第74話
二月十三日、日曜日。
EPITAPHを閉めて片付けを済ませると、姫奈はエプロンを脱いだ。そして、鞄からひとつの袋を取り出し、スタッフルームの棚に置いた。
「これ、一日だけ置かせてください」
袋の中身は明日の今頃――閉店後に店のキッチンを借り、晶に振る舞うバレンタインの贈り物の材料だった。
ある理由から明日学校に持って行けないので、ここに置かせて貰うことにした。
「絶対に中身を見ちゃダメですからね!」
「ああ。わかった」
念のため釘を差した。
わざわざ言わなくても、晶はおよその中身を察しているだろう。それでも、材料ではなく完成品と思っているかもしれないので、姫奈はまだ大っぴらに見せたくなかった。
「明日は先着順でこれをサービスしようと思う」
晶は棚から自分の荷物である袋を取り出し、中身を広げた。
ひとつずつ個別に包装されたガナッシュチョコレートが、約十個入っていた。
ビニール小包とカラータイから、おそらく晶が手作業で詰めたのだと姫奈は思った。しかし、肝心の中身は市販のものかと疑うような見た目だった。
「これ、晶さんの手作りですか?」
「残りの材料でだけどな。あくまでも、ついでのサービスだ。義理ですらない」
「いえ、それはいいんですけど……」
晶から念を押されるが、姫奈としては出来栄えが圧巻だった。
片手間でこんなものが作れるとなれば、本気ではどうなるんだろう。恐怖じみた感情が込み上げた。
それでも姫奈は、自分の用意した策で贈るしかなかった。
「ていうか、お店として配って大丈夫なんですか?」
「本当なら届け出や許可が必要かもしれないが、たまにのサービスだから心配するな。クリスマスにクッキー配っても何も無かった」
「え……そんなことしてたんですか?」
姫奈はクリスマスの件は初耳だった。そういえばあの頃は無断欠勤していたと思い出し、恥ずかしくなった。
何にせよ、過去に実績があるなら少しは安心だった。わざわざ騒ぎ立てる客も居ないだろうと思った。
「それじゃあ、帰りましょうか。お疲れさまでした」
「お疲れさん。明日は楽しみにしておけ!」
店から出て、シャッターを下ろした。
心なしか普段より冷え込んだ冬の寒空の下、晶が無邪気に笑い、白い息が流れた。
姫奈もまた、明日はきっと晶に喜んで貰えると信じた。
*
二月十四日、月曜日。
停滞した低気圧により冷え込みは一層厳しく、朝から粉雪が降っていた。すぐに溶けて消えるため、積もらないか――もしくは僅かに積もるか、その程度だった。
灰色の空と舞い落ちる雪とで、姫奈は街全体が静けさに覆われたように思えた。
しかし、バレンタイン当日の学校はとても賑やかであった。
「はい、澄川さん。これ」
「あ、ありがとう……」
姫奈は登校するや否や、昇降口でひとりの生徒から、綺麗に包装されたチョコレートを手渡された。
同じクラスだったかな? 学年が同じだったかな?
