第59話
放課後、姫奈はEPITAPHには向かわず、モノレールに乗った。
自宅の最寄り駅では降りなかった。市街地の外れの駅で降りた。
陽が落ちる直前だった。
橙色に染まった駅前は寒く、姫奈は首に巻いたマフラーを上げて位置を直した。
少しだけ歩き、雑居ビルの前で立ち止まった。
ガラス戸に貼ってある『テナント募集中』のポスターを確かめ、ひとまず胸を撫で下ろした。
おそらく、まだ晶は契約していない。
ああいうかたちとはいえ――数日前に晶を引き止めたものの、以降どうなったのか姫奈は気になっていた。それを知るために、わざわざやって来た。
安心したはずなのに、不安そうな自分の表情がテナントのガラス張りに映っていた。
背後の、流れる通行人の様子もガラス越しに見えた。立ち止まった自分ひとりだけが、まるで時間が止まったかのようだった。
その映像の向こう――伽藍とした、もの寂しいテナント内を見渡した。
この広い空間でカフェを始めたところで、晶とふたりきりで店を回すことは不可能だった。他にも何名か、従業員が必要だった。
姫奈はその様子を想像し、テナント内に重ねた。
快く思わなかった。むしろ、吐き気がした。
「……」
ガラス張りに右の手のひらを置き、ゆっくりと握りしめた。
何も掴めなかった――かつて思い描いていた夢であるのに。
姫奈はそのまま、少し離れたところにあったチェーン店のカフェに入った。
あの空きテナントほどではないが、店内はそれなりに広く、多くの客で賑わっていた。
暖房が効いているものの、冷えた身体を温めようと、姫奈は入り口でホットカフェモカを注文した。
マグカップの乗ったトレーを受け取り、ちょうど空いていたふたり掛けの対面席に座った。
悴む両手でマグカップを握り、甘い香りを嗅ぎながら、ぼんやりと考え事をした。
晶との言い合いになってから、数日が過ぎた。
あれからEPITAPHに一度も顔を出していない。携帯電話で晶と一度も連絡を取っていない。
つまり、アルバイトの無断欠勤が何日か続いていることになる。
もうクビかな……。
姫奈は投げやりにそう思うと、店内を見渡した。
小さな店であるとはいえ、カフェでアルバイトをした実績がある。ハンドドリップコーヒーとエスプレッソマシンの技能を持っている。
次にカフェでアルバイトを始めるなら、履歴書にその旨が書けるだろう。
しかし、別のカフェでアルバイトをする気にはなれなかった。もしこの店で働くにしても、その姿が想像できなかった。他の従業員達と馴染めるとは思わなかった。
思えば――別に、カフェでアルバイトをしたいわけではなかった。
アルバイトを始めるまでは、そもそもカフェに入ったことが無かった。晶に連れられて初めてEPITAPHに入った時、洒落た店だと緊張したことが懐かしかった。
「まっず……」
カフェモカを一口飲むが、気持ち悪いぐらいの甘さに、思わず小言が漏れた。
どう考えてもチョコレートシロップの分量を間違えていると思った。もしかすれば、寒さ対策として現シーズンは多めに入れるよう指示されているのかもしれないが。
思えば――別に、コーヒーが好きというわけではなかった。
アルバイトを始めるまで頻繁に飲むわけでも、こだわりがあるわけでも無かった。だが、いつの間にかコーヒーに関する知識や技能は身につけていた。
それはあくまで、晶と良い店を作ろうと独学で努力したものだった。晶から、EPITAPHのバリスタを任されたからだった。
カフェやコーヒー自体はどうでもよかった。振り返れば、アルバイトの志望動機は実にふざけていた。
人間として、女性として――晶への憧れから始めたアルバイトだった。
そんなくだらないきっかけだった。もしもこの店の従業員に話すと、きっと笑われるだろう。
そして、それはいつの間にか『好きな人と一緒に居たいから』に変わっていた。
