第72話
二月になった。
姫奈の学校は一層厳しくなった寒さに静まるどころか、あるイベントが近いために騒がしかった。
そう。二月十四日、バレンタインである。
恋愛面での想いを伝える他、友人同士で交換し合う『友チョコ』という文化も校内で根付いているようだった。
その文化が面倒だなと思う一方で、姫奈は晶に何を渡すか悩んでいた。
去年までこのイベントはどうでもよかったが、今年は違う。恋人として付き合っている人が居るのだから。
しかし、晶とはまだバレンタインの話を一切していない。
晶が付き合ってからの一ヶ月記念日を忘れていたとはいえ――流石にこのイベントは動いてくれるだろうと、現在から信じていた。
その傍ら、姫奈は晶の料理の腕前を知っていた。
店売りかと疑うほどの手作りケーキを誕生日に出されたので、本気になれば物凄いチョコレートを渡してくるだろう。
それに張り合うためには、どうすればいいのか。
いっそ、本気を出して欲しくないような――やはり、自分への気持ちとして本気を出して欲しいような――
複雑な思いで悩んでいた。
ある日の昼休み。教室では、隣の席の生徒が机に雑誌を広げていた。
バレンタイン特集の記事が見えたので、姫奈は椅子を寄せて一緒に読ませて貰った。
「澄川さんは、どうすんの?」
「どうするって?」
「十歳年上の人と付き合っってるんじゃなかったっけ?」
「それは友達の話だよ」
姫奈は苦笑しながら、この印象付けをゆっくりと確実に正さねばと思った。
「わたしは適当に買おうかな……友チョコの話ね」
雑誌を眺めていると、デパートや専門店のチョコレートが紹介されていた。どれも美味しそうだった。
とはいえ、それらは自分用に購入して、学校で配るのはスーパーで適当に用意しようと、ぼんやりと考えていた。
「私は本命も友チョコも、ちょっとだけ手作りに挑戦してみるよ」
「ちょっとだけ?」
手作りに度合いがあるのかと、姫奈は疑問に思った。
「うん。デコチョコで可愛くね!」
そう言いながら、隣の生徒はあるページをめくった。
デコチョコ。市販のチョコレートやクッキー等の菓子を自分なりに組み合わせ、飾り付けたもの。
紹介文とサンプルを見て姫奈は理解するものの、釈然としなかった。
「……これ、手作りになるの?」
「失敬な! デコるのも立派な手作業だよ!」
その言い分は苦しいが、わからなくはなかった。
独創と手作業の工程を加えることで、一応は市販の域から脱せられる。包装まで行うと、手作り感が増す。
しかし、それを手作りと呼ぶことが姫奈は今ひとつ納得できなかった。
「わたし、普段お世話になってる人には手作りをあげたいんだけど……。ていうか、手作りチョコなんて簡単でしょ? 市販の板チョコを溶かして型に流して冷ましたらいいだけでしょ?」
姫奈は自身の持つイメージを語ると、隣の席の生徒から冷ややかな視線を送られた。
「……澄川さん、今までチョコ作ったことある?」
「えっ、いや――ないけど」
「それじゃあ、一度やってみるといいよ」
呆れるように言われ、姫奈は少しだけ腹が立った。
その日の夜。
姫奈はアルバイト帰りに百円均一ショップに寄り、板状のチョコレートとハートの形をした型を購入した。
夕飯を済ませた後、自宅のキッチンでチョコレートを手で割り、ボウルに移してラップをかけた。
それを電子レンジに入れ、自動温めのボタンを押した。
「えっ、なんで!?」
しばらくすると電子レンジから黒い煙が上がり、姫奈は慌てて中止ボタンを押した。
電子レンジの中では、チョコレートが炭状になっていた。
機械を信用すまいと、次は鍋に水を入れ沸騰させた。
その中にボウルと浮かべ、割ったチョコレートを投入した。
「どうして!?」
鍋に火をかけながら湯煎で溶かすも――一向になめらかなクリーム状にならなかった。
チョコレートの種類が悪いのかなと思いながらヘラを動かすと、固体じみたよく分からない塊になった。
一応型に詰めて冷蔵庫で冷ましたところ、とても不細工で歪なハート型が出来た。
