第73話
バレンタインまで一週間を切ると、夕方のEPITAPHには晶のかつてのファンが連日訪れていた。
現在では通常の客が圧倒的に多数だが、ソワソワした様子で入店するのですぐに分かった。
晶は準備していた市販のチョコレートの小包を持つと、慌てながらすぐに店外へと連れ出し、相手をしていた。
その様子を、姫奈はキッチンから半眼の瞳で眺めていた。
晶さんが右手薬指に指輪を嵌めていても、ファッションに見えるのかな。
わたしも平日の放課後はペアリングを着けようかな。
そんなことを、ぼんやりと考えていた。
彼女達が接している『アイドルとしての天羽晶』と、切り離して考えようとはしていた。
姫奈は晶のその面を知らなければ、今さら過去の活動を追いかけようとはしなかった。
あくまでも自分が接してきた相手は、愛している人間は『一般人としての天羽晶』だと割り切っていた。
だが、頭では理解していても実際は上手くいかなかった。少なからず嫉妬心が湧き上がった。
「よかったですね! 現在もまだモテモテで!」
「……わかった。わかったから、その笑顔はやめてくれ」
店を閉めて片付けに移行するとすぐ、姫奈は満面の笑みを晶に向けた。
「あれ、いつ持って帰るんですか? よかったですねー。晶さん甘いの大好きですもんねー。でも、いい加減に邪魔なんですけど」
姫奈はスタッフルームを指差した。
ただでさえ狭い場所が、晶がファンから貰ったチョコレートで日に日に圧迫されていた。
「あれは持って帰らないし、食べもしない。まあ、食べたいのは山々なんだけどな……」
「へー。やっぱり食べたいんですね」
「いや、違う! やっぱ食べたくない!」
晶は、おそらくうっかり漏れたであろう本音を慌てて否定した。
その時、閉店している扉がふと開いた。
「いやー、最近はめっきり冷えるね。車から一歩降りただけで凍え死にそうなんだけど……」
大きな段ボール箱を抱えているため顔は見えないが、パンツスーツと声から麗美が来たのだと姫奈は理解した。
麗美は段ボール箱をテーブル席に置くと、カウンター席に腰を下ろした。寒さで堪えているのか、なんだか神妙な顔つきだった。
「麗美さん、こんばんは。何か温かいの淹れますよ」
「ありがとう。それじゃあ、カフェモカお願いしようかな」
まだエスプレッソマシンの片付けをしないでよかったと思いながら、姫奈はカフェモカを淹れる準備をした。
「そうだ、姫奈ちゃん。お土産、ありがとうね。干物も沢庵も、すっごい美味しかったよ」
「いえいえ。こちらこそ、行かせて貰ってありがとうございました。良い所でしたよ」
「干物……なぁ」
「晶。いい加減、しつこいよ」
確かに鬱陶しいほど同じネタを繰り返しているなと思いながら、姫奈は苦笑した。
晶はニヤニヤと笑みを浮かべながら、段ボール箱に近づいた。
「これは……この時期のアレか?」
「そうだよ。仏様へのお供え物」
お供え物?
何のことだろうと思いながら、姫奈は晶が段ボール箱を開けるのをキッチンカウンターから眺めた。
段ボール箱の中には、市販のものから手作りのものまで、チョコレートがぎっしりと詰められていた。
「故人だから、あんたの籍はもうウチの事務所に無いんだけどね。本当なら、受け取り拒否するとこだよ?」
「ああ。すまないな」
晶は遠くを見るような目で感慨深く見下ろした後、箱の中のチョコレートを順に触れた。
姫奈は麗美の言葉から、それが何であるのか理解した。
「ここまで直に持ってくる人達も居るんで……。事務所の方にも、まだ届くんですね……」
「あと何年続くかなぁ。まったく、迷惑な話だよ」
麗美はそう言うが、微笑みながら晶を眺めていた。
最後にホイップクリームの上にチョコレートソースをかけ、姫奈は麗美にカフェモカを差し出した。
晶は世間では故人であり、生存していることを知っている人間はごく僅かしか居なかった。
姫奈には理解できないが、ファン達は故人に対して、未だにバレンタインのチョコレートを贈っていたのだった。
この事情に対しては、嫉妬の感情は湧かなかった。
「別にわざわざ持ってこなくても、写真で充分だっただろ?」
「ピンピン生きてる私より多く届いてるから、ただの当てつけ」
「そうは言ってもなぁ。人気無いのを私のせいにされても困る」
麗美の実際の意図も、晶が実際にどう思っているのかも、姫奈には分からなかった。
しかし、晶は――少なくとも、嫌がっている様子は無かった。
「お供物は有り難く受け取ったから、これも一緒に持って帰ってくれ」
晶はスタッフルームから、直に受け取ったバレンタインチョコレートの束を運んだ。
「え? 食べないんですか?」
「持って帰りも食べもしないと言っただろ」
驚く姫奈に、晶は呆れた。
確かに言っていたが、姫奈には冗談のように聞こえていた。
「RAYだけじゃなくて……ウチの事務所は、飲食物の受け取りは基本的に厳禁なの。何入ってるか、わかんないからね。こういうイベントだけ、表向きは受け取ってるけど」
「あ……なるほど」
麗美に言われ、姫奈は納得した。
それまで、ファンからの贈り物を好意的なものだと考えていた。しかし、好意を装い悪意を込める者が居る可能性は、否定できなかった。
