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胸を張って歩ける日まで  作者: 未田
第21章『たったひとつの手段』
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第54話

 日曜日。

 その日、姫奈は朝からEPITAPHへアルバイトに向かった。

 冷えた朝だったが、晶が店を開けていた。規則正しい生活を送っているのだと、姫奈は安心した。


「それじゃあ、行ってくる。夕方には帰ると思う」

「お店の方は任せてください。行ってらっしゃい」


 午後から、晶が行き先を告げずに出かけた。嬉しそうな表情だった。

 カーキ色のモッズコートの他、黒猫の顔を模したファンシーなリュックサックを背負っていた。プラチナベージュのショートボブヘアーと医療用眼帯に似合いすぎていると、姫奈は思った。


 晶にとって特別に着飾っているのか、わからなかった。

 もしかすると、自分の知らない誰かと会っているのでは――考えないようにしていたが、自然とその疑いが浮かんだ。

 今すぐにでも追いかけて、跡をつけたかった。しかし、店に客が居る状況ではそうもいかなかった。


 ――いずれお前にも話すから、まずは私ひとりで行かせてくれ。


 以前の口ぶりから悪いものではないと思いつつも、まだ何も分からない以上は安心できなかった。

 というか、ひとりで出歩けるんだ……。

 客足が落ち着いたところで、ふとそう思った。


 晶がどこかに出かける際は、付き添いが必要だった。一時は、麗美も過保護なほど見張っていた。

 それが現在では、不要となっていた。

 万が一街中で正体に気づかれても、ひとりで対処できるのだと姫奈は思った。

 いや――そもそも本当に気づかれるのだろうか。『事故による死亡』から月日は流れた。世間の記憶から少しずつ薄れていても、おかしくはなかった。


 そして、天羽晶はひとりの『一般人』として、自分の足で歩いている。世間に馴染もうとしている。

 それは姫奈にとって喜ばしい事実であった。

 しかし、自分の手から少なからず離れていく予感がしたため、複雑な心境だった。


「……」


 姫奈は、右手首に巻いた腕時計に触れた。


 店から客が居なくなったのを見計らい、姫奈はキッチンでルーズリーフにペンを動かした。

 ここ最近は閉店後にエスプレッソマシンの特訓をした甲斐あり、なんとか扱えるようになった。

 実際に道具を触りながら、晶用のマニュアルを記していた。要点を踏まえ、なるべく分かりやすい内容を心がけた。

 晶も触れるようになれば、カフェラテ、カプチーノ、マキアート――需要は分からないがエスプレッソも、新たにメニューに加えることが出来る。


 これで、カフェとしてようやくカタチになる。もう少しだと思いながら、姫奈は張り切った。


「帰ったぞ」


 事前に言っていた通り、午後五時頃に晶が店に帰ってきた。ちょうど店内には客が居なかった。


「お帰りなさい。なんだか上機嫌ですね」

「ん? そう見えるか?」


 晶はどこか満足そうに、ニコニコと笑みを浮かべていた。

 何かは分からないが、収穫があったのは確かだった。普段は手ぶらで出かけることが多いからこそ、リュックサックの中に何が入っているのか姫奈は気になった。


「どこに行ってたんですか?」

「うーん……。悪いが、まだヒミツだ」

「えー。教えてくださいよ」


 さり気なく訊ねるも、やはり答えてくれなかった。

 どれほど先になるのか――いずれ話してくれる時を待つしかなかった。


「店の方はどうだった?」

「特に問題無かったです。暇というわけでもなかったんですけど……これ書いてみました」


 自筆のエスプレッソマシンのマニュアルを晶に見せた。


「おおっ、助かる。これだけ分かりやすいなら、誰でも触れるな」


 晶のその言葉に、姫奈はなんだか違和感を覚えた。正体の分からないものだった。

 何かがじっとりと纏わりつくような感覚だった。

 しかし、晶から笑顔で褒められると、それはどうでもよくなった。


「まずはですね、こうやって電源を入れるんですよ」


 ちょうど客が居ないので、姫奈は晶に解説を始めた。

 その時だった。

 扉が開き、誰かが入店した。


「いらっしゃいませ」


 姫奈は解説を中断し、扉に目をやった。


 ひとりの女性だった。彼女は店内を見渡していた。

 初めて訪れたであろう客が店内を物珍しそうに見渡すのは、よく目にする。

 しかし、彼女にはその素振りが無く、まるで何かを物色しているかのような目つきだった。


 姫奈の経験上、あまり良い印象では無かった。

 露骨に警戒心を露わにし、晶を背後に隠すように一歩踏み出した。

 晶もまたそれに気づき、気配を可能な限り消した。


「このお店にRAYの天羽晶さんが居ると聞いたのだけど」


 姫奈は女性から、少なからず高圧的な態度を感じた。

 晶との再会を待ち望んでいるようなファンではないと、すぐに察した。

 マスコミだ――姫奈はそう悟った。

 久しく姿を現さなかったが、何の前触れもなく唐突にやって来た。


