第50話
十一月になり――二学期の中間試験が終わるとすぐ、文化祭の準備期間に突入した。
姫奈は自分の不注意から実行委員を任されたので、放課後は毎日教室に残っていた。晶に事情を説明し、アルバイトはしばらく休ませて貰っていた。
多数決で決まった通り、姫奈のクラスの催し物は『メイド喫茶』である。
教室内を喫茶店に見立て、メイドの格好をした生徒が給仕をするといった内容だった。
もうひとりの実行委員であるクラス委員が、教室内の内装と給仕係の衣装を――そして姫奈が、提供する飲食物の担当をする事となった。ふたりを軸にクラスの生徒は接客班と裏方班に分かれ、それぞれ準備に取り掛かっていた。
まるでEPITAPHでのオーナーとバリスタとの関係に似ていると、姫奈は思っていた。とはいえ、こちらでは人数が居る分、文字通り裏方専門業務としてのイメージが強かった。メイド服での接客は免れそうだったので、少しだけ気が楽だった。
コーヒーカップとソーサー、ドリッパーにペーパーフィルターは全て百円均一ショップで揃えた。それらに比べケトルは高価なので、安物のヤカンで代用した。
豆は、挽いてある市販のものをスーパーで購入した。EPITAPHで利用している卸業者から同値段で高品質のものが入手できたが、姫奈としては学校生活に巻き込みたくなかった。
コーヒー初心者用の道具一式を並べると、姫奈はEPITAPHでアルバイトを始めた頃を思い出し、なんだか懐かしかった。
それらを使用して、教室でクラスメイトに実践していた。姫奈を中心としたひとつの机の周りを、生徒達が囲っていた。
「いい? こうして、一回移すだけで大体九十度ぐらいになるから」
姫奈は卓上用の電気コンロで沸騰させた湯を、アルミ鍋からヤカンに移した。
ブレザーとブラウスの左腕の裾から、手首に着けた腕時計がふと見えた。念のため、どこにもぶつけないように注意した。
「そして、ちょっとだけ注いで二十秒蒸らすの。ヤカンだからドバっと出ないように気をつけて」
姫奈自身ヤカンでのドリップは初めての経験なので、慎重に行った。とはいえ指導している立場上、さも慣れているかのように立ち振る舞った。
「あとは、こうして円を描くように注ぐだけ。三回でお湯を使い切る感じで」
フィルターから湯が落ち切ると、ドリッパーを外してカップをクラスメイトに差し出した。
彼女達は砂糖とミルクを入れようとしたが、敢えてブラックを飲むことを勧めた。
「おおっ。缶コーヒーやインスタントと全然違うね。ブラックで飲めるなんて、びっくりだよ」
クラスメイト達は順番に回し飲みながら、驚きの感想を述べた。
「安物でも、ちゃんと淹れたら美味しいからね。結構簡単だと思うけど、どうかな? 詳しくは、渡してあるレジュメ見ておいて」
過去に書いた晶用のマニュアルとほぼ内容を、姫奈はルーズリーフに書いた。それをコピーし、裏方班に渡していた。
「澄川さんって手慣れてるというか、なんか凄いね。プロの人みたい」
「あはは……。ちょっと自宅でこだわってるぐらいだよ。ごめんね、口うるさくて」
この学校ではアルバイトを禁止されていない。後ろめたくはないが、姫奈はカフェでアルバイトをしていることをクラスメイトに言えずにいた。
晶との空間を、学校生活の部分に触れて欲しく無かったのであった。
「はい、先生。紅茶は無いんですか?」
「紅茶は茶葉が美味しさに直結するから却下です。そんな予算ありません」
「えー。メイドさんといえば紅茶だと思うんだけどなぁ。ダージリンだよ? ファーストフレッシュだよ?」
「フレッシュとフラッシュを間違うようなニワカ知識のイメージは捨てなさい。あくまでも、うちはコーヒー一本で勝負し
ます」
まるで晶のようなことを言っているなと、姫奈は笑いそうになった。
しかし、現にハンドドリップのコーヒーひとつで店を回していた経験があるからこその発言だった。この催し物には、少しだけ自信があった。
なお、紅茶に関する知識は皆無だった。以前、結月から貰った高級そうな紅茶のティーパックを自宅で飲んだ際、市販の黄色いものに比べ感動するほど美味しかった。所詮はインスタントだが、ここまで差を感じたことが印象的だった。
「はい、先生。ケーキは無いんですか?」
言うほど先生でもないのになと、姫奈は思った。心なしか、皮肉のように聞こえてきた。
「ケーキ作るだけの予算も手間もありません。その代わり、甘いものはこうして――」
姫奈はフィルムに個別包装された小さなチョコレートをふたつ取り出し、ソーサーに添えた。ディスカウントショップで購入した、徳用チョコレートだった。
「ブラックコーヒーにはこの手のチョコが一番合います。口の中でチョコを溶かしながら飲むのがオススメ」
他にも、ブラックコーヒーを半分飲んでからミルクをたっぷり入れて味の変化を楽しむことも紹介した。
どちらも、晶の受け入で姫奈も納得したものだった。
「コーヒー一杯にチョコふたつ付けて百円。うちはこれしか出しません」
「えー? 百円って利益出んの?」
「原価は百円未満だから、まあなんとか。お金の話するけどさ、商品ひとつだけなら管理だってラクでしょ?」
「原価はそうかもしれないけど、可愛いJKの私達がメイドのコスで出すんだから、プラス千円は余裕だって」
「……」
目の前のクラスメイト達にそれだけの価値があるのかと疑問だが、言い争いになりそうなので姫奈は黙った。
