第64話
師走の忙しさに見舞われながらも、大晦日の国民的な歌番組への出演を最後に、麗美と結月は一年を終えた。
結月を乗せて帰宅したのは、元日の午前二時過ぎだった。
歌番組の舞台袖で結月を見守っていた時は、麗美は積み重なった疲労により、立っているのがやっとだった。
その状態で、よく事故を起こさずに帰ってこられたと、麗美は自分を褒めた。本来は運転代行を使用しなければいけなかったが、立場上の危機管理能力が明らかに足りていなかった。その点は一応反省した。
「ちょっと、麗美ちゃん!?」
自宅の玄関で珍しく結月が声を荒げていると、ぼんやりとした頭で思った。
それが、麗美の最後の記憶だった。
麗美が次に目覚めた時は、ベッドで横になっていた。
エアコンと加湿器の音が聞こえた。カーテンの開いた窓から、明るい日差しが差し込んでいた。
ここが自宅の寝室であり、パジャマを着ていることを理解した。
自身の顔、そして頭が熱いのがよく分かった。寝起きだからではなく意識は朦朧とし、全身が気だるかった。
ぼんやりとした思考で――麗美はベッドのサイドテーブルから携帯電話を取ろうとしたが、無かった。
「起きたの? ケータイは私が預かってるから、今日はゆっくり寝てなさい」
扉が開き、エプロン姿の結月が顔を見せた。
「あけましておめでとう、麗美ちゃん」
ベッドに腰掛けた結月は、実に冷ややかな表情で麗美を見下ろしていた。
麗美は頭が上手く働かなくとも、結月がここ最近で一番怒っていると分かった。
「あ、あけましておめでとう。まだ元日?」
「ええ、そうよ」
「そっか。ごめん……」
地面に頭を擦りつけて土下座したい気持ちであったが、現在の身体では出来ないため、諦めるようにぽつりと謝った。
「キャンセルしたの?」
「いいえ。キャンセル料取られるから、晶ちゃんと姫奈ちゃんに譲ったわ。超喜んでたし、お土産買ってくるって」
「うん。それがいいね」
結月から体温計を渡され、麗美は腋に挟んだ。
世間は正月だが、事務所としては機能していた。しかし、麗美は正月の三が日に休みを貰っていた。
これを利用して、結月と少し遠くにある温泉旅館に行く予定だった。苦労して予約を取っていた。
本来であれば、今夜から一泊するはずであった。
「三十八度」
体温計に表示された数字を、麗美は読み上げた。
具体的な自身の状況を理解すると、なお気だるくなったような気がした。
有名な感染症ウイルスも疑ったが、済ませている予防接種を信じた。
「どう考えても過労じゃない。他人にばっかり構ってないで、自分の身体ぐらい管理しなさいよ。倒れるまで働くのは偉い、なんて風潮はもう時代遅れなんだから」
「そうだね。ちょっと無理しすぎたかなぁ」
結月のマネージャー、そして事務所の役員としては、まだこなせる仕事量であった。
タレントのテレビ出演の多いこの時期、どの現場も大切だと思い、それぞれを見回っていた。
「たぶん私、他のマネージャーが信用できないんだと思う。私に出来ることがあれば、全部私でやりたいんだろうね」
身体が弱っているせいか、珍しく弱音を吐いたと麗美は自覚した。
「そうやってると、嫌われるわよ? ていうか、典型的なダメ上司じゃない。今年はいっそのこと、役員一本でやってみたら?」
「ううん。結月のマネージャーは、誰にも任せられないよ」
「でも、そうやってると他の現場の話が聞こえてきて、余計なことまで見えてきて……首を突っ込みたくなるんでしょ?」
「そうなんだろうなぁ……」
こういう流れで悪循環に陥っているのだと、麗美は理解した。
自重しようとは思う。しかし、まだ身体を動かせる内は大人しく出来なかった。
現場に立つ新人タレントの育成には力を入れてきた。しかし、自分としてもマネージャーのキャリアはまだ浅いが――裏方の育成は全然手をつけてこなかった。
「だったら、部下を信じることね。それに、信じて仕事を任せていかないと、誰も付いて来てくれなくなるわよ?」
