第46話(中)
重いワイン瓶を抱えながら、晶の部屋に着いた。
「ねぇ、姫奈ちゃん。ありえなくない?」
リビングでは腕組みをした結月の正面に、晶がラグマットに正座していた。
結月から正座させられているように、姫奈には見えた。
「どうしてソファーがないわけ? 広い部屋なのに、どこに座ればいいの? 大体、どうしてリビングにベッドがあるのよ? ちゃんと寝室あるんでしょ?」
晶には申し訳ないが、結月のその言葉はいたって正論だと思った。
自分と全く同じ意見であり――自分の感性は決して間違っていなかったんだと、姫奈は今にも泣き出したいほどに嬉しかった。
「晶ちゃん何歳だっけ?」
「……二十五です」
「そうよね。私と同じよね。でも、とても二十五歳の部屋には見えないわ。もうちょっと大人の自覚を持ちなさいよ」
「……は、はい」
結月から張の無い声で説教を受け、晶はとても不機嫌そうだった。
そろそろ助け舟を出そうと、姫奈は思った。
「結月さんはここに来るの、初めてなんですか?」
「ええ。なんやかんやで、現在まで来る機会が無かったの」
「これでも、少しは良くなったんですよ? テレビ置いたのも、つい最近です」
「へー」
結月はテレビを眺めた。
ぼんやりとした瞳は、心なしか疑っているようだった。確かに信じ難い話だが、紛れもない事実なのだ。
「ソファーもそろそろ買おうとしてたところなんですよ。でも、なかなか良いのが見つからなくて……」
その言葉にハッと顔を上げた晶に、姫奈は一度だけウインクをした。話を合わせてください、というジェスチャーだった。
「そうなんだよ。ちょうど現在、探してるところでな――」
「ふーん……。まあ、どうだっていいわ。ちょっと遅くなったけど、引っ越し祝いに私がソファー買ってあげる」
「本当か? いやー、すまないな」
結月は携帯電話を動かしながら、カメラ越しに床を見ていた。
おそらくアプリで設置場所の長さを測定しているのだと、姫奈は思った。
「シアンかブラウン、どっちがいい?」
「え? それじゃあ、ブラウンで」
「晶ちゃん。ここの住所教えて」
晶が述べた住所を、結月は携帯電話に素早く打ち込んだ。そして、携帯電話を耳にあてた。
「今注文したやつ、すぐに持ってきて。そうね――遅くても、一時間以内に。うちの林藤が所望してるわ。わかるでしょ?」
てっきりソファーのプレゼントは後日だと思っていたが、今すぐに持って来させる気だと姫奈は驚いた。
役員である麗美の名前まで出して圧を掛ける横暴っぷりに、唖然とした。ここまで急を要するのは、プレゼントというより――
「なあ、結月。プレゼントしてくれるのは有り難いんだが、お前が座りたいだけじゃ……」
「――私からのプレゼントよ、晶ちゃん」
「は、はい」
姫奈と同じ疑問を晶が問いかけたが、結月がぽつりと漏らした声に、疑うことは許されなかった。
「あの。お腹空いてませんか? 材料あるんで、キノコの和風パスタなら作りますけど」
姫奈はキッチンから、キッチンカウンター越しに訊ねた。
この空気に耐えられないので、何か動いていないと落ち着かなかった。
「そうね。せっかくだから頂くわ。――ていうか、食事用のテーブルも無いじゃない、晶ちゃん」
キッチンカウンターの前――本来のダイニング部分には、不自然な空きスペースがあった。
この部屋では、いつもラグマットのテーブルで食事をしていた。本来ならこのスペースに椅子とテーブルがここにあるのだと、姫奈はようやく気づいた。
「おい、姫奈。私も料理手伝うぞ!」
晶は逃げるようにキッチンに回り込んだ。
「ここに来る前、麗美さんに連絡取ってあります」
「まったく――あのバカ、早く来い」
姫奈は鍋に湯を沸かしながら、包丁でキノコ各種を切る晶に小声で伝えた。
結月は晶のベッドに腰掛け、携帯電話に触れていた。
いつも通りのぼんやりとした横顔だと、姫奈は思った。