メイド服の付加価値は置いておき、確かに給仕の人経費や飾り付けられた場所代のことは考えていなかった。普通はどのように計算するのだろうと、少しだけ興味があった。
「大体、商品ひとつじゃないでしょ? ポラロイドカメラ撮影のオプションメニューあるって聞いたけど」
「え――なにそれ? 最早、いかがわしいお店じゃん」
初めて聞いた情報に、姫奈は驚くというより怪訝な表情を見せた。
「ていうか、そんなの学校が許可するの? にわかには信じられないんだけど……」
「許可下りたって聞いたよ。おーい、委員長」
クラスメイトは、教室の中央で生徒達の指揮を取っているクラス委員――もうひとりの実行委員に手を振った。
彼女は呼びかけに気づいた。
「ねえ、委員長。お客さんがお気に入りの子を指名して、お気に入りのポーズでポラロイドカメラ撮影できるんだよね?」
「ええ。できるわよ」
具体性が増した話に姫奈は嫌悪感が増したが、クラス委員はふたつ返事で答えた。
「……それマジなの? うちの学校、シンプルにヤバいじゃん」
「あー。でも、あくまで百円よ? それ以上取ったら許可出せないって言われたわ」
「いやいや。値段の問題じゃないでしょ……」
判断基準が明らかにおかしく、姫奈は頭痛に襲われた。
進学校のはずなのにと、学校の倫理観を疑った。
「あはははは! 私らの価値、たったの百円かよ!」
「百円の女! マジでヤベー!」
さすがに怒りを買うと思ったが、クラスメイト達は腹を抱えて下品に笑っていた。ここまで蔑まれても、彼女達は怒るどころか面白がっていた。
そもそも学校側から蔑まれているのか、姫奈は疑問だったが。
何にせよ、自分は裏方なので関係の無い話だと思っていた。
「あっ、そうだ。澄川さんの分はXLで注文しておいたわよ」
「……はい?」
突然の言葉に、姫奈はポカンとした表情を浮かべた。
いや――XLが何を意味するかも含め、頭のどこかでは理解していた。嫌な予感がした。
「ほら、これ。可愛いでしょ?」
クラス委員は携帯電話を取り出し、画面を見せた。
画面には、一着のメイド服のカタログと、着用例が映っていた。
オプションメニューを聞いてからそんな予感はしていたが、やはりカチューシャとミニスカートのメイド服だった。姫奈は最初、ヘッドドレスとロングスカートのクラシカルなものを想像していた。
「うん。なんかエッチな感じもするけど、可愛いね」
「このサイズは澄川さん専用だよ?」
「え?」
わたしがメイド服を着る?
嫌な予感の通りになり、姫奈は困惑した。
「いやいやいや。裏方組は着ないって話じゃ……」
「キッチンスペースはパーテーションで区切って見えないようにしたんだけど、それだとなんか教室内が狭くってね。取っ払って、メイドさんが淹れてるところを見れた方がいいでしょ?」
「話はわかるけど、裏方班全員のコスチューム揃えられるの? わたしの分だけあっても意味無いよ?」
姫奈は、キッチンスペースを隠すことになった経緯を思い出した。
人数分の衣装が揃えられないから、裏方組は学生服のまま姿を隠すことになったのであった。
「ああ、それなら大丈夫よ。優秀な裏方リーダーが、とことん節約してくれたから」
クラス委員はそう言い、ニコッと微笑んだ。
「……だからって、わざわざわたし専用のは要らないよ」
姫奈はまだ抵抗した。
この催し物は接客班と裏方班に別れ、さらに時間による当番制だった。衣装はクラス全員分のを用意するのではなく、当番ごとに着回すことになっていた。
姫奈用にXLサイズを用意したとしても、姫奈以外に着られるクラスメイトは他に居なかった。
「予算オーバーするわけじゃないんだし、あなたはリーダーなんだし、遠慮しなくてもいいのよ?」
「意味わかんないよ。後ろの方」
「まあまあ……。私は単純に、あなたのメイド服姿が見たいだけ。澄川さんって、スタイル良いんですもの」
クラス委員は不敵な笑みを浮かべると、指先で姫奈の首筋から肩のラインを撫でた。
そこから胸に流れそうになったので、姫奈は嫌悪感から手を振り払った。
――彼女の個人的な理由に巻き込まれたことを理解した。
何とも腹立たしいが、あまりにもくだらないので、呆れるばかりだった。
「……もしかしてさ、あのホームルームのこと、まだ怒ってる?」
「あら。何のことかしら」
クラス委員はさらりと流し、この場を立ち去った。
とぼけているようには見えなかったので、ホームルームの件ではなさそうだと姫奈は思った。
とはいえ、個人的理由の方が、遥かに厄介だった。
嫌な人に目をつけられたと、頭を抱えた。身体を見られていると思うと、寒気がした。
自業自得だとは割り切れない。しかし、こんなことになるなら予算を節約しなければよかったと、現在になって後悔した。
そして、メイド服の着用だけは何としてでも回避しようと、当日までに策を考えることにした。
「……」
準備作業中の教室で姫奈はひとり立ち尽くし、ふと左腕の袖をめくった。
学校では――学生としての腕時計なのだから、利き腕とは逆、さらに外向きに着けていれば違和感は無いと思っていた。
数字の無い文字盤は、相変わらず正確な時間が分からない。ブランド名の価値には、慣れる気がしない。
だが、晶からのプレゼントを眺めると、嫌な気持ちが少し晴れた。