「何の話でしょうか?」


 姫奈は、苦笑しながらとぼけた。一切動じることのない完璧な演技であり、心中で自画自賛した。

 だが、その努力を他所に、背後の晶が自分から姿を現した。


「……やっぱり、天羽晶が居るじゃないですか」


 女性は晶をしばらく眺めた後、この人物の正体に確信を得たようだった。

 美味しい獲物を見つけたような、下劣な瞳を向けた。

 姫奈は晶の行動に焦るが――


「違う、別人だ。私は、こいつの姉の澄川晶だ」


 晶はキッチンから客席へと姿を現した。

 その声、そして佇まいは何者も寄せ付けない凛としたものだった。


「何もオーダーしないなら、今すぐ出ていけ」


 晶は腕を組んで立った。そして、静かに言い放った。

 隻眼の瞳はとても冷ややかなものだった。

 小柄な身体からは、大きな壁がじわじわと押し迫るような圧が放たれていた。

 初めて見る敵意剥き出しの感情に、姫奈は恐怖すら感じた。


「その目、どうしたんですか!? どうして死んだことになってるんですか!?」


 女性は一度は怖気付くような様子を見せるも、飲まれないように大きく乗り出した。

 それに対しても、姫奈は怖かった。もしこの様子で迫られたなら、冷静でいられる自信は無かった。

 だが、その女性と対峙する晶は何も動じていなかった。


「もう一度言う――今すぐ出ていけ。これ以上騒ぐなら、業務妨害としてこちらも相応の手段を取らせて貰う」


 晶は携帯電話を取り出し、落ち着いた様子で宣言した。

 姫奈からは晶が脅迫しているように見えた。その通り分が悪いのか、女性は店から立ち去った。


「はぁー。まったく……」


 晶は大きく溜め息をつきながら、頭を掻いた。

 さっきまでの凛とした空気はどこかに消え、気だるそうに店の扉を眺めていた。


「お、お疲れさまです。大丈夫ですか?」

「ああ、私は何ともない。ああいうバカにはな、ガツンと言わないとだめだ」


 もしかすると晶の手が震えているのではないかと、姫奈は思った。

 追い返すための一時的な強がりだと晶を確かめるが――至って平常だった。


 かつてマスコミの襲来に怯えて泣いていた『元アイドルの女性』は、もう居なかった。

 彼女はやはり『一般人』としてこの世界で生きているのだと、姫奈に感じさせた。


 そして、マスコミから晶を守るという自身の役目が失くなったことに気づいた。

 それは同時に、晶の『弱さ』が失くなったことを意味した。

 これもまた喜ばしいことなのに――どうしてか、姫奈に不安を感じさせた。



   *



 午後六時頃、店を閉めた。

 外はもう暗く、秋の日暮れは寒かった。


 姫奈はテイクアウト用のカフェラテをふたつ持ち、晶と客船ターミナルの広場に向かった。

 広場は暖色の明かりでライトアップされていたが、相変わらず人気は無かった。

 晶が煙草を咥えたタイミングで、姫奈はライターで火をつけた。


「……」


 姫奈は両手で温かい紙コップを持ち、煙草を吸っている晶をぼんやりと眺めていた。


 晶がひとりでどこかに出かけていること。そして、ひとりでマスコミを追い返したこと。

 ふたつの事実に、未だに驚いていた。

 晶の成長を目の当たりにし、姫奈は自分の存在意義を問うた。


 もう、わたしが側に居なくてもいいんじゃ――考えないようにするが、目の前から離れなかった。

 晶の弱さを受け入れ、支えようと誓った春の日。あの時の気持ちが、現在は行き場を失くしていた。

 その代わり、不安が込み上げた。


「晶さん……最近、眠れてますか?」


 姫奈は恐る恐る訊ねた。


「ん? 最近は割と寝れてるぞ。それにな、薬を飲むことも、めっきり減った」


 晶は無邪気にニコッと笑った。とても生き生きとした様子だった。

 しかし、姫奈は素直に喜べなかった。不安は更に大きくなり――ズキンと、心が痛んだ。


「バカだよな……。昼間にちゃんと働いて身体動かしたら、夜は疲れて寝れるんだ。そんな当たり前のことを、ずっと忘れていたよ」


 晶は遠くを見るような目で語った。

 確かに、レシートの控えの時刻を見ると、ここ最近は平日も午前八時には店が開いているようだった。

 店主の描いた当初の主旨から離れ『普通のカフェ』として経営していた。

 姫奈もまた、それを望んでいたはずだった――


「次の週末、泊まりに行ってもいいですか?」


 押し迫る不安を払い除け、訊ねた。

 アルバイト外で、側に居る口実を作りたかった。


「ああ。別にいいぞ。また何か、映画でも観るか?」

「それもいいですけど――久しぶりに、わたしが添い寝してあげます」


 暖色の光に照らされた晶を、姫奈はじっと見つめた。

 その言葉に晶は一度驚くも、照れ臭そうに姫奈から視線を外した。


「そうか……。そう言ってくれるなら、頼む……」


 文化祭の日。学校の屋上で、互いを求め合いキスをした。

 その経験があるからこそ『添い寝』が何を意味するのか、晶に意図を理解して貰えたようだった。

 姫奈は静かに喜んだ。

 しかし、不安は決して消えなかった。

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