーヒーも写真に撮り、それから手を付けた。


「いい匂い……。それに、美味しい」


 変わった客だが、コーヒーを褒められると姫奈は嬉しかった。

 読書や携帯電話等、女性は何か別の作業を行うわけでもなく、時間をかけてコーヒーを味わっていた。


「すいません。エスプレッソ系で、オススメはどれですか?」


 女性からふと訊ねられ、姫奈は洗い物の手を止めた。


「オススメですか……」


 この質問を受けたこともまた、初めてだった。今まで考えたことが無かったので、悩んだ。

 淹れる手間や値段に多少の差があるとはいえ、その視点からのオススメというわけにはいかない。かといって、淹れることが特別に得意なメニューも無い。

 姫奈の中でエスプレッソメニューは全て平らであり、味は客の好みによるので、何とも言えなかった。


「正直に申しますと、オススメというのはありません。朝方ですとカプチーノを注文するお客様が多いですし、寒い時期ですと普段よりカフェモカが多く売れる印象です。その中で、カフェラテは安定していますね」


 姫奈は素直に、自分の感じることを口にした。差し障りの無い回答をしたつもりだった。


「うーん……。それじゃあ、カフェラテをお願いします」

「かしこまりました」


 マグカップにコーヒーがまだ半分ほど残っているのが気になったが、姫奈は注文を承った。

 エスプレッソマシンを動かしている姿も写真に撮られた。恥ずかしさに慣れないが、リーフのラテアートを作って差し出した。


「設備も飲み物も、随分本格的なんですね」

「あ、ありがとうございます……」


 そう褒められたことも初めてだった。

 女性はカフェラテもまた、写真を撮った後に時間をかけて味わった。


「設備だけじゃなくて、お姉さんの腕も超一流ですね。エスプレッソの苦味とミルクの甘み――材料をきちんと理解したうえで、絶妙なブレンドとなっています」

「あははは……。豆とミルクが良いんですよ」

「そんなこと無いですよ」


 姫奈は反射的に謙遜するが、女性から満面の笑みで返された。

 客から『美味しい』と言われたことは、現在まで何度もあった。ここまでの具体的な感想を貰ったのは初めてだった。

 姫奈が気にかけていることを完璧に見透かされ、驚いたが――それ以上に、理解されたことの嬉しさが込み上げた。思わず、頭の中でガッツポーズを繰り出した。

 もしかすると、同業者かな?

 ここにきて、その疑いが浮かんだ。ふらりと立ち寄ったのかもしれないが、大層なカメラが頭の中に引っかかった。


「インスタントや作り置きで済ませる店が多い中、本格的なメニューを破格とも言える値段で提供。そして、落ち着いた店内はとても居心地が良い。――こんなところでどうでしょう?」

「どうでしょうと言われましても……」


 総括とも言える内容は悪くないが、突然のためどう反応すればいいのか、姫奈には分からなかった。


「お前、さっきから何様だ? 御託はいいから、さっさと名乗れ」

「ちょっと、晶さん――」


 キッチンの隅に居た晶が、どこか苛立った様子で近寄ってきた。

 接客業としてあるまじき言葉に、姫奈は慌てて制止した。


「申し訳ありません。遅くなりましたが……私、こういう者です」


 女性は晶に動じることなく、トートバッグから一枚の名刺を取り出した。

 姫奈は受け取ると、まず目に入ったのが有名な出版会社の名前だった。それに続き、姫奈がつい最近購入した地域情報誌の名前と『編集部』の文字が書かれていた。


「え――」


 これまでの変だと思っていた点が、全て納得した。

 女性の正体を知り、姫奈は叫びたいほどに驚いた。他にも客が居るのでなんとか我慢し、口を手で覆った。

 晶も名刺を覗き込むと、事情を察したのか、険しい表情になった。


「すいません。ちょっと失礼します」


 姫奈は晶の腕を掴み、スタッフルームに連れて行った。

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