第58話
それを知ったのは、十二月の中旬のことだった。
その日は日曜日だったが、EPITAPHの営業時間中に晶がどこかに出かけることは無かった。
「よし。今日はもう閉めてくれ」
午後五時頃、客足が途絶えたタイミングで姫奈は晶から言われた。
「まだ早くないですか?」
「いいんだ。今から、ちょっと出かけるぞ。お前に見せたいものがあってな」
晶はニコニコとした笑みを浮かべていた。
見せたいもの――ここ何週かひとりで出かけていた目的をようやく教えてくれるのだと、姫奈は理解した。
店を閉め、ふたりでモノレールに乗った。
その間、晶はこの件について何も言わなかった。姫奈としても、楽しみだったので何も訊かなかった。
やがて、EPITAPHから数駅のところで降りた。
市街地の中心地ではなく、やや外れたところだった。それでも人気は充分だった。もう陽は暮れていたが、駅前は明々と賑わっていた。
寒さに身を震わせ、姫奈はチェスターコートのポケットに手を突っ込んだ。ここに何があるんだろうと思いながら、ダウンジャケット姿の晶に付いて行った。
「ここだ」
駅から数分のビル前で、晶は足を止めた。姫奈はもっと歩くと思っていたので、なんだか拍子抜けた。
「えっと……何階に行くんですか?」
ビルの案内板を見ると、それぞれの階に飲食店が入っていた。
まさか食べ歩きで美味しい店を見つけただけなのかと、晶を見た。
「お前は何を言ってるんだ? ここだと言ってるだろ」
晶は呆れた表情を浮かべながらも、顎先で目の前を指した。
ビルの一階は空き店舗だった。
ここもかつては、何かの飲食店だったのだろう。前面ガラス張りの向こう、荒廃した景色で――キッチンや客席の原型が残っていた。
「ここって……何も無いじゃないですか」
「あれを見てみろ」
晶はポケットから手を出し、一階のガラス戸に貼ってあるポスターを指差した。
「……テナント募集中?」
姫奈はポスターの文字を読んだ。その一文の下に、不動産屋の連絡先が書かれていた。
姫奈の中で、ある予感が芽生えた。それはかつて、姫奈が思い描いていた理想の景色だった。
ざっと見ただけでも、この空間はEPITAPHより数倍広いと分かった。
「晶さん、まさか――」
「そうだ。次の春ぐらいにな……店をここに移転しようと思う」
人混みの喧騒が響く中、晶の落ち着いた声が聞こえた。
姫奈の予感は的中した。
「移すといっても、店名は変えるけどな。今度はちゃんとした名前にするつもりだ」
晶は苦笑して見せた。ひとりの経営者というより、幼い子供のように無邪気な表情だった。
そう。姫奈には、まるで子供の語る夢のように聞こえた。
最初は、あまりにも突拍子だったが――現在まで期待に応え続けた人物の発言により、段々と現実味を帯びてきた。
「どうした? もっと喜べよ」
「すいません。ビックリし過ぎて、言葉が出ないというか……」
「あははは……。お前らしいな」
隣の晶から、笑われながら腰を叩かれた。
そして、手を握られた。寒空の下で、晶の小さな手から温もりが伝わった。
「お前の夢だったし……私の夢でもあったもんな……」
「はい」
姫奈は頷く代わり、晶の手をぎゅっと握った。
前面ガラス張りの向こう、広く大きなカフェで晶と働く光景が、嫌でも想像できた。
かつて自身の望んでいた光景だった。
その夢がようやく叶うというのに、嬉しいはずなのに――どうしてか、姫奈は受け入れられなかった。
不安に似た感情が込み上げてくる。それを誤魔化すように、晶の手を力強く握った。
「ここ最近は、これを探してたんですか?」
帰りのモノレール内で、姫奈はふと訊ねた。
「ああ。不動産巡りしていたよ。お前にずっと隠していて、すまなかったな」
やはり、姫奈の思っていた通りだった。
晶はひとりで情報を集め、実際に現地を確認していたのだった。
「でも、いいサプライズだっただろ? クリスマスプレゼントにはまだ早いけどな」
「そうですね……」
晶さんがひとりで行動していたのは、わたしのため……。
姫奈はそう理解しようとするも、どこか腑に落ちなかった。自分を言い訳に使われたことが、なんだか腹立たしかった。
経営者が独断で決定を下すのは、何ら間違っていない。アルバイト風情が口を挟む隙間など無い。
しかし、せめて事前に相談をして欲しかった――
姫奈はその一点が残念だったが、口には出来なかった。
*
その日の夜、姫奈は自室のベッドに入るも、なかなか眠れずにいた。
EPITAPHの移転が未だに受け入れられず、心に深々と突き刺さっていた。
――これだけ分かりやすいなら、誰でも触れるな。
エスプレッソマシンの手書きマニュアルを渡した時のことを思い出した。あの時の違和感の正体が、現在になりようやく分かった。
自分でも晶でもない、第三者のことを視野に入れていたのだ。
――もしもこの店が大きくなって、お前以外にもバイトを何人か雇うことになれば、その時はどうする?
