第46話(後)
「よし。ぼちぼち飲もうか」
麗美はソファーから立ち上がり、スーツのジャケットを脱いだ。ブラウスの袖を捲り、何やらやる気を出しているように姫奈には見えた。
「待って、麗美ちゃん。せっかく高級ワインとコンビニのワインがあるんだから、一回あれやってみたいわ。格付け的なアレ」
「あー、あの番組ね。別にいいけど、まさか間違うわけなんてないっしょ」
「……ちょっと待て。全然話が分からん」
姫奈も晶と同様、話についていけなかった。
「グラスに入ったふたつのワインを飲み比べて、どっちが高級ワインかを当てるのよ」
「要するに、利き酒みたいなもんか……。私はもう一年ぐらいワイン飲んでないんだが」
「おやおや。かつてのトップアイドルの天羽晶が弱音を吐くなんて、情けない。それとも、予防線張ってるのかな?」
麗美は、おそらく考えられる限り最も不快感を与えられる表情で晶を煽った。
晶でなくとも、実に鬱陶しい表情だと姫奈は思った。
「お前こそ、そのバカな舌は本物か? よし、姫奈。準備してくれ」
「え? ――は、はい」
姫奈はイベントの趣旨を理解し、ワインを二本持ってキッチンへと向かった。
コンビニで購入したワインは簡単に開いた。しかし、麗美の持ってきた高級ワインはコルクで閉じられていた。引き出しからコルク抜きを探し出し、道具の構造を理解したうえで、苦労しながら開けた。
「ちなみにですけど、このワインおいくらなんですか?」
大きさの違う二種類のグラスを三つずつ用意しながら、訊ねた。
「そうだねぇ……。姫奈ちゃんが買ってきたやつに、ゼロが二個付くぐらいかな」
「マジですか!?」
せいぜいゼロが一個だと思っていたので、手に持って注いでいた高級ワインを落としそうになるほど驚いた。
ボトルの見た目での高級感の違いは、姫奈にも一目瞭然だった。
しかし、グラスに注いでしまうと、ふたつの赤い飲み物の違いは分からなかった。
匂いも姫奈には同様であり、未成年としてはただ不快だった。
「大体、なんで三十年ものなんだよ? ここは二十五年もの買ってこいよ」
「うるさいなぁ。こうして飲むだなんて知らなかったし、私らもうアラサーなんだし、三十年でいいじゃん」
「というか、私も麗美ちゃんも現在は二十六よ? まだ二十五なのは晶ちゃんだけ。年上を敬いなさい」
「はいはい。ババアのおふたりさん」
さっきから子供のような口喧嘩をしているなと思った。
喧嘩するほど仲がいいのだと割り切り、姫奈はグラスをリビングに運んだ。。
「大きい方と小さい方、どちらかが高いやつで、どちらかが安物です」
説明しながら、三人の前に大小のグラスをひとつずつ並べた。
三人はそれぞれグラスを持ち、回して匂いを嗅いだ後、味を確かめた。
「うんうん。こんなのラクショーじゃん」
「そうね。ここまではっきり違いがあるものなのね」
「そうか? あんまり味に違いは無いが、口当たりが微妙に違うと思う」
しばらくすると、三人ともグラスから手を離した。それぞれ解答が決まったようだった。
「それじゃあ、高い方だと思うのを持ってください。一斉にいきます。せーの――」
姫奈は司会のつもりで、この場を仕切った。
掛け声と共に、三人はグラスを持った。
晶と結月は小さい方を――そして、麗美は大きい方を。
「え――あれ?」
麗美は最も自信に溢れた表情を浮かべていたが、自分のみ解答が違うことに気づくと、不安そうにふたりを見渡した。
「麗美さん……」
姫奈は答えを言う代わり、哀れみの目で麗美を見た。
ふたりも姫奈に続いた。
「……マジ?」
「よかったわね、麗美ちゃん。実際の番組だと、麗美ちゃんだけ二流芸能人よ?」