ああ、実にくだらない……。
姫奈は苦笑した。
しかし、そんなくだらない理由が、姫奈にとってはとても大切だったのだ。
それまで勉強しか知らなかった日々が、高校受験に失敗して暗かった日々が、晶と一緒に過ごすことで輝いた。
その日々が――現在、消えようとしていた。
左右どちらの手首にも、腕時計は無かった。自室に置いていたのだった。
腕時計の無い感覚はどこか開放感があると同時、なんだかもの寂しかった。
「……」
カフェモカはすっかり冷め、ひたすら甘いだけのそれは更に口に合わなかった。まだマグカップに半分ほど残っていたが、とても飲めなかった。
姫奈はマグカップをトレイごと返却口に下げると、店を出て帰路へとついた。
*
その日の夜。姫奈はベッドで雑誌を読むも、特集記事のページが目に入り、そっと閉じた。
クリスマス特集が組まれていた。レストランや惣菜、ケーキ屋の紹介等、本来は見ているだけで楽しくなるはずだった。
しかし、現在の姫奈にはとても辛いものであった。
そう。クリスマスは来週に迫っていた。
ベッドに仰向けになり、ふと部屋の隅を見た。
あるショップバッグが置かれていた。中には、奮発して購入したマフラーが、包装されて仕舞われていた。
せっかく用意した晶へのクリスマスプレゼントを渡すのか渡さないのか、渡すにしてもどうやって渡すのか――姫奈はぼんやりと考えるものの、ショップバッグから視線を外した。考えないようにした。
今年もまた、例年と同じく浮かないクリスマスになりそうだった。いや、虚しいという自覚がある分、なお沈みそうだった。
EPITAPHの店内はクリスマスの飾り付けをしたのかな?
表にクリスマスツリーを置いているのかな?
そういえば、コーヒー豆や消耗品を切らしていないかな?
というか……晶さん、元気にしているかな?
クリスマスを思い浮かべると、無断欠勤が続いているのに店が気になった。そして最後は、晶の身を案じた。
晶はあれだけ怒っていたのだから、もしかすると精神面に支障を来たせているのかもしれない。
怒らせた手前、姫奈は罪悪感が込み上げると同時、晶が寝込んでいないことを願った。
晶を怒らせた時のことを思い返した。
もしもあの時、移転をやめたい理由を正直に話したのなら――晶は素直に受け入れてくれただろうか。怒らずに聞いてくれただろうか。
理由を述べずに一方的に拒んだことを、姫奈は少なからず後悔していた。
しかし、それは晶に本心を、好きだという気持ちを伝えることである。
こうして晶から逃げ出して有耶無耶に終わるのか、もしくは気持ちを伝えるも届かなくて終わるのか――考えられるふたつの失敗を並べると、現在は後者を選びたかった。
あの時も、告白への勝算が無かった。告白する勇気が無かった。
いや、自信が無かったのだ。
高身長で、それなのに童顔で、変わった名前で、可愛くも綺麗でもなくて、何の取り柄も無いちっぽけな自分が、信じられなかった。
晶への憧れから始めたアルバイトだが、自分を変えるために始めたアルバイトだが、結局は何も変わらなかった。
人間として、女としての自信が欲しかった。
それさえあれば、もっと以前に晶に気持ちを伝えていた。過去の恋人の上辺を借り、仮初の快感を得ることも無かった。
無力さに、改めて打ちひしがれた。
込み上げていた後悔は沈んでいた。自分のことを理解するほどに、告白したところで成功しないだろうと思った。
もしも、晶と再び会う機会があるのなら――それでも告白できるのか、わからなかった。
しかし、再び寄りを戻すには避けては通れないと、姫奈は理解していた。
ただ謝るだけでは、晶はきっと納得してくれない。晶からどう思われようと、拒んだ理由を話すしかないのだ。
晶さんのことが好きだから他の従業員に嫉妬してしまう、と。