それに対し、指導すると答えたから購入へと繋がった。自身の回答を現在になって悔やんだ。
手動型エスプレッソマシン購入の際には、既に予兆があった。
一体、いつからだったのだろう。姫奈の気づかぬところで、経営者は着々と動いていたのだ。
だからこそ、晶に分かって欲しかった。
マシンの件で他店へアルバイトに行こうと考えた時、晶は引き止めてくれた。妬いてくれた。
それとまったく同じ感情が、現在の姫奈を覆い尽くしていた。
そう。EPITAPHを成長させ、やがては広くて大きい店にするのが夢だった。
それは構わなかった。しかし、それにより自分以外の従業員を雇うことが、姫奈には耐えられなかった。
これまでの『晶とのふたりの店』でなくなることが、どうしても嫌だった。
第三者の介入を、姫奈は拒んだ。
天羽晶のことが好きだから――
その想いがあれど、私情が通じる話ではないと姫奈は分かっていた。
だからこそ、どうすることも出来ずに、ただ胸が苦しかった。
「……」
姫奈は仰向けになり、部屋の天井に向けて手を伸ばした。そして、握りしめた。
晶との関係も、店のことも――何かを掴んだようで、何も掴めていなかった。
どちらも自身の望んだことなのに、上手くいかないことが虚しかった。
*
翌日。放課後になり、姫奈はアルバイトに向かった。
寒空の下、浮かない気持ちで店の扉を開けた。
その時、店内に客が居なかったのは偶然だった。
「あの、晶さん――移転の話、どこまで進んでるんですか? もうあのテナントの契約はしたんですか?」
姫奈は店に入るや否や、開口一番そう訊ねた。
昨晩、あれから疑問に思ったことだった。
「いや。不動産屋には前向きな感じで伝えてはいるが、まだ契約の意思表示はしていない」
キッチンの晶は不思議そうな表情を浮かべるものの、現状を教えてくれた。
その回答に、姫奈はひとまず胸を撫で下ろした。
まだ間に合うと思った。
「……お店移すの、やめにしませんか?」
姫奈は、恐る恐る提言した。
「は? 急にどうした? 昨日見て、何かよくない部分でもあったのか?」
「そうじゃないんです……。確かに、あそこは立地も広さも申し分なかったです」
あのテナント自体に意見があるわけではない。
――姫奈はあくまでも、私情で喋っていた。
「別に、移らなくてもいいじゃないですか。ここで続けていきましょうよ。常連さんだっているわけですし……」
「どうしたんだよ? 金のことなら心配するなって前も言ったよな? お前は日和らないで、経営者の私を信じろって――」
「違います!」
姫奈は思わず大声をあげ、晶の言葉を遮った。
晶は一度驚くが、すぐに怪訝そうな表情を浮かべた。
「何が違うんだよ……。私とお前の夢だったんじゃないのか?」
「確かにそうです。わたしの夢でした。――それでも、わたしはここがいいんです!」
「ふざけるな! お前はさっきから何が言いたいんだ!?」
晶は怒鳴り声をあげた。
医療用眼帯で右目が隠れているとはいえ、姫奈に剣幕は充分すぎるほど伝わった。
ここまで怒っている晶を、姫奈は初めて見た。その恐怖に息を飲んだ。
「晶さん、お願いです! ここで続けましょう!」
しかし、怖じけずに否定の声をあげ続けた。
晶がここまで怒るのは無理がないと分かっていた。理由もなく否定され続ければ、不条理が極まりない。
それでも、理由は――晶を好きだからこそ妬く理由は、決して言えなかった。
「お前もう、今すぐ出ていけ! 私の前から消えろ!」
晶はキッチンからわざわざ姿を現し、腕を真横に切った。
好きだという気持ちが伝わらなくとも――晶にはせめて、少しは思い留まって欲しかった。
「どうして……」
この残念な結果に、姫奈は瞳の奥が熱くなるのを感じた。
プツンと、姫奈の中で何かが千切れた。もう晶にはこれ以上何も話せないと、諦めがついた。
姫奈は踵を返し、店を出た。そして、逃げ出すようにモノレールの駅へと走った。
何も上手くいかない――
冷たい空気が頬を掠める中、改めて現実を思い知らされた。
想っているだけでは何も変わらない。何も変えられない。
伝えなければ、想いは決して届かない。
それは嫌なほど理解していた。
しかし、姫奈はそこから先へと動けず――現在はひとりで苦しむしかなかった。
次回 第23章『橙色』
逃げ出した姫奈は、晶と今一度向き合う。
(第3クォーターのクライマックスです)




