第56話
十二月になった。
二学期の期末試験の日程と科目が発表されたが、姫奈は相変わらず、放課後はEPITAPHへアルバイトに向かった。
店に着き、店内に客が居ないことを確認すると、真っ先に晶を抱きしめた。
「晶さん……」
そして、そのままキスをした。
「店では止めろって言ってるだろ……」
晶はそうは言うものの、拒みはしなかった。どこかぼんやりとした表情は、満更でもなさそうだった。
エスプレッソマシンの稼働が始まってからは、平日の夕方でも以前より客足が増えた。
『カフェラテはじめました』
表のメッセージボードにそう書いてある通り、メニューが増えたからだった。カフェラテ一杯が三百円という良心的な価格であることも、客から見れば魅力的だろう。
姫奈はレシートの控えを見ると、夕方だけではなく日中の客数も以前より増えていた。
それは確かに嬉しいことだが、エスプレッソ系の注文が多い分、コーヒーの注文は減った。ハンドドリップのコーヒーも長期間続けてきた店の『売り』なので、少し残念に思うところもあった。
その変化と合わせて――晶とのふたりきりの時間が減ったことも、残念だった。以前までは、平日の夕方は店内で晶とふたりきりになることが多かったのだ。
店の繁盛を姫奈は願っていたので、現在こういう気持ちになることが姫奈自身なんだか不思議だった。
そして、客が増えたことによる一番の弊害が、晶への負荷だった。
夕方に見る晶の顔は、以前に増して疲れていた。
「晶さん。土曜は一日休んでください。わたしひとりで大丈夫です」
姫奈としては晶とふたりで店を回したかったが、それは酷だと思った。
現在となっては店を閉める日が無いため、休ませるには姫奈がひとりで立つしかなかった。
「それは有り難い話だが……今週の日曜も、私は午後から出かけるぞ?」
「大丈夫ですよ。一日半ぐらいは余裕です。わたしに任せて、リフレッシュしてください」
晶を安心させるために、姫奈は精一杯の笑顔を作った。
来週は期末試験だが、土日をアルバイトで潰すことは姫奈にとって問題が無かった。
「そうか。それじゃあ、甘えさせて貰う」
「その代わりと言っちゃ何ですけど……今週も、泊まりに行ってもいいですか?」
姫奈は笑顔のまま、晶に訊ねた。
「ああ。構わないぞ……。料理ぐらいは出来るから、晩御飯は楽しみにしてろ」
晶は恥ずかしそうな表情だった。
姫奈にとっての目的は別にあったが、せっかくの食事も楽しみだった。
「はい!」
何にせよ、ふたりきりの時間を過ごせるのだから。
*
土曜日の夜。
先週と同じく、姫奈は晶と素肌を重ねていた。
寝室のベッドで、晶からされるがままの行為を受け入れていた。
唇や口内、胸をはじめ、全身を晶に差し出した。
「わたしの指……そんなに美味しいんですか?」
単純な性交の他、晶は他者の身体を噛むことが多かった。
現在も姫奈は晶から右腕を取られ、人差し指を軽く噛まれていた。
「わからない……。でも、こうしてるとなんだか落ち着くんだ」
晶はどこか怯えた表情だった。
指先から腕、そして首筋へ――順番にキスするかのように、痛みは上った。
おそらく晶なりに加減をしているとはいえ、それでも確かに痛かった。
「……」
しかし姫奈は声を出さず、じっと我慢した。
不安を与えぬよう、噛まれながらも晶を抱きしめた。
体温を感じることも、性的快感を得ることも、そして痛みを味わうことも――そのどれもが、姫奈にとっては幸せだった。
天羽晶という人間を受け入れている実感が、何よりも嬉しかった。
ベッドでの行為がひとしきり終わると、晶は泣き出した。両手で顔を覆い、丸まった背中が小刻みに震えたいた。
姫奈は晶をなだめると、リビングまで連れていきソファーに座らせた。
