第55話
土曜日の夜。
EPITAPHでのアルバイトを終えた後、晶とふたりで晶の部屋に向かった。
「わたし、ご飯作ります」
「それじゃあ……私は、先に風呂に入ってくる」
ずっとドキドキしている姫奈とは裏腹に、晶は落ち着いているように見えた。
以前は一緒にお風呂に入ったのにな……。
姫奈はキッチンで夕飯の支度をしながら、夏の日のことを思い出した。
再び一緒に入ることを期待していなかった、と言えば嘘になる。
残念な反面、もしそうなれば理性を保てる自信が無かったので、結果的には良かったと思った。
十二月が迫った夜は冷え、鶏むね肉と生姜の粥は身体が温まった。
夕飯の片付けを済ませると、姫奈も入浴した。
ジャスミンの香りの入浴剤のせいだろうか。これからのことを考えると頭がおかしくなりそうだったが、不思議と落ち着いていた。
ぼんやりと、ひとりきりの空間で広い湯船に浸かった。
風呂から上がり身体を拭き、下着を手に取った。以前、ショッピングモールの専門店で購入した、新品のものだった。
今回はショーツだけで残念だが、それを履き――タンクトップとパジャマを着た。
「いいお湯でした」
長い髪を乾かし、リビングに戻った。
上下スウェット姿の晶は、ソファーで携帯電話を触っていた。
テレビはついていたものの、画面を観ている様子は無かった。適当な番組の音声が、雑音として鳴っていた。
「今日は何を観るんだ?」
晶は携帯電話をテーブルに置き、顔を上げた。
広いソファーの――晶の隣にわざわざ座り、姫奈はそのままキスをした。
「……お前最近、盛りすぎだろ」
顔を離すと、医療用眼帯を着けていない晶から、呆れた目で見られた。
「仕方ないじゃないですか。キスがこんなに気持ちいいだなんて、知らなかったんですから……」
不特定の相手とキスをしたところで、同じ快感はきっと得られない。好きな人とだからだと、姫奈は分かっていた。
「それに、まだ子供なんで大目に見てください」
それを理由に迫るのは卑怯だと思った。しかし、我儘を押し通すにはこれしか無かった。
晶の両目をじっと見つめ、姫奈は何度かキスをした。それを晶は拒まなかった。
もっと、晶さんが欲しい――
姫奈はキスの度に気持ちが高まった。より晶を求め、やがて舌で晶の閉じた唇を割った。
その瞬間、晶から突き放された。
「待て……。そういうことするなら、ここじゃ嫌だ……」
晶は指先で唇を押さえながら、ぽつりと漏らした。そして、別室の扉を指差した。
姫奈の入ったことのない部屋だが、以前の模様替えの際、ベッドが運ばれていたのを覚えていた。
「わ、わかりました……」
一度中断され、姫奈としても急に恥ずかしくなった。
仕方なく場所を移そうとしたところ、晶からパジャマの袖を引っ張られた。
「それと――私はお前が何をしても受け止める。その代わり、私以外にこういう真似したら絶対に許さないからな……。わかったか?」
言葉だけなら、雇用主としての責任を果たそうとしているように聞こえた。
しかし、頬を赤らめ、声は小さく――姫奈には、その威厳があまり感じられなかった。
「前にも言ったじゃないですか。こういうこと頼めるの、晶さんしか居ないって……」
そんな晶が可愛く見え、姫奈は抱きしめて頭を撫でた。
寝室は十畳ほどの広さだった。
以前までリビングに置かれていたベッドの他、キャビネットにスタンドライトぐらいしか物がなかった。
シンプルな寝室だと、姫奈は思った。かつてのリビングに比べ、就寝には落ち着いた空間だった。
晶は部屋の明かりにスタンドライトを点けた。そして、エアコンを動かした。
スウェットを脱ぐ晶を眺めながら、姫奈は部屋の扉を閉めた。
自身もパジャマを脱ぐと、肌寒かった。
ふたりでベッドに入り、向き合うように横になった。
「晶さん……」
姫奈は、スタンドライトの暖色の光に照らされた晶の顔を見つめた。心なしか、ぼんやりしているように見えた。