ふと、インターホンが鳴った。
応えると、インテリア業者が見えているというコンシェルジュからの通達だった。結月の電話からまだ四十分ほどしか経っていないので、驚いた。
「はい。通してください」
姫奈はそう返事をし、リビングに軽く掃除機をかけた。
しばらくすると部屋まで数名の業者が来たので、通した。
まるで兵隊に指示を出す指揮官のように、結月は業者を指先で使った。
「ああ……。私の部屋が」
勝手に模様替えが進んでいくのを、部屋の主は為す術も無く眺めていた。
テーブルを囲うようにL字型のソファーが設置され、ベッドは違う部屋に移された。
「いいじゃないですか。折角ソファー買って貰ったんですから」
「うーむ。いっそ、これからソファーで寝るか」
「それは止めておいた方がいいと思います……」
キノコをバター醤油で炒めながら、姫奈は呆れた。
晶は面倒臭がりというより、ワンルームのような限られた空間で生活したいのだと姫奈は以前から思っていた。同時に、こんなに広く部屋も沢山ある所に住んでいるのが疑問であった。
「姫奈ちゃん、ごめんなさい。これも洗って貰える?」
「何をですか?」
業者が部屋から出ていくと、姫奈は結月からダンボール箱を渡された。ソファーと一緒に注文したものだろう。
中身は、大小様々な――姫奈はお酒を飲むためのグラスとしか分からないが、ワイングラスとカクテルグラスがいくつか入っていた。
「絶対にこの部屋に無いと思ったから」
「はい。確かに、ひとつたりともありませんね」
普段からお酒を飲まない、また客人を呼ばない晶には無用なものであった。
パスタ作りは晶に任せ、姫奈はグラスを洗ってキッチンペーパーで拭き取った。
しばらくするとパスタが完成し、グラスとコンビニで買ってきたワインを出そうとした時だった。
インターホンが鳴った。
「麗美ちゃんは帰って貰いなさい」
姫奈が出るより早く、結月はそう吐き捨てた。
それでも応えると、カメラには苦笑するコンシェルジュと共に、死んだ瞳の麗美の顔が映っていた。
「麗美さん、カードキー持ってませんでしたっけ?」
『……結月に持ってかれた』
どう奪ったのかは分からないが、本当に徹底した家出なのだと姫奈は結月の手際に関心した。
『ていうかさ、そこ私の部屋なんだけど。私が買って、私が登記して、私が固定資産税払ってる部屋なんだけど。現在は晶に使わせてるだけで……』
「え――マジですか?」
『マジだよ、マジ。なんで部屋の所有者がこんな真似してるのか、ワケわかんないよ。荷物だってものっそいあるから、早く入れてくれると嬉しいな』
というか、部屋の名義人ならコンシェルジュに通して貰えるのでは?
そう疑問に思う一方で、呆然としている麗美が、姫奈は流石に不憫になった。
「結月さん。わたしからもお願いです! 麗美さんに一度だけチャンスを!」
「――わかったわ。一回だけよ?」
「ありがとうございます!」
結月の許しが下りたところで、姫奈は麗美を通した。
しばらくすると、部屋に麗美が姿を現した。
両手にいくつもの紙袋を持ち、表情には疲れが表れていた。髪はボサボサだった。
「結月! 隠し事していた私が悪かったよ! ごめんなさい!」
しかし緊張した顔つきになり、腰を直角に曲げて頭を下げた。ソファーに腰掛けた結月の背中に、誠意ある謝罪を見せた。
「……おい、結月。怒ってる芝居はもう止めろ。姫奈が居る手前、私も茶番に付き合ってやったが、麗美にそこまでさせるな」
ふと、晶が漏らした。
姫奈は隣を見ると、晶はフライパンに目を落としながらキノコとパスタを炒めていた。
「はい? どういうこと?」
顔を上げた麗美は、目を丸くした。
「お前、マネージャーのくせに分からないのか? なあ、結月――お前はこんな回りくどい演技までして、三人で飲みたかったんだよな?」
「……隠し事されて少なからず怒ってるのは、事実なんですけど」