アイドルとして九年、そして裏方として二年近く。その間、麗美は沢山の人間と関わってきたが、所詮はどれも上辺だけだった。
事務所内でも、信頼できる人間は数えるほどしか居なかった。
現場上がりの役員として、信頼はされていると思う。しかし、それが自分の勘違いである可能性は捨て切れなかった。
「ていうか、今年こそ仕事減らしなさい。今回だって国内でだいぶ妥協したけど、来年は海外よ?」
結月は、バカンスで有名な海外の島を挙げた。
「あそこなんて、正月こそ激混みじゃん。知ってる顔もマスコミも居るだろうし、たぶん休んだ気がしないよ」
「それでもいいの。私は行きたいの」
麗美は結月から前髪を上げられ、額の冷却シートを貼り替えられた。
冷たく柔らかい感触が気持ちよかった。
「今年の抱負ができて、よかったじゃない。これで新年会の挨拶も問題ないわね」
「それは流石に恥ずかしいから、勘弁して」
結月からスポーツドリンクを飲まされた。
昼食を訊ねられたが、現在は食欲が無いのでゼリーのみを食べた。その後、薬を飲んだ。
「結月さ……せっかくのお正月なんだし、実家にでも帰っておいでよ。私はひとりでも大丈夫だから」
部屋を出ていこうとする結月に、麗美はその言葉をかけた。
温泉旅館に連れて行けなかったことの、せめてもの罪滅ぼしだった。
「バカ言わないで。麗美ちゃん、貴方ただでさえひとりで何も出来ないのに、病人なのよ?」
しかし、あっさりと断られた。
結月の呆れた口調が、麗美には図星であった。
「それじゃあ、来年こそ実家に帰ろうか。私も一緒に行くよ」
麗美のその言葉に結月は一度驚き、そして頬を赤らめた。
「何言ってるの! 海外よ、海外!」
赤面を隠すように、結月は部屋から出ていった。
珍しく動揺しているなと思いながら、麗美は眠りについた。
*
次に麗美が目覚めた時、気だるい感じが幾分和らいでいることが分かった。
体温を計ると、三十七度まで下がっていた。完治ではないにしろ、起き上がれる程度には回復していた。
時刻は午前三時。いつの間にか、窓はシャッターが降ろされていた。
リビングに出ると、明かりが点いていた。
テレビも点いたまま、結月がソファーで毛布を被って寝ていた。風呂に入った様子は無く、静かな寝息が聞こえた。
麗美はテレビを消し、結月の毛布を掛け直した。
キッチンでスポーツドリンクを飲んでいると、コンロに鍋が置かれているのが見えた。
中は鶏肉と卵の雑炊のようだった。生姜の匂いも微かに漂った。
ようやく食欲が湧いてきたので、麗美は鍋に火をかけた。キッチンシンクには、使われた茶碗がひとつ置かれていた。
麗美も茶碗一杯分を食べて、薬を飲んだ。そして、ふたり分の洗い物をした。
ソファーの結月を眺めながら――本当にすまないことをしたと、改めて思った。
今年は結月の仕事を減らせるように、自分もまた仕事を減らそうと思った。
それに――
麗美はリビングの隅にあるシェルフに目をやった。
ひとつの、使い古されたショップバッグが置かれていた。どの店のものなのかは知らないが、それはこの際どうでもよかった。
あの中のものを届けること。
決して、任されたわけでも、引き受けたわけでも無い。しかし、それが『役目』であると麗美は自覚していた。
何もかもが、片付くのだから。
あと、もう少し――
麗美は奥歯を噛み締めた。
「……」
洗い物を終えた麗美は、ソファーの結月に近づいた。
彼女のマネージャーであるはずなのに、体調を崩して面倒を見て貰った。
支えるはずが、支えられていた。
申し訳ないと思う以上に、この存在が麗美にとって有り難かった。
「ありがとう……」
小さく感謝の言葉を漏らすと、結月の頬に軽くキスをした。
今回の件だけではなく、普段から支えられている実感はあった。
だから――麗美は、結月を大切にしたいと思った。