それがたとえ故人に対するものでも、用心するに越したことが無かった。
正体が分からない以上、信用は足りないのだった。
「やっぱり、処分するんですか?」
嫉妬心を抱いていたとはいえ――直に持ってくる姿を見ているので、姫奈は彼女達が可愛そうになった。
「残念だけど、手作りは無条件で処分だね。わざわざその旨を告知してるのに、それでも持ってくるのが悪いよ。ただ、市販の未開封のものに限っては――スタッフが美味しく頂きました。自己責任の任意だけど、タレント以外で食べてるよ」
結局タレント本人に食べて貰えないなら、処分されることに変わりは無い。
世知辛いなと、姫奈は思った。
「てことは、裏方のお前は食べてもいいのか?」
「あんたもウチのタレントじゃないから別に止めはしないよ。まあ、私は気持ちだけでお腹いっぱい」
「変わらないな……。私もそれで充分だ」
姫奈に、苦笑した晶の視線が送られた。大丈夫だと言っているように、姫奈には見えた。
嫉妬していたことが、なんだか恥ずかしかった。
「姫奈ちゃんは手作りで全然問題無いから、安心してね」
「ありがとうございます……」
麗美から明るい笑みを向けられるも、姫奈は素直に喜べなかった。
こうして許しを貰えたとはいえ、晶に何を渡すのかまだ何も決まっていないのだから――
「ごめん、姫奈ちゃん……。これ、ちょっと残すね」
麗美からが飲みかけのマグカップをカウンターに上げ、姫奈はそれを受け取った。
ホイップクリームとエスプレッソの溶け合った飲み残しを見下ろし、およその事情を察した。
「いえ。大丈夫ですので、気にしないでください」
「……お前も歳だもんなぁ」
「ううっ。否定できないのが悔しい」
大人になるとそうなのかな。昔は問題無く飲めたのかな。
姫奈は既に共感できる部分があるため、今ひとつ理解できなかった。
「わたしも、甘いとしんどい時ありますから……。次は甘さ控え目にしますよ」
「そうしてくれると助かるよ。でも、身体が温まったのは確かだから!」
「それは良かったです」
もし麗美が再びカフェモカを注文すれば、次はエスプレッソをもうワンショット追加しようと思った。
「それにしても、これだけメニューのバリエーションが増えるなんてねぇ……。なんていうか、正真正銘の普通のカフェになってきたね」
「うちのバリスタは優秀だからな」
「そんな優秀なバリスタがバイトに来てくれて、よかったじゃん。姫奈ちゃんも、よくここまで頑張ったね」
「あ、ありがとうございます……」
ふたりから褒められ、姫奈は恥ずかしくなった。
エスプレッソマシンの導入からしばらくが経つが、日に日に客数が増える勢いはまだ止まらなかった。
日頃の実感の他にこうして言葉で伝えられると、とても嬉しかった。
「さて、と……。私はそろそろ行くよ。また今度さ、結月も連れてくるから皆で鍋食べようよ」
「肉でも蟹でも構わんから、とにかく美味いやつ持って来い」
「任せといて」
「わたしも、楽しみにしていますね」
最後にそう口約束を交わすと、麗美はさらに中身の増えた段ボール箱を抱え、店を後にした。
皆で鍋を――しかも、おそらく高級食材で食べられることを思うと、姫奈は純粋に楽しみだった。
しかし、最年少の自分が食事の世話係になるのだとすぐに理解し、少しだけ憂鬱だった。
「……これで少しは疑いが晴れたか?」
店内でふたりきりになると、晶がふと漏らした。
何のことかと、姫奈は一瞬わからなかった。だが、麗美が来る前、晶が受け取っていたチョコレートで腹を立てていたことを思い出した。
「はい。責めたりして、すいませんでした」
「そうか。分かって貰えたならいいんだが……」
思えば割と些細なことで嫉妬していたなと、姫奈は現在になって反省した。
「どの道、お前には本気でチョコ作るからな。楽しみにしていてくれ」
晶は子供のように無邪気な笑顔を浮かべた。
どの道と言うことは――もしかすると、些細な嫉妬をしたせいで晶に本気を出させたのだろうかと、姫奈は思った。
それはとても嬉しかったが、出来れば少し控えめに作って欲しいと願う部分もあった。
晶からの愛情が、なんだか重く感じた。
「あ、ありがとうございます……」
何せ、姫奈はバレンタインの計画が未だに定まっていないのだから。
晶の本気の出来に釣り合うには、どうすればいいのか――さらに悩みの種が大きくなった。
どこか憂鬱な気持ちで、カウンターから麗美の飲み残しを下げた。
マグカップを片付けようとしたその時――飲み残した液体から、チョコレートの匂いがした。カフェモカにはチョコレートシロップを使用しているのだから当然だと思った。
日常的に使用していたので、見落としていた。チョコレートシロップとはいえ、これも確かにチョコレートのひとつなのだ。
それを理解すると、姫奈の中にひとつの考えが浮かんだ。
これまでの他の考えより、しっくりきた。憂鬱気味だった心が少し晴れ、自然と笑みが浮かんだ。
ついさっき麗美に褒められたことが、さらに背中を押した。
姫奈はあくまでも、自分らしいやり方で晶にチョコレートを贈ろうと思った。
そう。わたしはパティシエじゃない。晶さんから認められたバリスタなのだから――