晶を抱きしめ、さっきの続き――舌を絡めたキスをした。
やはり、唇を重ねるだけのに比べ、煙草の匂いが強かった。しかし、事前に分かっていたため我慢できた。
それよりも、晶の舌の感触を味わえることが幸せだった。普段から滅多に触れることのない、晶の大切なところを――その温もりを感じた。
ピチャピチャと、唾液の擦れる音が聞こえていた。
かつてない快感を得ていた。
しばらくして、姫奈は顔を離した。晶の恍惚した表情が見えた。
「晶さんと出会って、まだ間もない頃……晶さんが『発作』で具合悪くした時のこと、覚えていますか? わたしが店からここまで運んだやつです」
「すまない。思い出せない」
「でしょうね。晶さん、薬で朦朧としてましたもん……。その時の帰り際、晶さんに襲われて舌入れられたんですよ? びっくりしました」
「は? マジか?」
姫奈は昔話を語った。現在ではもう、笑い話だった。
しかしながら、まだ笑えない事実がひとつだけあった。
「わたしにキスした後、晶さんこう言ったんですよ? ――アイって」
「……」
「一栄愛生さんとも、こういうことしたんですか?」
姫奈はベッドの上を動き、晶の下半身に顔を近づけた。
そして、晶の太ももにある傷跡に、舌を這わせた。
「やめろ! 汚い!」
「汚くなんかありませんよ。――愛生さんは、大事なところ舐めてくれたんですか?」
写真の女性の顔が脳裏に浮かんだ。
晶は亡くなった彼女のことを現在どう思っているのか。姫奈は、それが知りたかった。
そう。自分の気持ちが届く『勝算』があるのかを――
「愛生のことは、麗美あたりから聞いたんだな?」
「はい。RAYのマネージャーだった人であり、晶さんと付き合っていた人であり、わたしに似た人であったと……」
「そうか……」
「わたしにそんなに似ていたんですか?」
「ああ。なんていうか、雰囲気や人柄がな……」
晶はばつが悪そうな表情をしながらも、はっきりとそう言った。
その予感は、姫奈の中で以前からあった。しかし、晶の口から明確に告げられると、あまりいい気はしなかった。
何かが重く圧し掛かった。
「ここまで言われたら、白状しておく……」
好きな人と、キスをした。舌を絡めた。半裸で抱き合った。
「私が弱いのが、全部悪いんだ……。私には、まだ必要なんだ……」
幸せなはずだった。
「すまないとは思ってる。私はお前に、あいつのことを――」
――その先は、聞きたくなかった。
「構いませんよ」
姫奈は晶の口に人差し指を突き指した。
喋っている動きは止まらず、歯に挟まり痛みが走った。
こうして噛まれたのは、懐かしい痛みだった。
「わたしに愛生さんの姿を重ねても、構いません。わたしのことをまた無茶苦茶にしても、構いません。それで晶さんが元気になるなら、全然構いません」
晶がキスやこれからの行為を受け入れてくれた理由を、姫奈は理解した。
同時に『勝算』の計算を頭の中から消し去った。
「わたしに、晶さんの弱いところを受け止めさせてください。わたしになら、何だってしてください」
姫奈はタンクトップを脱ぎ捨てると、晶に精一杯の笑顔を向けた。ベッドに仰向けになり、両腕を広げた。
向けられた気持ちの先が、わたしじゃなくても構わない。
わたしの背後に居る人物でも構わない。
快感や痛み――好きな人から、それらを受け止めるだけで充分に幸せだった。
「姫奈……」
晶は左目に涙を浮かべ、姫奈に覆い被さるように抱きついた。露わになった乳房に顔を埋めた。
心の弱った晶の姿を、姫奈は久々に見た。
自分が必要とされていることが、たまらなく嬉しかった。
そう。たとえ、かつての恋人の名前を出してでも、晶の弱さを引き出してみせる。
それこそが――晶から必要とされる、たったひとつの手段なのだから。
次回 第22章『届かない想い』
晶との肉体関係を持つが、姫奈の心は満たされずにいた。その中で、晶からEPITAPHの今後に関する大きな提案を聞かされる。




