第47話
十月も半ばになると、日中でも暑さは和らいだ。秋が姿を見せようとしていた。
晶からも流石に水出しアイスコーヒーの取り止めを告げられ、姫奈はようやく安心した。
しかしながら、同時に季節メニューが無くなったことを理解した。
標準的なコーヒーだけしか出せないカフェは避けまいと、晶から渡されたエスプレッソマシンのカタログを熟読した。そして製品名をインターネット検索にかけ、分かる範囲で使用感を調べた。
「あの……。晶さん、ちょっといいですか」
「どうした?」
ある日、EPITAPHの店内に客が居ないことを確認すると、姫奈はスタッフルームからカタログを持ってきた。
ボロボロになった付箋だらけのカタログをめくり、あるページを晶に見せた。
「わたしは、これがいいと思うんですけど……」
値段が七桁近いので進言し辛いが、悩んだ末に決めたものであった。
「ふむ。念のため訊いておくが、これにした理由は?」
「設定が細かく出来るのと、一日にそこそこの数を提供できるのと、あとはメンテナンスがしやすいからです。めっちゃ大きいですけど、ギリギリ置けそうな感じです」
姫奈は晶に説明した。
海外の老舗メーカーではデザインにもこだわっていたが、この際それは捨てた。もし晶からそれが理由で却下されたなら、考えようと思った。
「私はよく分からないんだが、全自動タイプじゃなくて手動タイプなんだな」
「はい。やっぱり、味を求めるなら手動タイプが良いみたいです」
「ポテンシャルがあるのは分かる。でも、淹れる奴――例えば、私とお前で差があるわけか?」
「まあ……少なからず、違いはありますね」
それに関しては、自分が淹れることを念頭に置いていたので、いざ触れられると言葉を濁した。
冷静に考えれば晶の方が店に居る時間が長いのだから、晶を主導にするべきだったと現在になって反省した。
「でも、晶さんなら、わたしなんかよりも全然上手く出来ますよ」
しかし、姫奈は晶のセンスを信じていた。何を行うにしても、晶に対しては劣等感があった。
「例えば……もしもこの店が大きくなって、お前以外にもバイトを何人か雇うことになれば、その時はどうする?」
「すいません。正直、そこまでは全然考えてなかったです」
確かに晶の言う通り、もしそういう状況になれば味のばらつきは目立つだろう。
何も言い返せなかったが、晶の口からそういう将来図を聞かされたことに驚いた。
それは嬉しい反面――自分以外の従業員が居るのを想像すると、なんだか快く思わなかった。
「でも、もしそうなれば……その時は、わたしがきっちり指導します!」
その気持ちを払拭するかのように、姫奈はすぐに対策案を考えた。
まだエスプレッソマシンに触れてもいないので、実際にどの程度扱えるのか分からない。しかし、自分が指導できる立場でありたかった。
他の誰よりも、この店のバリスタであることに誇りを持ちたかった。
「……わかった。これ買おう」
「え? いいんですか?」
この話の流れで決まったことに、姫奈は驚いた。
「ん? 味が違うのも一興だ。じゃないと、ハンドドリップのコーヒーなんて出してないだろ? この先も変えるつもりは無いぞ」
この店のコーヒーをハンドドリップで初め、半年間も続けてきた。
当たり前になっていたので忘れていたが、ふたりの淹れるコーヒーの味は必ずしも同じではなかった。
「それに、味が違うとはいえ最低限の保証さえ出来るなら、それでいい」
現在ではもう見なくなったが、姫奈が晶のために事細かに書いたマニュアルがキッチンに貼ってある。
おそらく、その実績があるからこそ姫奈の言葉に晶は納得したのだろう。
「お前には期待してるぞ、バリスタさん」
「は、はい!」
晶からそう言われ、姫奈は改めて認められたような気がした。とても嬉しく、思わず笑みが漏れた。
「これから注文したら、いつぐらいに届くんですかね?」