そしてキッチンに向かい、猫と犬のイラストがそれぞれに描かれたふたつのマグカップを取り出した。
電子レンジで牛乳を温め、晶の元に運んだ。
「姫奈……。すまなかった。痛かっただろ?」
晶は涙でぐちゃぐちゃになった顔で、姫奈を見上げた。
身体を激しく求め滅茶苦茶に犯す一方で、罪悪感の反動をそっくりそのまま受けているのだと、姫奈は理解した。
見下ろした晶の泣き顔は、姫奈に言いようのない高揚感を与えた。しかし、姫奈は表情に出さず押し隠した。
「泣かないでください。私は大丈夫ですから……」
マグカップをテーブルに置き、晶の隣に腰掛けた。
そして晶を抱き寄せ、頭をそっと撫でた。
姫奈は、自身の腕についた晶の噛み傷が目に入った。
もしも一生この傷跡が消えなくとも、それでも構わない――そうとさえ思った。
晶とを繋ぐ確かな証のように見えていた。
*
翌日の日曜日。
「店の方はすまないな。それじゃあ、行ってくる」
「任せてください。気をつけて行ってらっしゃい」
先週と同様、午後から晶はEPITAPHを離れた。
相変わらず、姫奈に行き先を告げなかった。
姫奈は笑顔で見送るものの、いい気はしなかった。
いったい、いつになれば話してくれるんだろう。以前から、ひとりで何を企んでいるんだろう。
そう思うものの、言い出せずにいた。晶が話してくれることを信じるしかなかった。
午後からも客はそれなりに来店し、ひとりきりの姫奈は忙しかった。
こうして身体を動かしていれば、余計なことを考えずに済むと思っていた。
しかし、姫奈は心の奥底に何かが引っかかっているような違和感を引きずっていた。
「すいません。カフェラテください」
「はい! かしこまりました!」
精神面が優れなくても客に対して笑顔を作ることが上手くなったな、と思った。
そして、この感覚は晶に向けているものと同じだと理解した。
狭い店内には、何人かの客が座っていた。
その中で、キッチンにひとり立ち――姫奈は孤独感に襲われていた。
あの夜、一栄愛生の上辺を被ると誓った。天羽晶は澄川姫奈ではなく一栄愛生を見ていたと知ったから、手繰り寄せた。
その甲斐あり、晶と身体を交えることが出来た。こういう結果であれ、以前から秘めていた望みは確かに叶えられた。
晶の幸せを望む代わり、晶からの愛情を受け取る――姫奈が思い描いていた構図はこうだった。
たとえ一栄愛生として振る舞っても、彼女への愛情をこの身で受け取れると思っていた。
しかし、手応えは無かった。上辺だけが撫でられ、芯まで届くことは無かった。
晶への想いを伏せる代わりの選択だったが、望む結果は得られなかった。
釈然としない気持ちは、まだ抑えることが出来た。
だが、晶とこの関係に慣れてしまうことを、姫奈は恐れた。
身体は交わろうと、心は交わらない――この状態が続き、自身の大切な気持ちが風化してしまっては、選択した意味が無いのだ。
「お待たせしました。カフェラテです」
姫奈は注文を受けた品を持ち、テーブル席に向かった。
カフェラテの入ったマグカップを置いた際、テーブルに飾られた黄色のハーバリウムが目に留まった。半年ほど前に購入し、ずっと在るものだった。
カウンター席に飾られた赤色、白色、青色のハーバリウム――購入した当時は分からなかったが、現在ではそれぞれが何を意味する色なのか理解していた。
では、この四本目のハーバリウムは何なのだろう。
細い瓶に詰め込まれた黄色いカスミソウが何を意味するのか、晶があの時どういう意図でこれを選んだのか、薄々は分かっていた。
しかし、姫奈は理解を拒んだ。いっそ、黄色のそれを乱暴に叩き割ってしまいたかった。
姫奈は踵を返し、キッチンへと戻った。
怒りに似た感情がこみ上げるのを、落ち着かせるように――右手首の腕時計に触れた。
これだけが心の拠り所だった。




