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胸を張って歩ける日まで  作者: 未田
第17章『面影を求めて』
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第44話

 九月が終わりに差し掛かっても、まだ残暑は厳しかった。

 湿気と共に蒸し暑さは和らいだが、日差しが強かった。

 その日も放課後も、姫奈はEPITAPHでアルバイトをしていた。


「やあやあ。まだ暑いねぇ」


 自動車のエンジン音と共に、スーツ姿の麗美がひとりで店を訪れた。


「お久しぶりです、麗美さん」

「どうした? 何の用だ?」


 晶は隻眼で麗美を怪訝そうに見た。麗美に対するいつもの態度だと、姫奈は思った。


「いやー、別に用は無いんだけどね……。でも、そんな態度でいいのかなぁ?」


 麗美は手提げの紙箱を掲げ、にんまりと笑った。

 淡い青色の箱に書かれた英字――店名で、何が入っているのか姫奈は理解した。


「それ、有名なプリンですよね?」

「おおっ。流石はJK、よく知ってるね」


 姫奈の言葉に、不機嫌そうな晶の眉がぴくりと動いた。


「じゃじゃーん。なめらかプリンだよ」


 麗美はカウンターテーブルに紙箱を置き、封を開けた。

 中には保冷剤と共に、透明なプラスチック容器のプリンが四つ入っていた。


「あー、それか。知らん間に味が落ちたよな」

「……晶は要らないみたいだから、ふたりで食べようか、姫奈ちゃん」

「私が悪かった! 現在でもたぶん、すっごい美味しいから!」


 満面の笑みで取り上げようとする麗美に、晶は土下座するかの勢いで謝った。

 たかが数百円のプリンに何やってるんだと、姫奈は呆れた。


「でもそれ、どうしたんですか?」


 念のため店を閉めた後、三人分のアイスコーヒーを淹れながら訊ねた。

 大手芸能事務所の役員がプリン専門店を訪れている姿が、なんだか想像できなかった。


「うちの新入りの営業がこんなもの手土産に持って先方まで挨拶行こうとしたから、取り上げたの。最近の若いのは、菓子折りすら分かっちゃいない。……姫奈ちゃんは、そんなダメな大人にならないでね」