「さあな。まさか受注生産ではないだろうから、在庫があるならすぐに来るだろ。これから秋になるから、カフェラテでも出せるなら、ちょうどいい」
晶もまた、メニューの心配をしているようだった。
表のメッセージボードには『水出しアイスコーヒーやめました。夏の間ありがとうございました』と、読ませる意味があるのか分からない言葉が書かれていた。
「カフェラテだけじゃなくて、カプチーノにマキアートも出せますよ」
「……待て。そう一気に言われると、なんか頭が痛くなってきた」
「安心してください。フォームドミルクとスチームドミルクの比率で呼び方が変わるだけで、基本的には全部同じですから」
「よく分からんが、そうなのか?」
「はい。厳密に言えばマキアートにスチームドミルクは使いませんし、チョコレートシロップも加えればカフェモカに――」
「わかったわかった! オタク臭い知識を振りかざすのは、やめろ」
独学で得た知識を披露していると、晶に一蹴された。
「でもまあ、ようやくカフェらしくなってきますね。材料も発注するんで、原価計算と値段設定を『ちゃんと』お願いします」
その反撃と言わんばかりに、値段のことを口にした。
コーヒー一杯二百円という設定に、晶が言うには特に根拠は無く、適当に決めた数字だった。赤字では無いにしろ、もう少し高くても姫奈はいいと思うので、勿体なかった。
一度値段を決めたものは、材料費の高騰等よほどの理由が無ければ納得して貰えない。最初の設定が重要だった。
「わ、わかった……。コーヒーからぶっ飛ばないぐらいの数字にはする」
確かに、コーヒーに比べ明らかに高ければ売れないだろう。ここでもコーヒーの値段が足を引っ張るのかと、姫奈は呆れた。
「そうだ。この買い物とは別に……お前は誕生日に何が欲しい? 確か、二十二日だったよな?」
晶はカタログを仕舞いながら、ふと訊ねた。
酔いつぶれたあの宴会で、誕生日の日付を覚えてくれていた。それだけで、姫奈は泣きたくなるほど嬉しかった。
「いえ。本当に、お気持ちだけで充分ですよ。――気遣いじゃなくて」
「お前なぁ。もっと子供らしい事を言えよ……。まあ、私としても最近のJKが何を欲しいのか分からないから、こうやって訊いているんだが」
晶はテーブル席に腰を下ろし、半眼の瞳を姫奈に向けた。
「お前はここの従業員で、私は雇い主だ。付き合いだってもう長いし、他人の間柄でも無いし、お前はまだ若いのに良くやってくれている。せっかくの誕生日なんだから、祝わせてくれ」
あの席で麗美と結月に言われて仕方なく、といわけではなさそうだと姫奈は思った。
晶自身が本当に祝いたいのだと、その気持ちが伝わった。
「うーん。そうですねぇ……」
とはいえ、欲しいものが咄嗟に浮かばなかった。
服やコスメ等、欲しいものは山程あるが、どれもアルバイトの賃金で買えるものだった。
せっかく晶が言ってくれている『誕生日プレゼント』は、金で買えない特別なものがいいと思い、頭を巡らせた結果――
「晶さんの手料理と、手作りケーキが食べたいです」
本当に食べたいという気持ちが半分。もう半分は、晶の部屋でふたりきりの時間を過ごしたいための建前だった。
その回答に、晶の眉が一瞬動いた。
「……大丈夫ですか? 面倒じゃないですか?」
「な、何言ってるんだ! 面倒なわけないだろ!」
普段から自炊をしない人間には厳しい要求だったかな、と姫奈は苦笑した。
「で。具体的には、何を食べたいんだ?」
「えっと……ビーフシチューと、イチゴのケーキで」
「……そのへんは子供だな」
「いいじゃないですか!」
鼻で笑う晶に、じゃあ大人はどんなメニューなんですかと、問いたかった。
何はともあれ、こうして約束を交わした。
いつもは特に浮かれない誕生日だが、今年は――晶と出会ってからの初めての誕生日は、当日が楽しみだった。




