第67話(前)
時刻は午後一時頃だった。
姫奈は十二時間ほど何も食べていないので、空腹感が込み上げていた。
「やっぱり混んでますね」
「そりゃ、初詣だからな」
神社内のカフェは満席だった。
屋台でひとまず空腹を誤魔化すという手もあったが、姫奈は座って休みたかった。
神社から駅までの道にある飲食店もまた、どこも満席で入れる様子は無かった。
「仕方ない。もう宿の方に向かうか」
「そうですね。あっちの方にも何かあるはずです」
駅に着くと、そのまま電車に乗り、一駅戻った。
新幹線が停まるほどの大きな駅なので、ホームには立ち食い蕎麦の店があった。
すぐに入れる空き状況だったが、折角なので御当地料理を食べようと姫奈は我慢した。
「わあ! 広いですね!」
改札口を出ると、駅前広場の開放感に驚いた。
有名な観光地であるため、駅前ターミナルには宿泊所の送迎バスや沢山のタクシーが見えた。その他にも――
「足湯がありますよ! 流石は温泉地ですね!」
大勢の人が集まっているところに目をやると、湯気が上っていた。
珍しい光景を目にしただけで、姫奈は空腹を忘れて舞い上がった。
「やめておけ。水虫が伝染るかもしれないぞ」
「……それもそうですね」
しかし、晶の冷めた言葉で我に返った。
大体、凄く混んでるし……それに、タイツ脱ぐのも面倒だし……。
あれ? でも、旅館の温泉でも水虫が伝染る危険があるんじゃ?
楽しみにしていた温泉がなんだか怖くなりつつも、頭はそれから一度離れ、晶と駅前を歩いた。
「おい。昼はここにしよう」
小さなラーメン屋を見つけ、晶は分かりやすく声のトーンが上がった。
「えー。何か海鮮系にしましょうよ」
「バカ。そういうのは夜に嫌ってほど食べられる。こういうラーメン屋はオンリーワンだからな、実質ご当地料理なんだよ」
確かに、古びた外観とのれんから、チェーン店ではなく個人経営の店だと分かった。
姫奈は晶の言い分に釈然としなかったが、オンリーワンという部分には納得した。
それに――狭い店内に客は居るが、ふたり座れるだけの空きがあった。
「わかりました。ここにしましょう」
折角ここまで来てラーメンかと思うも、晶がとても楽しみにしているので、それを汲んだ。
カウンター席にふたり並んで座り、晶は味噌ラーメンを、姫奈は塩ラーメンを注文した。
「チャーシューめちゃめちゃ柔らかくて美味しいです」
「スープも濃厚でいける」
姫奈はあまり乗り気ではなかったが、いざ食べてみると美味しかった。
あっさりとしたスープと縮れ麺が合い、空腹には優しい味だった。夕飯に向けて腹を整えるには丁度良いと思った。
晶も満足げな様子だった。
「宿には……うわぁ、二十分ぐらい歩かないといけないみたいです」
食べ終えて店を出ると、姫奈は携帯電話の地図アプリで経路を調べた。
「まあ、腹も膨らんだから食後の散歩にはいいだろ」
「そうですね。それに、丁度チェックインの時間になりそうですし……」
過去の事故から、晶がタクシーを含む自動車類にまだ乗れないことを、姫奈は知っていた。
何にしろ、歩く他に選択肢は無かった。
駅前から坂を下る道が伸びていた。勾配のある坂であり、下るだけでも体力を酷く消耗した。
旅館やホテル等の宿泊施設が視界に数多く入り、有名な観光地だと姫奈は実感した。
そして、正月という時期もあり観光客で賑わっていた。
「わぁ。海ですよ、海」
一度立ち止まり、一面に広がる水平線を坂から見下ろした。
整備された砂浜もあり、海水浴場だと分かった。しかし、季節外れであることから人気はほとんど無く、もの寂しい景色だった。
灰色の空もまた、広がっていた。
「うちのと違って泳げるぐらいだから、たぶん綺麗なんだろうな」
海水浴場は珍しいが、海自体はEPITAPHの前に広がっているため毎、日のように眺めていた――汚く濁ったものが。
日によっては臭く感じることもあるので、ここは純粋に磯の香りがしそうだと姫奈は思った。
「また夏に来たいですね」
「アホか。陽に焼けるのは嫌だし、私は水着なんて着ないぞ」
晶は否定しながら、不機嫌そうにすたすたと歩き出した。
「えー。待ってくださいよ」
海水浴場の人混みが苦手だから嫌っているのだと、姫奈はまず思った。
そして晶の水着姿を思い浮かべると、いくつかの傷跡が頭の中で目についた。
別に、水着のためではない。もしも、傷跡を治せるのなら――綺麗に治して欲しかった。
そう願いながら、晶を追いかけた。
*
やがて、宿泊する旅館に到着した。広い玄関口の真上に、風情ある看板が掛けられていた。