「ち、違うんだって! これも安いくせに充分に美味しいんだって!」
「それでも、お前のバカ舌はそれを見分けられる能力が無かったわけだが」
麗美は慌てて言い訳をするが、ふたりは呆れていた。
姫奈としても、三人の中で麗美が最もワインと縁がありそうだと思っていたので、この結果には残念だった。
「ほんっと、バラエティーに出なくてよかったな。愛生の奴は優秀だった。お前が二流のことも見抜いてたんじゃないか?」
「そんなことないって! たまたまだって!」
晶の口から一栄愛生の名前が漏れたのを、姫奈は聞き逃さなかった。
笑いながら話した晶の表情は、どこか自慢げに見えた。
そう。まるで、自身にとっての誇りであるかのように――
そんな晶を見ると、姫奈は少し苦しかった。
それからは、姫奈は麗美からマティーニの作り方を教わった。キッチンでひたすら作っては、リビングへ運んだ。
「おい、コラ! 未成年にカクテルを作らせるな!」
「わたしは大丈夫ですから」
麗美に怒る晶に対し、姫奈は苦笑した。
アルコールの匂いには慣れないどころか、長時間鼻に触れると気分が優れない。それでも我慢し、笑顔で耐えた。
マティーニの他、ワインも頼まれた。限られた数のグラスを洗ってはキッチンペーパーで拭き取り、飲み物を注ぎ――このサイクルは、EPITAPHのアルバイト以上に忙しかった。
そして、合間を見てはクラッカーにクリームチーズ、その上に生ハムやサーモン、トマトを乗せてつまみを作った。姫奈の買ってきたスモークチーズは、いつの間にか無くなっていた。
「結月が女優やってるのも驚いたが、バカの麗美が経営に就いたのが未だに信じられん。事務所、大丈夫か?」
「それがね、なんと次期社長候補なのよ」
「社長? こいつが?」
晶はゲラゲラと下品に笑った。
「現場でいろんな経験して、いろんなものを見てきたからね……。確かに私はバカだけど、それに勝るものは無いよ。RAYの九年間は、私にとって本当に大事な時間だったなぁ」
「そうだな。最高の時間だったし、一瞬だった」
「……はいはい。湿っぽい話はここまでにしましょ」
姫奈はマティーニを三つ、リビングへ運んだ。
三人とも頬が紅潮し、目はとろんとしていた。
「本当は外の店に飲みに行きたかったんだろ? 悪かったな、私のせいで」
「別に、どこだろうと楽しいよ。というか、三人で飲んだの、いつ以来だろうね」
「さあ……。でも、なんだかとても懐かしいわよね」
結月の眠たげな瞳が、姫奈に向けられた。
自分も含めて懐かしい感じを与えられているなら――一栄愛生の代わりになっているなら、こうして頑張っている甲斐があると、姫奈は思った。
「姫奈ちゃんも飲めたらいいのにね」
「あっ。でも、もうちょっとで誕生日なんで、十六になるんですよ」
「まあ。おめでとう、姫奈ちゃん」
「待て待て。十六でも、まだまだ未成年だろ」
晶は酔っていると思っていたので、冷静に突っ込まれて姫奈は驚いた。
「ちなみに、誕生日はいつなの?」
「今月の二十二日です」
「だってさ。晶は知ってた?」
「いや。初耳だ」
「晶ちゃん、それはひどくない?」
「いえ。わたしも言ったこと無いんで、知らなくて当然ですよ」
過去より、誕生日を親以外に祝って貰うことは無かったので、その日が特別嬉しいわけでもなかった。
その日をわざわざ晶に話したいとも――そもそも話す流れになることも、現在まで無かった。
「でも、こうして伝えたわけだし、雇用主は従業員に何かプレゼントあげないとね」
麗美はニヤニヤと笑みを浮かべながら、晶を見た。