「は、はぁ……」


 麗美はニコニコと笑みを浮かべていたが、言葉の節々に怒りが込められていた。

 この人を怒らせるほどの無礼なのだと、姫奈は社会マナーが少し分かったような気がした。


「たかが四つのプリンを事務所で配るのも無いから、甘いの大好き人間に持ってきたってわけ」


 麗美が視線を向けた先――さっきまで文句を言っていた晶は、黙々とプリンを頬張っていた。


「ん? ここのプリンな、昔はもっと美味しかったんだぞ」


 晶はそう言うが、初めて口にした姫奈にとっては充分すぎるほど美味しかった。

 三人でプリンを食べ、紙箱にひとつ残っていることに姫奈は気づいた。


「最後のひとつ、結月さんに持って帰ってあげてください」

「別にいいよ。結月には黙って来てるから、ややこしくなる。晶にあげるよ」

「えー。知りませんよ?」


 苦笑する麗美に、姫奈は半眼を向けた。こんな些細な事とはいえ、隠し事が結月に知られたら怒られそうだと思った。


「……まあ実際は、晶の定期チェックだよ。相変わらず元気そうだね」


 微笑む麗美を余所に、晶は保冷剤とプリンを大切そうに紙箱に仕舞っていた。


「次来る時も、何か手土産持ってきてくれ」

「その減らず口が聞けるうちは安心だよ」


 麗美は一度だけ手を振り、扉を開けて店を出た。

 ――このタイミングを、姫奈は逃さなかった。

 麗美の後を追い、店を出た。


「待ってください、麗美さん!」


 自動車に乗り込もうとしている麗美を呼び止めた。

 何事かと、不思議そうに麗美は振り返った。


「あの――時間ある時でいいんで、進路相談に付き合ってくれませんか?」


 姫奈の中で咄嗟に浮かんだ台詞がそれだった。

 嘘ではなかった。しかし、本意でもなかった。


「進路相談? うん、いいよ。都合のつく日時は、また連絡するね」


 麗美は一度驚いた表情を見せた後、優しく微笑んだ。

 少なからず麗美を騙している節があった。姫奈は自動車に乗り込む麗美を見送りながら、後ろめたさがあった。

 晶に知られず、麗美とふたりきりで会いたかった。

 会って、聞きたかったのだ――ある人物のことを。



   *



 その日の放課後、姫奈はアルバイトを休み、あるショッピングモールに向かった。

 待ち合わせ場所は上階のレストランだった。入り口にはビアガーデンの看板が立っていた。

 以前、結月に指定された店のような露骨な高級感こそ無かったが、縁の無い所なので少し落ち着かなかった。

 受付で名前を言うと、広いテラスへと通された。ビアガーデン利用の客が疎らに居たが、姫奈には分からなかった。


 まだ陽は高く、残暑の中、風が心地よかった。

 テラスの隅にソファー席がいくつか並んでいた。シェードの下、スーツ姿の林藤麗美が座っていた。


「やあ。姫奈ちゃん」

「わざわざお時間取って頂いて、ありがとうございます」


 姫奈も座るや否や、店員にアイスコーヒーを注文した。麗美の前には、カットレモンの添えてあるアイスティーが置かれていた。


「それで? 進路相談って? 学歴の無い私で参考になるのか、分からないけど」

「そんなことないですよ。麗美さんは凄く立派です」


 そういえばそういう体だったと、姫奈は思い出した。


「わたし、お店の経営に興味があって、大学は経営学を考えてるんですけど……経営者の麗美さんが勉強しておけばよかったなって思うこと、何かありますか? 実際にどんな勉強をすればいいのか、今いちピンとこなくて」


 言葉は全て事実だった。

 確かに興味がある学問だが、実態が掴めず漠然としていた。


「え? 店の経営に?」

「はい」


 驚く麗美に、姫奈は頷いた。

 驚く理由は、およそ想像できた。


「へー、経営かぁ。税理士や弁護士の先生に頼りまくってるから、勉強出来るなら私だってやりたいよ。そうだね……」


 麗美はアイスティーを一口飲み、腕を組んで悩んでいる様子だった。


「例えばさ――もし姫奈ちゃんがケーキを作ってEPITAPHで売りたいなら、調理師免許が必要か不要か、分かる?」

「いえ。分かりません」

「EPITAPHの店前に飾ってある花……あれは消耗品か広告費、どっちに勘定されるか分かる?」

「同じく、分かりません」


 聞き慣れない言葉に戸惑い、姫奈は正直に答えた。

 知識の無さが悔しいが、少なくとも高校で勉強する範疇外なのは明らかであるため、仕方ないと思った。


「だよね。私だって分かんないもん」

「えー」


 苦笑する麗美に、姫奈は呆れた。格好良く正解を教えてくれると思っていた。


「全然分からなくても、それでも社会のルールは確かに存在するし、従う必要もあるんだなって……。私は学が無いから、ここ数年特にそう実感してるよ。大学のことは分からないけどさ、そういうの勉強するんじゃないかな?」

「なるほど。なんとなく、わかりました」

「経営を抜きにしても、法律とお金の知識は普通に生活するうえでも絶対に役に立つよ」


 確かに、身近でかつ大切なもののルールを知らないより知っていた方が有利になるだろう。

 具体的な話も聞け、姫奈の中で漠然としていたイメージが少しだけ形を作った。


「ていうかさ――そもそもの話、どうして経営に興味を持ったの?」


 麗美から、真っ直ぐな視線を向けられた。

 麗美がどういう意図でそう訊ねるのか、姫奈は理解していた。


「少しでも、晶さんの手助けになればいいなと……」

「ふーん。現在のところは、数年先も晶と一緒にカフェをやりたいっていう気持ちはあるんだ?」

「はい。実際はどうなるのか、分かりませんけどね」


 苦笑する姫奈に対し、麗美はアイスティーを飲み、ストローでグラスの氷を転がした。


「言っちゃ悪いけど、経営面は晶ひとりで十分だと思うよ。晶はたぶん、経営のセンスもずば抜けてる。私なんかよりも、よっぽどあると思う。昔からそうだからさ――晶は何でもこなせてしまうんだ」

「それは、わたしにもわかります」


 隻眼でも美容師のように髪を切り、シェフのように料理をし――姫奈は晶のそのセンスを間近で見てきた。店の経営にしても、赤字の原因と改善点を把握していた。

 面倒臭がりの一面はあるが、晶が何かに失敗したところを一度も見たことが無かった。何でも出来る、文字通りの天才肌だと思っていた。

 だからこそ、晶は自分に絶対の自信がある堂々とした立ち振舞なのだ。


「まあ、私と同じで社会ルールの知識は無いだろうから、困った時は私みたいに専門家を頼ればいいんじゃないかな。――何も、姫奈ちゃんがわざわざ身につける必要は無いと思うよ」


