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胸を張って歩ける日まで  作者: 未田
第26章『甘くて深い』
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第71話

 一月二十三日、日曜日。

 姫奈は起床後に朝食を摂り、アルバイトに出かける準備をした。


 自室で、新規に購入したコスメを広げた。

 チークは敢えて使わず、化粧下地の上から顔の要所にオイルクリームを塗り、艶感を出した。

 レッドブラウンのアイシャドウを指で目の周りに塗った。黒色のアイライナーで、目尻の下までアイラインを引いた。

 マスカラは初めて使用した。使用方法を携帯電話の動画で確かめながら、恐る恐る睫毛を立たせた。

 そして、チークを使用しない代わりに青みがかった赤色の口紅を塗り、全体的にめりはりをつけた。


「よし!」


 知識を仕入れ、初めて実践した姫奈なりの『大人メイク』は、上手くいった手応えがあった。

 グレーのプリーツスカートの上に黒色のニットを合わせ、服装も大人らしさを意識した。

 髪はヘアジェルと手ぐしで艶感と無造作感を出した。髪から耳を出して何かアクセサリーを着けたいと思ったが、残念ながらピアスもイヤリングも所持していなかった。


 姫奈は姿見鏡の前に立ち、いつもと雰囲気ががらりと変わったと満足気に笑った。

 童顔の悩みは解消され、いっそ眼鏡を外してしまいたかった。しかし、ここまで雰囲気が変わったことに戸惑う面もあり、人前に出るのが恥ずかしいという意味で眼鏡を外せなかった。


 最後に、香水を耳の後ろからうなじにかけて伸ばし、左右の手首にも一滴ずつ垂らした。薔薇のすっきりした香りは強すぎず、自然に馴染んだと思った。

 腕時計を着け、指輪を嵌めた。包装された小さな袋を鞄に入れると、コートを羽織ってアルバイトに向かった。



   *



「おはようございます!」


 午前八時半。姫奈はEPITAPHの扉を開け、元気に明るく挨拶をした。


「おはようさ……ん?」


 店内の掃除をしていた晶は姫奈の姿を見るや否や、箒を一度止めた。

 医療用眼帯を着けていても、驚いた表情だと姫奈には分かった。


「どうしました?」

「いや……なんでもない」


 姫奈はわざとらしく首を傾げるが、晶は何も言わずに箒を再び動かした。

 そんな晶の横を通り、スタッフルームに入った。

 エプロンを纏いキッチンのエスプレッソマシンを起動させると、店を開けた。


 日曜日なので、朝から絶え間なく客がやって来た。

 満席による入店待ちが発生することは無かったが、姫奈は晶と忙しく働いた。

 だから、今日の容姿に関して晶から何かを言われる時間すら無かった。

 それでも姫奈は、期待しながら温かい飲み物を作り続けた。

 上機嫌に、カフェラテにはハートもしくはリーフのラテアートを描いていた。


 晶と交互に昼食を摂り、午後からも繁忙日の時間が過ぎていた。

 それが起きたのは、夕方の閉店間際のことだった。


「こちら、カフェラテになります」


 姫奈はキッチンから出ると、カウンターテーブルの客にマグカップを差し出した。


「あら? 私が頼んだのはカフェモカなのだけど……」


 しかし、客から困った表情を向けられた。

 客の表情と言葉を、姫奈はすぐに理解出来なかった。


「この匂い……こっちがカフェモカね。私のオーダーはカフェラテだから、振り替わってるみたいね」


 テーブル席で読書をしていた客も、苦笑しながら声を上げた。少し前に差し出したが、まだ手をつけていなかったようだ。


 ふたりの客の言葉を整理し、姫奈はようやく状況を理解した。

 ――商品の届け先を間違った。

 ふたつの注文はほぼ同時だった。普段通りに処理したつもりだったが、間違いが生じた。

 アルバイトでのこのような失敗は、姫奈にとって初めての経験だった。


「……」


 姫奈の頭の中は真っ白だった。

 しくじったという重い衝撃に打ちのめされ、呆然と立ち尽くした。

 その中で意識をかろうじて動かし、この状況を片付けないといけないと思った。

 どちらもまだ手をつけていないのだから、ふたつを入れ替えないと――

 まだ混乱したままの思考が、身体にそう伝達した。


「申し訳ございませんでした! すぐに作り直しますので、お時間を頂きます!」


 しかし、狭い店内に晶の大声が響き渡り、姫奈は我に返った。

 そうだ。一度提供したものをただ入れ替えるのは、客に対して失礼だ――

 なんとか理解し、思い留まった。もしその行動を取っていたのなら、苦情はより大きくなっていたのかもしれない。


「すいませんでした。一度下げます」


 姫奈は頭を下げて謝罪した後、ふたつのマグカップを回収してキッチンへと戻った。


「焦る気持ちは分かるが、慎重にな。あと、この件はサービスしておいてくれ」


 ふたつのマグカップを温めている晶から、そっと耳打ちされた。

 確かに、すぐに作り直さなければいけないと焦っていた。しかし、ここで失敗を重ねれば更に時間を要することになる。

 姫奈は深呼吸して落ち着いてから、飲み物を作り直した。


「お待たせしました。こちら、お詫びの意味でお代は結構です。申し訳ございませんでした」


 作り直したものを運び、改めて謝罪した。

 晶の助言に従い、姫奈としては可能な限り最善の対応を取ったつもりだった。その甲斐あったのか、ふたりの客はさほど怒っていないのが幸いだった。

 ふたりの客が店を出ていくまで、姫奈の心臓はずっと鼓動を増していた。


 しばらくして店内が空になると、姫奈はひとまず表に出て、扉にぶら下がった『open』の札を『closed』に裏返した。外はすっかり暗くなっていた。


「すいませんでした! わたしの給料から引いておいてください!」


 店内に戻るや否や、晶に対し深々と頭を下げた。

 それほど高額でないにしろ、二杯分を無料で提供することになったのだ――自分の間違いにより。


「まあ、丁度いい機会でよかったじゃないか。ミスが続いて慣れることは良くないが、一度もミスが無いと今回みたいにテンパるわけだしな。もし次にしくじった時は、これで大丈夫だろ」