食べてみると、原型の板チョコより味が劣化していた。明らかに不味かった。
ヤバい。
昼間の余裕じみたイメージが、ここにきて一気に崩れ去った。隣の生徒の意図をようやく理解した。
いや、難しいんじゃなくて、きっと根本的に何かを間違えている。
あまりの酷い出来に姫奈はそれを疑い、就寝前に携帯電話で調べた。
チョコレートを湯煎で溶かすには約五十度。さらに、テンパリングという湯煎の温度を微細に変更しながら混ぜる工程が必要であり――固めるには冷蔵庫ではなく常温。
「め、面倒くさ……」
姫奈はベッドの中で、思わず本音が漏れた。
テンパリングは不要な種類のものを使用すれば幾分楽だが、それでも想像以上に繊細な作業を求められた。
それらの情報に圧倒されながら、姫奈は自棄になるように眠った。
翌日。
「おや、澄川さん。その様子じゃ、ようやく現実を知ったみたいだね」
姫奈が登校すると、隣の席の生徒が意地悪そうな笑みを浮かべていた。
姫奈は自覚が無かったが、朝から浮かない表情だった。
昨晩の件はあまりに無知であったため――恥ずかしくて怒れなかった。
「はぁ……。手作りチョコは諦めて、わたしもデコチョコにしようかな」
姫奈は溜め息をつきながら、自分の席に腰を下ろした。
「そのさー。デコチョコを逃げの手段みたいに言うの、やめてくんない?」
「違うの?」
「全然違うよ! 手間暇も掛かってるし、まごころも籠ってるの!」
やはりその言い分は苦しいなと思いながら、怒ってる様子の隣の生徒を宥めた。
デコチョコに逃げようとはしたものの――晶には、愛する人にはちゃんとした手作りを食べて貰いたかった。
だが、そのための手段が見つからないため、途方に暮れていた。
「ていうかさ……手作りにこだわるなら、ガトーショコラはどうよ?」
ふと、隣の生徒がそう提案した。
「ガトーショコラって、チョコケーキみたいなのだっけ?」
「そう、それ。なんかね、バレンタインの手作りチョコもどきとしては、初心者向けらしいよ」
「ほんとに?」
姫奈の中では単なる手作りチョコレートより難しいイメージがあったので、にわかには信じられなかった。
それに、引っかかる言い回しだった。
「初心者向け『らしい』ってどういうこと? どこ情報? 実際に作ったことあるの?」
「私は作ったこと無いけど……。えーと、どこで聞いたんだったかな……。テレビ? 雑誌? でも、誰かが言ってたのは確かだよ」
そんないい加減なと思いながら、姫奈は携帯電話で調べてみた。
確かに、菓子作り初心者向けとして紹介されていた。詳しくは見ていないが、中には作業時間十分という記事もあった。
「疑ってゴメン。どうも本当みたい」
断片的な情報だったとはいえ、暗い道をさまよっていた姫奈にとっては一筋の光だった。表情がぱっと明るくなった。
「でしょ? そんじゃ、試してみて本当に簡単なのか教えてね」
「……」
何か良いように使われたと思い、姫奈は半眼の視線を投げかけた。
やる気が出て引けない状態なので、余計に腹立たしかった。
その日の夜。
姫奈は再び自宅のキッチンに立った。メレンゲ不使用の――数あるガトーショコラのレシピの中でおそらく最も簡単なものを試した。
確かに、驚くほど簡単に完成した。
味は申し分なく、アレンジや包装次第で充分に手作りスイーツとなるだろう。
しかし――姫奈は黒い丸形のケーキを眺めるも、どうも腑に落ちなかった。あるひとつの疑問が浮かんでいた。
翌日。
「ねえ。そもそもさ……バレンタインにガトーショコラ貰って、嬉しい?」
姫奈は登校すると開口一番、隣の席の生徒に昨晩からの疑問をぶつけた。
もしも自分が貰った場合、どう思うだろうか。その想像をしてみが――
「うーん……。正直、あんまり嬉しくないかな。むしろ、そっちに逃げたんだって察するよねー」
隣の生徒は面白そうに笑いながら、姫奈と全く同じ意見を口にした。
やはり自分の感性は世間からかけ離れていないんだと、姫奈は安心した。
「ですよねー」
「あいたっ!」
そして、隣の生徒の頭を軽くはたいた。