 やはり麗美も、その必要は無いと思っていた。客観的に晶との組み合わせを眺めれば、誰だってそう思うだろう。

 カフェの経営者はふたりも要らないのだ。


「せっかくの貴重な学生の時間なんだからさ――本当に晶とのふたりのためを思うなら、勉強することは他にない? ……私がここまで出しゃばるべきじゃないけどさ」

「……調べたら、バリスタの専門学校があったんですよ。正直、割と興味はあります。でも――大学進学自体をきっぱり諦められない状態です。この価値観は古いのかもしれませんけど、せっかく勉強してきたんで、学歴を残したい気持ちもあります」


 専門学校の件を、姫奈は他者に初めて話した。親にも学校の教師にも、相談出来ないことだった。

 麗美になら正直に話してもいいと思った。


「なるほどねぇ……。うーん、いいね! 実にJKらしい悩みだね! お姉さんも、そんな青春を謳歌したかったよ!」


 麗美は自身の身体を抱えながら、もどかしそうな様子だった。


「ごめん、姫奈ちゃん。その二択に関しては、私はそれ以上口を挟めないや。やっぱり、大学行くのも超大事だと思う。ちなみに現在、何年生だっけ?」

「まだ一年です」

「そっか。あと二年? もあるなら、もうちょっと悩んでもいいんじゃない? 正直、どっちも価値があるからさ」


 おそらく、麗美は少なからず学歴にコンプレックスがあるのだと姫奈は思った。

 麗美の経歴と現状は圧倒的な社会的地位だが、それでも後悔する部分はあるのだろう。姫奈にはよく分からなかった。


「ありがとうございます。……ちなみに、一栄愛生さんは大学出てたんですか?」

「え? 愛生さん?」


 話の運びが不自然だったかな、と姫奈は反省した。

 突然の名前に、麗美はきょとんとしていた。


「もし大卒なら、芸能マネージャーってどんな学部だったのかな気になって」


 姫奈は慌てて付け足した。


「うーん。どうだったかなぁ。初めて会った時は確か現在の私ぐらいの歳だったし、新人でも無さそうだったし――いや、新人っぽかったかな? 大学の話してたっけな?」


 麗美は腕を組んで唸るも、一向に答えは出なかった。

 全く記憶に残っていないあたり、どうでもよかったのだろうと姫奈は思った。

 姫奈にとっても、この際どうでもよかった。


「あの……一栄愛生さんってどんな人だったんですか? この前言ってましたよね、わたしに似てるって。そんなに似てたんですか?」


 本題はこれだった。少しでも一栄愛生の、人間面の情報が欲しかった。


「あー、あの話ね。確かに、喋り方や物柔らかな雰囲気が、姫奈ちゃんと似てたよ」


 たったそれだけの説明でイメージが湧き、あの写真の人物を包み込んだ。頭の中で、より確かな人物像を作り出した。

 そして、自分と似ているという自覚も芽生えた。


「結構頼りない面があったから、仕事が出来るのか出来ないのか、よく分からなかったなぁ。ただ――全肯定って言うのかな? 否定もしないし怒りもしなかったのが、印象的。いっつもニコニコしてたよ。そこんとこが一緒に仕事しやすかったし、晶とも合ったんだろうね」

「いやいや。わたしは、怒る時は怒りますよ?」

「うん。そりゃそうじゃん――姫奈ちゃんと愛生さんは別人なんだからさ。似てるといっても、あくまで上辺だけだよ」


 麗美のその言葉に、姫奈は違和感を覚えた。ある事に気づいた。

 ――似ていないところを挙げられ、残念だと思ったのだ。

 わたしは、どうしたかったんだろう。

 好きな人が好きだった人と、似て欲しくなかったんだろうか。

 それとも、何から何まで似て欲しかったんだろうか。

 どちらを望んでいたのか、姫奈は分からなかった。


「ちなみにだけどさ……晶とは愛生さんの話、したりするの?」

「いえ。しないです」

「そっか……。強要はしないけど、晶に愛生さんの名前を出すのは、なるべく止めてあげて」


 麗美は遠くを見るような目をしていた。

 なんだか物寂しげな表情だと、姫奈は思った。

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