顔は見たことがあったが、名前やクラスは分からない――そういう存在のため、反応に困った。
姫奈は鞄から、文化祭で使用したのと同じ徳用チョコレートをふたつ取り出し、代わりに渡した。
明らかに釣り合っていないので少し気が引けたが、所詮は一期一会のようなものだろうと割り切った。
しかし、昇降口から教室に移動するまでに、さらに三個のチョコレートを手渡された。
やはり三人とも知らない人物であった。その内ひとりは、リボンタイの色から上級生だった。
知らない相手から立て続けに渡され、そして徳用チョコレートは失敗であり、姫奈は複雑な心境であった。
「おはよう」
「おやー。澄川さんはモテモテだねぇ」
ようやく教室に辿り着き、自分の机に四個のチョコレートを置いた。
その様子を見て、隣の生徒がニヤニヤと笑った。
「私も、愛情たっぷりの手作りチョコだよ!」
姫奈は、以前から隣の生徒が言っていた『デコチョコ』を受け取った。雑誌で見た通り、一見華やかだが既製品の面影があった。
「ありがとう。これ、わたしからの友チョコね」
「え――これは流石にひどくない?」
「反省してるから! 来年は頑張るから!」
徳用チョコレートに唖然としている隣の生徒を尻目に、姫奈は鞄から買い物用のエコバッグを取り出した。
四個のチョコレートを仕舞いながら、なんだか嫌な予感がしていた。
その予感の通り、休み時間ごとに姫奈は知らない生徒からチョコレートを手渡された。
流石に徳用チョコレートではいけないと危機感を持ち、来月のホワイトデーで改めて返そうと思った。
申し訳なくもひとりずつクラスと名前を訊ね、携帯電話のメモ帳に控えた。
放課後になると、エコバッグはチョコレートで溢れていた。綺麗に包装された手作りから市販のものまで、とても『友チョコ』の範疇ではないものばかりだった。こうなるとは、微塵も思っていなかった。
その様子を見て隣の生徒は大笑いしていたが、姫奈は怒る気にもなれないぐらい疲れていた。
しかし、まだ誰かが渡してくるかもしれないと思い、教室を出た。
「あれ? 澄川さんは?」
教室から、クラス委員の声が聞こえた。
それから逃げるように、学校を後にした。
*
雪はまだ降っていた。
少しだけ雪の積もった道を、姫奈は寒さに凍えながらも慎重に歩いた。白い息を吐きながら、EPITAPHへと向かった。
扉を開けると、暖房の温もりに、全身が痺れるような感覚に襲われた。
店内には客が何名か居るため、そそくさとスタッフルームに駆け込んだ。
それを追うように晶も入り、スタッフルームの扉が閉まった。
「お、お疲れさまです……」
「よかったなー、モテモテで」
姫奈は手にしてしていたエコバッグを晶から隠そうとしたが、間に合わなかった。
満面の笑みの晶が、ニコニコと笑っていた。
先週の自分を思い出し、姫奈は顔面が青ざめたのを感じた。
「違うんです! これは――」
「いいんだ……。お前が沢山の人から好かれる人間で、私は鼻が高い」
咄嗟に言い訳をしようとしたが、晶は優しく微笑み、スタッフルームから出ていった。
大人の対応でズルいなぁ。格好良いなぁ。
ひとり取り残された姫奈は、恥ずかしがりながら髪をまとめ、エプロンを纏った。
しかし、赤面の表情が落ち着いて店内に戻れるまで、しばらくの時間を要した。
午後七時前。
ようやく最後の客が去り、姫奈は店の扉を閉めた。
「よし! 大好きな晶さんのためのチョコレートを作りますんで、ちょっと待っていてください」
「ん? 今から作るのか?」
「はい。でも、すぐに出来ます」
姫奈はスタッフルームから昨日置いた袋を持ち出し、キッチンに広げた。
まずは板チョコを細かく割り、マグカップに入れた。そこに牛乳を注ぎ、電子レンジで温めた。
チョコレートが牛乳に溶けたところにラム酒を少し足し、混ぜた。
最後にホイップクリームを乗せ、さらにチョコレートシロップをかけた。
「ホットチョコレートです!」
これが姫奈の、バリスタとしてのバレンタインの贈り物だった。
自宅で試しに作ってみたところ、最初はカフェモカ以上に甘かった。ただ甘いだけでは美味しくないため、チョコレートと牛乳の種類を厳選し、それぞれの量を調整した。
