第68話
姫奈が次に目を覚ましたのは、午前六時半のことだった。
それまでの間一度も起きることなく、文字通り熟睡していた。そのせいか、理解できない満足感があった。
しかしながら、上半身を起こして隣の布団の晶の寝顔を見ると、寝てしまった後悔が込み上げた。
「あれ?」
自分と晶と共に布団を掛けられ、正常に寝ていたことに姫奈は気づいた。部屋の明かりは消え、窓にカーテンが閉められていた。
うろ覚えだが、布団の上でふたりで寝落ちした記憶があった。
従業員が部屋に入って正したとは、考え難い。おそらく晶が一度起きたのだと思った。
朝食は八時。まだ時間があるため――姫奈は大浴場や露天風呂の朝風呂に興味があったが、何時から開始しているのか分からなかった。
今回の宿泊では諦め、再び部屋の露天風呂に入ることにした。
「……」
晶の寝顔を改めて見下ろした。
とても穏やかな寝顔であるため、姫奈は起こさなかった。
だが、貴重な一夜を無駄にした無念は晴れないため、晶の頬にそっとキスをした。
姫奈は部屋の露天風呂にひとりで入浴した。
薄暗い空に徐々に明るみのグラデーションが掛かり、水平線からの日の出を拝んだ。日没とはまた違った趣があり、貴重な体験をしたと思った。
風呂から上がると、晶はぼんやりとした表情で上半身を起こしていた。
「おはようさん。朝風呂、気持ちよかったか?」
「おはようございます。気持ちよかったですよ。晶さんも、どうですか?」
「私はいい。二日酔いだからな……」
姫奈は呆れながら湯呑に白湯を淹れ、晶に手渡した。
「すまないな。朝御飯の後に頭痛薬飲んだら、マシになると思う」
「お酒一本全部飲むからですよ!」
「ああ……。あれから一回起きてな、ラウンジで飲み直したんだよ。お前は爆睡してたから、私ひとりで大人の時間をだな」
「まだ飲んだんですか!?」
「それから、屋上の露天風呂にも行ってきた。夜中だから空いていて、良かったぞ」
「めちゃめちゃ満喫してるじゃないですか!」
自分の知らないところで晶ひとりが楽しんでいたことが、姫奈には衝撃的だった。
ラウンジは仕方ないとはいえ、露天風呂に行くなら起こしてくれてもいいのにと思った。だが、起こさなかったことが晶なりの優しさであるため、抗議できなかった。
「わたしだって、昨日の夜は……やりたかったのに、晶さん寝落ちしてたんですからね」
姫奈は晶の正面に屈むと、頬をぷくっと膨らませ、その件の愚痴を漏らした。
「それはすまなかったな。まあ、結構な頻度でやってるじゃないか」
「せっかくここまで来たのに……」
「記念エッチみたいに言うなよ。また今度どこかに連れて行ってやるから、機嫌を直してくれ」
「……約束ですよ?」
「ああ。約束だ」
まるで指切りでも結ぶように、晶は顔を伸ばして姫奈の唇にキスをした。
晶の言葉と態度が、姫奈は嬉しかったが――
「晶さん……。お酒臭いです」
洗面室を指差した。
*
浴衣から私服に着替え、帰宅準備が済んだ頃には従業員が朝食を運んできた。品数の多い、豪華なものだった。
その後、荷物を持ち、土産を見に売店へと降りた。
「麗美と結月にいつ手渡せるか分からんから、日持ちするやつがいい」
「それじゃあ、お饅頭とかお菓子とかは避けた方がいいですね」
宿泊を譲ってくれた両名には、別の店で考えることにした。姫奈は自宅用と学校用の饅頭を購入した。
午前九時半頃、受付でチェックアウトした。
「晶さん。せっかくなんで写真撮りませんか?」
玄関を出たところで、姫奈は提案した。
入り口の上だけではなく、玄関から少し外れたところにも旅館の看板が置かれていた。
写真スポットというわけではないが、他の客が従業員に写して貰っているのが見えた。
「ああ。構わないぞ」
晶は二日酔いのせいで調子の悪そうな表情だったが、頷いた。