結月はソファーから振り返り、晶にばつの悪そうな表情を見せた。姫奈の見る、初めての表情だった。
そして結月は、そのまま視線を麗美に向けた。
「え――結月、そうなの? 集まって飲みたかっただけ?」
麗美の疑問通り、姫奈も晶に言われて納得した。
ソファーやグラスをわざわざ用意するのは、確かにおかしかった。それに、多忙な麗美をここまで連れてきて居座らせるには、こうするしかなかったのだと思った。
「だから言ってるじゃない。怒ってるわよ。でも、そうね――ここで朝まで付き合うのと、キス一回で許してあげる」
「うん。わかったよ」
麗美は穏やかに微笑むと、ソファーに近づいた。
ソファーの背もたれに背中を反り顔を上げる結月と、ソファーの背もたれ越しに顔を近づける麗美。ふたりの様子を、姫奈はドキドキしながら見ていたが――隣の晶から、手で視界を遮られた。
「結月さんが演技をしていたって、よく分かりましたね。もしかして、ふたりで先にここに来た時からグルでした?」
肝心のシーンを見損ねた後、姫奈は小声で晶に訊ねた。
「いや、店に来た時からすぐに分かってた。結月自身に自覚あるのか分からんが、演技してる時は分かりやすい癖がある」
「癖? どんなのですか?」
「それは私からは言えん。麗美も気づいてないみたいだからな」
答えを教えて貰えず、姫奈は残念だった。
とはいえ、長年の付き合いである麗美ですら気づかないほど些細なことなのだろう。それを把握し、合わせていた晶も凄いと思った。
「よし、姫奈。皿出してくれ」
コンロの火を消した晶に言われ、姫奈は皿を準備した。
しかし、この部屋に同じ皿が四枚も無かった。大きさの違う皿を三枚と、茶碗をひとつ出した。
フォークはひとつしかなかったので、割り箸を三膳出した。
「お皿も買って貰えばよかったですね」
「流石にそれは頼めんから、私が近いうちに買ってくる」
キノコの和風パスタ。二人前のものを四等分した少量なので、どの皿にも余裕をもって盛ることができた。
姫奈と晶はふたつずつ持ち、リビングのテーブルに運んだ。
「わぁ。いい匂いじゃん」
「……でもこれ、赤と白、どっちが合うのかしら」
結月のその一言に、ソファーに腰を下ろした成人三人が真顔になった。
些細なことで空気が変わったのを、姫奈は感じた。
「たぶんだけど、赤じゃないよね」
「かといって白っぽくもない気もするけど……どちらかというと白なのかしら」
「バカか。常識的に考えて、肉じゃなかったら消去法で白だろ」
赤とか白とか何を揉めているのか姫奈は分からなかったが、ワインの色だとしばらくして理解した。
「あの……コンビニで買ってきた安物の赤ワインならありますよ」
姫奈は恐る恐る手を挙げた。
真顔の三人が姫奈を一瞬だけ見たが、すぐに再び顔を合わせた。
「麗美ちゃんは何を持ってきたの?」
「三十年もののボルドーに、ジンとベルモッド。それと、おつまみになりそうなやつ」
「はぁー。つっかえない奴だな、お前は」
「ちょっと! 文句言うなら、晶には飲ませないよ?」
「というか、本当に白でいいのかしら……」
三人の会話を聞きながら、姫奈は冷蔵庫を開けた。
成人がどんな酒を飲もうが、未成年の自分には関係なかった。食事の際の飲み物は、限られていた。
「おい、姫奈。何だそれは」
自身の飲み物が入ったグラスをリビングに持っていくと、晶が指差した。
「何って、ウーロン茶ですけど」
姫奈はグラスを掲げた。
甘くもなく苦くもなく、パン以外のあらゆる食事に合う万能の飲み物だと思っていた。
「……間違いなく、これが正解だな」
「そうね。ワインよりも全然合うと思うわ」
「まあ、ほら――飲む前にお腹にちょっと入れておくには、丁度いいじゃん」
ようやく結論が出たようだった。
結果的に、姫奈は四人分のウーロン茶を用意し、軽い食事をとった。