そして、苦味のアクセントとしてアルコールを使用した。姫奈にとっては想像の域だが、大人の風味に落ち着くと思った。
ラム酒の小瓶があるため、材料を学校には持っていけなかったのだった。
「おおっ、いい匂いだな」
姫奈はマグカップを両手で持ち、カウンター席の晶へと運んだ。
晶はフーフーと軽く冷ますと、一口飲んだ。
「溶かしても、チョコと酒はやっぱり合うな。未成年がこんなに美味いもの作って……大したものだよ、お前は」
「ありがとうございます」
晶から褒められ、姫奈はとても嬉しかった。
甘いものと酒と――晶の気に入りそうなもので考え抜いたので、その甲斐があった。
「それに、身体がじんわりと温まるな」
晶は店の扉に目をやった。
曇ガラス越しでも、まだ雪が降っているのがわかった。これほど冷える日には、確かにアルコール入りのホットチョコレートは温まるだろう。
今日に雪が降ってくれていてよかったと、姫奈は初めて思った。
「ホットチョコレートか……。酒は抜きにしても、冬のシーズンメニューに加えるのもアリかもな」
「それはダメです。だってこれは……晶さん専用のメニューなんですから……」
晶のふとした提案を、姫奈は首を横に振った。
姫奈の我儘にはなるが、晶のためを想ってのメニューを他の誰かに出したくなかった。
「その代わり、ホットココアはどうですか? ちなみにココアとホットチョコレートの違いは、原料がココアパウダーかチョコレートか、要するにココアバターの有無なんですよ」
「わかったわかった。ココアを考えよう。まあ、寒さがいつまで続くのか分からんから……来年以降だな」
「はい」
もう二月の半ばなので、確かに時期としては中途半端だった。
次の冬に向けて、ココアの勉強をしておこうと姫奈は思った。
「私のために、ありがとうな。これが私からのチョコレートだ」
晶から、綺麗に包装された箱を手渡された。
開けると、弁当用カップにひとつずつ、合計六つの色とりどりのチョコレートが並べられていた。
「わぁ。凄いですね」
包装資材でかろうじて手作りの感じはあるが、綺麗な球状のチョコレートはやはり市販でも遜色ない出来栄えだった。
「トリュフチョコレートだ」
「えーっと……。トリュフって何かの高級食材でしたっけ?」
「それに形が似てるだけで、実際に使ってるわけじゃないぞ」
姫奈は名前こそ知っていたものの、誤った知識を持っていたことに気づき、恥ずかしくなった。
晶のことだから高級食材を使用していてもおかしくないと一瞬思ったが、とても言えなかった。
恥ずかしさを誤魔化すようにキッチンに行き、自分用のホットコーヒーを淹れた。
「トリュフチョコというのは、要するに二層のチョコだ。表面を口の中で溶かしてから、噛んでみろ」
晶に言われた通り、姫奈はひとつを口に入れてじんわりと溶かした。
甘さが染み渡った後、内側のガナッシュチョコレートも噛むというより自然に溶けるようだった。
まろやかで口当たりが良く、コーヒーとの相性も良かった。
「めちゃめちゃ美味しいですよ! ありがとうございます!」
普段食べない種類のチョコレートだからこそ、余計にそう感じた。
「晶さんもどうぞ」
姫奈はもうひとつを食べ、箱を晶に差し出した。
しかし、晶は箱から取ろうとせず――姫奈に突然キスをした。
思わず口の動きが止まった姫奈は、晶から舌で口内のチョコレートを奪われた。
「本当だ。我ながら、美味しいな」
「……」
不敵に笑いながらも口をモグモグと動かす晶に、姫奈は頭の中が真っ白になった。
しばらくして、ようやく何が起きたのか理解した。
「もう! 何してるんですか!」
どうにもならない感情をぶつけるように、姫奈は耳先まで顔を真っ赤にしながら、ポカポカと晶と叩いた。
晶とはキスも性交も経験があるが――それらとは比にならないほど、恥ずかしかった。
「ほれ。溶ける前に取ってみろ」
晶は箱からひとつを口に含み、姫奈に唇を差し出した。
姫奈は頭がどうにかなりそうな状況の中、躊躇を押し切り、本能のままにキスをした。
しんしんと雪の降る、静かなバレンタインの夜。
晶から貰ったチョコレートは、とても美味しかった。
次回 第28章『胸を張って歩ける日まで』
EPITAPHに地域情報誌の取材が訪れる。