「知ったものは仕方ない。姫奈、期待しておけ」
「あははは……。楽しみにしています」
きっと、麗美のせいだろう。晶は不機嫌そうな、困ったような表情だった。
そもそも、酔っている現在、本当に日付を覚えてくれたのだろうか――
それが疑問ではあるが、もし本当に覚えていて祝ってくれるなら、きっと嬉しいことだろう。
姫奈は少しだけ、期待した。
*
しばらくすると、三人は酔いつぶれてソファーで眠った。
午後九時だった。
静かになったその隙に、姫奈は最後の洗い物を済ませた。
昼間のアルバイト以上の疲れを感じながら、とんでもない事に巻き込まれたと改めて思った。
ふとリビングを見ると、いつの間にか麗美の姿が無かった。
お手洗いにでも行ったのかと思ったが、ベランダに麗美の背中があった。
姫奈もベランダに出た。十月の夜風は涼しく、気持ちよかった。
麗美はベランダで、煙草を吸っていた。
「あれ? 麗美さんも吸うんですね」
「うん。たまーに、ね。……表向きは、もう止めたんだけど」
ベランダの柵に置かれた煙草の箱とライターは、晶のものだった。テーブルにあったものを勝手に持ち出したのだと、姫奈は理解した。
「今日は災難でしたね」
「まあ、確かに災難だったけど、久しぶりに三人で飲めて楽しかったよ。結月の願いを分かってあげられなかったのは、反省かな」
姫奈ちゃんにも迷惑かけたね、と麗美は苦笑した。
「この残業代は、晶に請求してね」
「そんな……。悪いですよ」
「それじゃあ、せっかくの誕生日には、うんと強請るといいよ」
それが出来れば苦労しないと思いながら、姫奈は聞き流した。
疲れはしたが、姫奈としても有意義な時間を過ごせたので、見返りを求めるほどでは無かった。
「麗美さんは、これからどうするんですか?」
「お酒入ってるからねぇ。運転代行呼ぶのもなんかダルいし、久々の我が家で一泊していくよ」
「えーっと……マリなんちゃらていうスイーツが冷蔵庫に三つ入ってるんで、よければ朝食にどうぞ」
「ありがとう」
口にしながら、明日のEPITAPHは開くのだろうかと疑問に思った。
酔いつぶれた晶がまともに起きられるわけがなく、最悪閉店を覚悟した。
「それじゃあ、わたしはそろそろ帰りますね」
「お疲れさま。送ってあげられないけど、気をつけて帰ってね」
「あっ、そうだ。煙草吸った後の口でキスしたら、結月さん怒りません?」
「え――なに? どういうこと?」
帰り際、ふと浮かんだ疑問を訊ねるが、麗美は突然の質問に困惑しているようだった。
「いえ、その……。煙草臭い口に結月さんは怒らないのか、ちょっとした疑問です」
確かに唐突な内容だったと思いながら、姫奈は苦し紛れに苦笑した。
「うーん。あんまり文句言われたことないから、本人は慣れてるのかもね」
麗美はそう言うと、煙草を持っていない手で、姫奈の顎を持ち上げた。
不敵な笑みはとても格好良く見え、姫奈はドキドキした。
「疑問に思うなら、試してみる?」
この芝居がかった言動は、明らかに冗談だった。
そう理解した時――ベランダの窓扉がガラリと開いた。
「……麗美ちゃん?」
結月が立っていた。
麗美の様子を目撃したからだろう。ぼんやりとした瞳の奥、確かな怒りが沸々と湧き上がっているのが、姫奈にもよく分かった。
「ゆ、結月! これは違うんだよ!」
「――お疲れさまでした」
これ以上の面倒事に巻き込まれるのは勘弁して欲しいと、瞬時に思った。
慌てる麗美を他所に、姫奈はその場から逃げるように立ち去った。
次回 第19章『誕生日プレゼント』
姫奈は十六歳の誕生日を迎える。祝ってくれた晶に、ある我儘を聞いて貰う。




