表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
胸を張って歩ける日まで  作者: 未田
第16章『二度目のキス』 【第3部】
52/113

第41話

「そろそろ閉めますね」

「ああ。頼む」


 その日も午後六時を過ぎたので、姫奈は店前のメッセージボードとダリアの鉢を店内に片付けた。

 冷房のきいた店内から外に出ると、さらに蒸し暑く感じた。


「とりあえず、今月いっぱいは水出し作る感じでいいですか?」

「そうだな……。来月になってもまだ暑そうだが、キリよく止めよう」

「わかりました」


 姫奈は、持ち帰り用の急冷アイスコーヒーを二杯淹れた。

 そして、水出しアイスコーヒーの仕込みをしながら、それ用のコーヒー豆の在庫と使用量をざっと計算した。毎日完売することを前提とした不足分を発注することにした。もし残った場合は、個人的に使用しようと思った。

 姫奈は仕込みとキッチンの片付けを、晶は客席の清掃をそれぞれ終えた。


「そうだ。持って帰っていいから、これ見ておけ」


 エプロンを脱ぐと、姫奈は晶から一冊の冊子を渡された。

 パラパラとページをめくると、それがエスプレッソマシンのカタログだと理解した。


「わぁ! ついに買うんですね!」


 夏休みに約束したことを思い出した。

 晶のことだからきっと忘れていると思っていたので、こうして覚えてくれていたことが嬉しかった。


「お前が欲しいのを買ってやるよ。ただし――ミルの時みたいに、余計な金は使わせるな」


 晶はそう言い、キッチンの電動ミルを指差した。

 晶が精神面を崩して回復した時、どさくさに紛れて姫奈は強請ったが、結局は怒られた。自分に非があるため、何の言い訳も出来なかった。


「は、はい。それについては今も反省してますよ。――ていうか、めっちゃ高くないですか?」


 ざっと眺めていると、どれも値段は六桁だった。中には七桁のもあり、驚いた。何ヶ月分のアルバイトの給料に相当するのか、反射的に計算してしまっていた。

 特に根拠は無いが、姫奈の中では五桁で購入可能なイメージがあった。


「よくわからんが、業務用ならそれなりにするんだろ」


 晶がカタログの表紙を指差した。姫奈は見てみると、確かに業務用と書かれていた。


「業務用ってことは……家庭用もあるんですかね?」

「知らん」

「業務用と家庭用って、何がどう違うんでしょ?」

「分からん」


 姫奈は疑問を投げかけるが、仏頂面で腕組みをした晶にばっさりと打ち返された。


「いいか、姫奈。商売道具なんだから業務用を買う。私は何か、可笑しなこと言ってるか?」

「そういうわけじゃないですけど……」


 晶の言い分は至って正論だと姫奈は思った。

 しかし――業務用と家庭用の違いは分からないが、この店の規模で業務用は必要なのかと少しだけ疑問だった。


「お前なぁ……。金なら心配するな。出すのは私だ。お前が日和ってどうする?」


 そう。結局は費用の問題であった。予想外の値段に驚いてしまったため、おそらく業務用に比べて安いであろう家庭用を考えていた。


「良いサービスを提供できるなら、私は出し惜しみしないぞ。というか、オーナーの私をもっと頼れ」


 晶から、呆れたような半眼を向けられていた。

 確かに、この買い物は晶にとってさほど高価なものではないだろう。

 とはいえ、姫奈にとってはとても高価なものであり、そして何より――


「そう言って貰えると有り難いんですけど……この手の機械を一度も触ったこと無いんで、何を基準に選べばいいのか分かんないです」


 経験が無い故に、カタログを眺めても今ひとつ触り心地が想像出来なかった。

 他所の店でけたたましい音を上げているのと、店員がレバーを下ろしているのを見たことがある――現状、姫奈の持っている知識はその程度だった。

 ミルの件で一度失敗している以上、この額での失敗はなお避けたい。だが、いかんせん判断材料が無いに等しかった。


「確かにそうだが……別に急いでないんだから、調べてじっくり悩めよ。調べるの、お前得意だろ?」

「そのつもりですけど、一度ぐらいは実際に触っておきたいんですよねぇ……」


 何か良い方法は無いかと、姫奈は考えた。


「そうだ。ちょっとの間だけ、他所の店でバイトしてきましょうか? なんか、スパイみたいですけど」


 思いついた唯一の方法が、それだった。

 実際に提供する側の使い心地や、もし気に入ったのなら機械の名称まで控えられると思った。


「ダメだ! それだけは、私が絶対に許さない!」


 しかし、晶から勢いよく否定された。