 カウンター席に座った晶は怒るどころか、なだめるように笑っていた。

 しかし、姫奈の気持ちは晴れなかった。


「もう次にしくじるのはナシにしたいところですが……晶さんのフォローには助かりました」


 晶の謝罪が無ければ事は大きくなっていたかもしれないという恐怖が、未だに姫奈の中にあった。

 頭の中が真っ白になった自分と違い、晶の対処は経営者としてもひとりの大人としても完璧だった。

 晶はかつてのアイドル業で、失敗がゼロというわけではなかっただろう。

 これは社会経験の明白な差であり、まだ追いつけない差であり――改めて、姫奈に十年の年齢差を感じさせた。


「わたし、やっぱりまだ子供ですね……」


 言い訳にしているわけではないが、潔く諦めがついた。いくら外観を背伸びしても、中身はそれに伴わなかった。

 脱力気味に、姫奈は晶の隣に腰掛けた。


「子供でいいじゃないか。朝見た時は、何事かと思ったけどな」

「今さら外観(それ)に触れられると、めちゃめちゃ恥ずかしいんですけど……」


 満足で上機嫌だったことを思い出し、姫奈はこの場から今すぐ消えてしまいたいほどの気持ちだった。


「というか、そんなに似合ってないですか?」

「似合ってなくはないが……私は、自然な感じのお前の方が好きだ」


 晶に顔を真っ直ぐ見上げられながら、はっきりと言われた。

 姫奈は別の恥ずかしさが込み上げた。


「あどけない顔してるのも、たぶん今だけだ。お前はいい感じに成長してるから、すぐに大人の顔つきにも、大人の女にもなると思う」


 苦労していないと顔が幼く見える。

 何かのテレビ番組だったか――どこかで聞いた言葉を、姫奈はふと思い出した。

 聞いた当初は信じられなかったが、晶にそう言われるとなんだか信憑性があった。

 化粧で誤魔化すのではなく、結局は社会経験を積み重ねるしかないと思った。


「だから、お前がまだ『子供』でいる内は、私に『大人』で居させてくれ。お前には甘えてしまうから……頼れる内は頼られたいんだ……」


 晶は姫奈から視線を外し、恥ずかしそうに漏らした。

 ここ最近、姫奈が年齢差で悩んでいたことを、晶はきっと知っていた。知りながらもその気持ちを抱えていたのだと姫奈は分かり、たまらなく嬉しかった。

 姫奈は立ち上げると、晶を抱きしめた。


「ダメです。すぐに晶さんに追いつきます。だから……すぐ側で、見守っていてください」


 そして、そっとキスをした。

 背伸びしなくてもよかった。慌てることはなかった。

 ゆっくりと、しかし確実に近づこう。

 この距離でいることもまた、ふたりの大切な時間なのだから――

 腕の中の温もりを感じながら、姫奈はそう思った。


 その後、店の片付けを済ませた。

 ふたり揃って表に出ようとした時、姫奈は鞄から包装された小さな袋を取り出した。


「これ――本当は明日ですけど、わたしからのプレゼントです」

「は? プレゼント?」


 ぽかんとした晶に、姫奈は袋の中身を取り出した。

 電池式で青色に発光する、ジョギング用のアームバンドだった。


「まだ朝も暗いと思うんで、走る時は気をつけてくださいよ」


 姫奈はプレゼントで悩んだ末、最近ジョギングをしていると聞いたのを思い出し、これを選んだ。

 右目の視力が無いことがジョギングにどれだけの支障があるのか分からないが、危ないことは確かだった。右腕に着けて、他者に少しでも存在感を示して欲しかった。


「ありがとうな。嬉しいんだが――いきなりどうした?」


 晶は受け取るも、首を傾げた。


「え――明日が何の日か、忘れたんですか?」

「忘れるも何も、そもそも何の日か割とマジで知らないんだが……」


 戸惑いながらも正直に話す晶を、姫奈は怪訝そうに見た。

 こうなることは、まだ想像の範疇だった。晶の性格上、覚えているのと覚えていないのとは、姫奈の中でおよそ半々だった。


「明日は一月二十四日! わたし達が付き合って一ヶ月の記念日じゃないですか!」

「うわっ。めんどくさっ」

「そこは正直に言わないでください!」


 事前に自分の中で予防線を張っておいたとはいえ、この結果は残念だった。

 姫奈は泣くジェスチャーをして見せた。


「よく分からんが……最近の若い子の間では、そういうのいちいち祝う風潮あるのか?」

「そこはジェネレーションギャップ無いと思いますけど。気持ちの問題ですよ、気持ちの」

「そ、そうか……。悪かったな。明日、私からもプレゼントを――気持ちを込めて送るから、期待しておいてくれ」


 晶は露骨に面倒臭そうな様子だったが、その言葉に姫奈は期待した。


 翌日、使い古しですまないという言葉と共に、晶からひとつの香水を貰った。

 ラズベリーのフルーティーな甘さをトップノートに、そしてラストノートのムスクの自然な深みが落ち着きを与えた。

 甘さの中に残る大人っぽさ。背伸びしすぎていない大人感。まるで『大人びた子供』を彷彿させるその香りを、姫奈は気に入った。

次回 第27章『自分らしいやり方で』

バレンタインが迫る中、姫奈はチョコレート作りに苦戦していた。

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