姫奈は従業員に携帯電話を渡し、看板の隣に晶と並んだ。
そして、晶の手をそっと握り、ピースサインを向けた。
「ありがとうございます」
従業員から携帯電話を受け取って確認すると、晶が死人のような表情だったので、姫奈は吹き出しそうになった。
「どう見ても、アイドルやってた人の顔じゃないですよ」
「うるさいな。人間、いつでも百パーセントのパフォーマンスが出せるわけじゃないんだよ」
何にせよ、これが姫奈にとって初めての晶とのツーショット写真だった。
初めから挫いたが、これもまた良い思い出となった。
旅館を離れると、周囲を散策した。
麗美と結月への土産は、海老と金目鯛の干物、そして沢庵を購入した。
「干物って……。確かに、あいつらも干からびた歳だしなぁ」
「えっ。そう捉えられますかね?」
「冗談だ。まあ、私はそれでイジるけどな」
現在は一歳差とはいえ実質同い年なのになと、姫奈は呆れた。
ひとしきりの用事は済み、後は新幹線か電車に乗って帰るだけとなった。
成行きでの旅行とはいえ、名残惜しかった。
「なんか、帰りたくないですね」
「でも、充分リフレッシュ出来ただろ。毎日こんな調子だと、たぶん飽きるぞ? 普段の仕事があるからこそ、こういうバカンスが有り難いんだよ。正月の三が日が過ぎたら、また頑張らないとな」
「そうですね。麗美さんと結月さんにも、改めてお礼を言っておきます」
足は駅へと向かおうとしていたが、姫奈はふと海が気になった。
有名な温泉地であると同時に海に面した場所であるのだから、季節外れとはいえ一度は近づいてみたかった。
「晶さん。最後に、ちょっと海辺歩きませんか?」
「いいぞ。軽く散歩して帰るか」
海水浴場に降り、浜辺をふたりで歩いた。
やはり人気はほとんど無く、強い潮風がとても冷たかった。
砂の柔らかい感触が、スニーカー越しに伝わった。
「写真撮りましょうよ。海をバックに」
姫奈は立ち止まると、携帯電話を取り出した。
インカメラに切り替え、晶となるべく近寄った。風が強いため、姫奈は髪を抑えながらシャッターを押した。
晶の表情はさっきより回復していたが、自分の顔が少し見切れていた。
初めての自撮りは難しかった。
「お前、そんなに写真撮るキャラだったか?」
「はい。これからは、どんどん撮っていきますよ。ケータイに、晶さん専用のアルバムを作ります」
姫奈は晶と向き合い、微笑んだ。
「これからもっともっと、晶さんといろんな所に行ってみたいです! 晶さんと、楽しい思い出を作っていきたいです!」
強い潮風の中、大声で叫ぶように言った。
姫奈はそう願うが、きっと楽しいことばかりでは無いだろう。
笑って、怒って、泣いて――愛する人との思い出を作りたかった。
一緒に居て、一緒に歩いて、一緒に生きた証が欲しかった。
「ああ。任せておけ」
晶もまた、頷いて微笑んだ。
そして、携帯電話を取り出した。
「おい。寒いけど、右手出してみろ」
「こうですか?」
姫奈は、コートのポケットで使い捨てカイロを握っていた右手を出した。
「あっちの方に手を向けてみろ」
晶に言われ、街の方に手を向けた。丁度、宿泊した旅館のある方向だった。
晶も右手を出し、姫奈のにそっと寄り添った。
色違いのペアリングが、それぞれの右手に輝いていた。
晶はそれをカメラで撮り、姫奈に携帯電話の画面を見せた。
ふたりの右手の写真は、姫奈のセンスでは思いつかないものであり、とても嬉しかった。
「これからいっぱい、私と思い出作っていこうな」
「はい!」
姫奈は晶と正面から右手を重ね、指を絡めて握った。
小さな手のひらは力強く、とても温かかった。
次回 第26章『甘くて深い』
姫奈は晶との年齢差を感じ、少しでも大人になりたいと考える。