 姫奈は正面の晶を見下ろすと、学生服のブラウスの袖をちょこんと掴まれていた。


「お前はうち専属のバリスタなんだから……一時でも他所に行くのはダメだ」


 晶は頬を赤らめ、視線を横に向けていた。

 晶なりに妬いてるのだと、姫奈は理解した。

 その気持ちも、その様子も嬉しく――ただ、可愛いと思った。

 衝動のまま、姫奈は晶を正面から抱きしめた。


「大丈夫です。晶さんがそう言ってくれるなら、わたしはどこにも行きませんよ」

「本当か? 絶対だぞ?」

「はい……」


 姫奈を見上げる晶の隻眼は、今にも泣きそうだった。

 そんな晶を安心させるように、姫奈は頭を撫でた。


「時間かかりますけど、エスプレッソマシンのこと、いろいろ調べてみます」


 姫奈はカタログを学校鞄に仕舞うと、ふたつのアイスコーヒーを両手に外へ出た。

 晶が扉を閉めシャッターを降ろし、客船ターミナルの広場へと歩いた。


 誰も居ない広場の隅で、晶は煙草を咥えた。

 姫奈はすかさず手持ちのライターで火を点けた。立ち上る煙草の煙を眺めながら、もう氷が全て溶けたアイスコーヒーを飲んだ。


「そうだ。コンビニで、こんなのあったんですよ」


 ふと思い出し、鞄からチャック袋パッケージのチョコレート菓子を取り出した。


「手につきにくい?」

「はい。なんか、溶けにくいチョコらしいです」


 パッケージのフレーズを読んだ晶に、姫奈は説明した。

 夏場は溶けにくいという理由で、チョコレート菓子を持ち歩いていなかった。しかし、その問題が解決できそうであり、コーヒーと一緒に甘いものをつまみたいという晶のために購入した。


「ふーん。本当か?」


 チャック袋の封を開け、怪しんでいる晶の手のひらに二粒乗せた。

 チョコレートを練り苺でコーティングしているらしく、見た目はピンク色だった。

 姫奈自身もひとつ手に取った。夏場の鞄にずっと置かれていたにも関わらず、本当に溶けていなかった。チョコレート菓子にしては珍しく、ツルツルした手触りだった。


「ほら。全然溶けてませんよ」

「夏なのに溶けないって、これもうチョコじゃない別の何かだろ」


 晶は文句を言いながらも食べ、コーヒーを流し込んだ。


「なんか変な感じだが……まあ、アリか」


 晶の何とも言えない感想を聞いたうえで、姫奈も口にした。

 苺とチョコレートの甘い味だったが、サクサクした軽い食感が気になった。

 確かに、ひとつのチョコレート菓子としては悪く無い。だが、コーヒーとの相性はまた別だと思った。


「コーヒーにはやっぱり、口の中にべったり残るような甘みが合いますね」


 その条件を満たすのは、純粋な生タイプのチョコレート――夏場で容赦なく溶けるものだった。

 現在の季節の携帯は難しいと、改めて実感した。


「おおっ。お前もだんだん分かってきたか」


 たかが駄菓子で味覚の成長を感じられないが、晶の味覚に近づけたと思うと、姫奈は嬉しかった。


「はぁ……。なんかケーキ食べたくなってきたな」

「あっ、またウーバーで取り寄せるつもりですね。食べるなとは言いませんけど、ちゃんとご飯も食べなきゃダメですよ?」

「あははっ。分かってるさ」


 口うるさく言うと、晶は笑って見せた。

 鬱陶しがっている様子は無いので、姫奈も微笑んだ。


「そういえば――」


 晶は、ふと何かを思い出したようだった。携帯灰皿に、煙草の吸い殻を仕舞った。


「明日なんだけどな。やっと私の部屋にテレビが届くぞ。業者に取り付けて貰う」

「えっ? 本当ですか!?」


 想像もしていなかった言葉が聞けて、姫奈は驚いた。

 晶にどういう心境の変化があったのかは知らないが、以前から強請った甲斐があったと思った。


「一応、テレビ台のサイズ測って注文したから大丈夫だとは思うが――もし合わなければ、即返品だ」

「……そうならないように祈っておきます」


 おそらく家電屋まで出向いて現品を確認するまでもなく、適当に注文したんだろうなと、姫奈は想像した。


「それじゃあ、次の週末に遊びに行ってもいいですか?」

「ああ。いいぞ。ピザでも頼んで、ダラダラしながら何か観るか」

「はい!」


 姫奈はとても喜びながら、笑顔で頷いた。

 おそらく大画面であろうテレビで何かを観ることに、ではなかった。

 アルバイト外で晶とふたりきりの時間を共有できることが、たまらなく嬉しかった。

 早く週末にならないかなと願うと同時、残りの平日を頑張って乗り切ろうとモチベーションにになった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