従業員に出迎えられ、受付に通された。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは。澄川といいます。ちょっと早いですけど、よろしいでしょうか?」
まだ時刻は午後三時前だった。チェックイン出来ないのなら、ロビーやラウンジで過ごそうと思った。
「ああ、澄川様……二名様ですね。お話は伺っています。時間は大丈夫ですので、どうぞこちらへ」
来客の変更については結月自らが連絡をしていたので、すんなりとチェックイン出来た。
結月と麗美の繋がりから、晶の正体について姫奈は危惧していた。しかし、どの従業員からも特に変わった目で見られなかった。
もし分かっているにしても、客に対しての快い接客態度だと、姫奈は勉強になった。
「こちらのお部屋でございます」
エレベーターで上がり、部屋に通された。
十五畳ほどの和室に、テーブルと座椅子が置かれていた。
そして、ガラス張りの一面の窓からは海の他、バルコニーのあるものが見えた。
「あ、晶さん! あれ! 見てください!」
姫奈は思わず指差すも、晶は従業員と話していた。
「お食事は六時半頃で構わないでしょうか?」
「ああ。それで頼む」
「かしこまりました。それでは、御用があれば何なりとお申し付けください」
露骨に不機嫌というわけではいが、晶の態度を察し、従業員は部屋の入り口で荷物を下ろすとすぐに離れた。
「なんだよ。さっきから、うるさいな」
晶と共に靴を脱ぎ、部屋へと上がった。
姫奈はコートを脱がずに、一目散に窓際へと向かった。
「バルコニーにお風呂あるんですよ! 凄くないですか!?」
そう。広くはないが四角い湯船から、湯気が上っていた。
すぐ隣には身体を洗うためのシャワーも備え付けられていた。
「そりゃ、風呂ぐらいあるだろ」
晶は気だるそうにニット帽やダウンジャケットを脱ぎ、畳に倒れ込んだ。
「ユニットバスじゃなくて露天風呂ですよ!? わたし、ホテルや旅館に泊まることなんて滅多に無いんで知りませんけど、これが普通なんですか?」
「これが普通なのかは私も知らんが……予約してたあいつらのことだから、これぐらいはあって当然だろ」
確かに、著名人が大浴場に行くのは想像できなかった。
貸し切るか、もしくはこのように個室で入浴を楽しめる設備があっても不思議ではないと、姫奈は納得した。
「夕陽の景色が綺麗だと思うから、四時過ぎぐらいに風呂に入るぞ。私はそれまで寝る」
「入るって――」
姫奈は改めてバルコニーを見た。
小さい浴槽とはいえ、ふたりが入れる大きさだった。
そして、横になっている晶に目を移した。
「……」
同じ部屋にふたりきりで泊まるのだから、ある行為についても姫奈は楽しみにしていた。
しかし、個室の露天風呂は想定外だったので、その件についての嬉しさと緊張で入り混じった。
不眠で疲労が溜まっている姫奈も、晶のように一眠りしようかと思ったが、現在寝ては起きられないと思った。
ひとまずコートを脱ぎ、部屋の中を物色した。
テレビをつけては晶に悪い。備え付けの饅頭は晶と一緒に食べたい。
晶をゆっくり寝かせようと、部屋を出て館内を見回った。
最上階には大浴場、屋上には露天風呂があった。中の様子は分からないが、個室の露天風呂と違い、広い風呂も気持ちよさそうだと思った。
下の階に降りると、売店があった。土産はまた改めて考えようと、熱い缶コーヒーだけを購入して部屋に戻った。
窓辺の席で泥水のような不味い飲み物を口にしながら、携帯電話のメッセージアプリで結月に無事到着した旨を伝えた。
行けなかった者に露天風呂の写真を見せるのは失礼だと思ったので、代わりに晶の寝顔を撮って送った。
「代わりに行かせくれて、ありがとうございました。とても良い所で嬉しいです――と」
『それはよかったわ。楽しんできなさいな』
結月とのやり取りの後、姫奈はふと携帯電話に保存されている写真の一覧を広げた。
元々、写真を撮る習慣は無かった。撮ったものは――レジュメや黒板、教科書の一部等、主にメモ代わりだった。
可愛い被写体が全然無いなと思いながら画面をスクロールしていると、晶の写真もほとんど無いことに気づいた。
寝顔が二枚と、今日の昼間に撮った横顔が一枚。合計三枚しか持っていなかった。
まだ日が浅いとはいえ、こうして恋人としての交際を始めたのだから、ツーショットの写真が欲しかった。
しかし、どう切り出せばいいのか姫奈は分からなかった。
キスは自然に出来るようになったのにな……。
それよりも難易度が高いと感じながらも、カメラアプリのインカメラの切り替え方をひとまず確かめた。




