第41話
「そろそろ閉めますね」
「ああ。頼む」
その日も午後六時を過ぎたので、姫奈は店前のメッセージボードとダリアの鉢を店内に片付けた。
冷房のきいた店内から外に出ると、さらに蒸し暑く感じた。
「とりあえず、今月いっぱいは水出し作る感じでいいですか?」
「そうだな……。来月になってもまだ暑そうだが、キリよく止めよう」
「わかりました」
姫奈は、持ち帰り用の急冷アイスコーヒーを二杯淹れた。
そして、水出しアイスコーヒーの仕込みをしながら、それ用のコーヒー豆の在庫と使用量をざっと計算した。毎日完売することを前提とした不足分を発注することにした。もし残った場合は、個人的に使用しようと思った。
姫奈は仕込みとキッチンの片付けを、晶は客席の清掃をそれぞれ終えた。
「そうだ。持って帰っていいから、これ見ておけ」
エプロンを脱ぐと、姫奈は晶から一冊の冊子を渡された。
パラパラとページをめくると、それがエスプレッソマシンのカタログだと理解した。
「わぁ! ついに買うんですね!」
夏休みに約束したことを思い出した。
晶のことだからきっと忘れていると思っていたので、こうして覚えてくれていたことが嬉しかった。
「お前が欲しいのを買ってやるよ。ただし――ミルの時みたいに、余計な金は使わせるな」
晶はそう言い、キッチンの電動ミルを指差した。
晶が精神面を崩して回復した時、どさくさに紛れて姫奈は強請ったが、結局は怒られた。自分に非があるため、何の言い訳も出来なかった。
「は、はい。それについては今も反省してますよ。――ていうか、めっちゃ高くないですか?」
ざっと眺めていると、どれも値段は六桁だった。中には七桁のもあり、驚いた。何ヶ月分のアルバイトの給料に相当するのか、反射的に計算してしまっていた。
特に根拠は無いが、姫奈の中では五桁で購入可能なイメージがあった。
「よくわからんが、業務用ならそれなりにするんだろ」
晶がカタログの表紙を指差した。姫奈は見てみると、確かに業務用と書かれていた。
「業務用ってことは……家庭用もあるんですかね?」
「知らん」
「業務用と家庭用って、何がどう違うんでしょ?」
「分からん」
姫奈は疑問を投げかけるが、仏頂面で腕組みをした晶にばっさりと打ち返された。
「いいか、姫奈。商売道具なんだから業務用を買う。私は何か、可笑しなこと言ってるか?」
「そういうわけじゃないですけど……」
晶の言い分は至って正論だと姫奈は思った。
しかし――業務用と家庭用の違いは分からないが、この店の規模で業務用は必要なのかと少しだけ疑問だった。
「お前なぁ……。金なら心配するな。出すのは私だ。お前が日和ってどうする?」
そう。結局は費用の問題であった。予想外の値段に驚いてしまったため、おそらく業務用に比べて安いであろう家庭用を考えていた。
「良いサービスを提供できるなら、私は出し惜しみしないぞ。というか、オーナーの私をもっと頼れ」
晶から、呆れたような半眼を向けられていた。
確かに、この買い物は晶にとってさほど高価なものではないだろう。
とはいえ、姫奈にとってはとても高価なものであり、そして何より――
「そう言って貰えると有り難いんですけど……この手の機械を一度も触ったこと無いんで、何を基準に選べばいいのか分かんないです」
経験が無い故に、カタログを眺めても今ひとつ触り心地が想像出来なかった。
他所の店でけたたましい音を上げているのと、店員がレバーを下ろしているのを見たことがある――現状、姫奈の持っている知識はその程度だった。
ミルの件で一度失敗している以上、この額での失敗はなお避けたい。だが、いかんせん判断材料が無いに等しかった。
「確かにそうだが……別に急いでないんだから、調べてじっくり悩めよ。調べるの、お前得意だろ?」
「そのつもりですけど、一度ぐらいは実際に触っておきたいんですよねぇ……」
何か良い方法は無いかと、姫奈は考えた。
「そうだ。ちょっとの間だけ、他所の店でバイトしてきましょうか? なんか、スパイみたいですけど」
思いついた唯一の方法が、それだった。
実際に提供する側の使い心地や、もし気に入ったのなら機械の名称まで控えられると思った。
「ダメだ! それだけは、私が絶対に許さない!」
しかし、晶から勢いよく否定された。
姫奈は正面の晶を見下ろすと、学生服のブラウスの袖をちょこんと掴まれていた。
「お前はうち専属のバリスタなんだから……一時でも他所に行くのはダメだ」
晶は頬を赤らめ、視線を横に向けていた。
晶なりに妬いてるのだと、姫奈は理解した。
その気持ちも、その様子も嬉しく――ただ、可愛いと思った。
衝動のまま、姫奈は晶を正面から抱きしめた。
「大丈夫です。晶さんがそう言ってくれるなら、わたしはどこにも行きませんよ」
「本当か? 絶対だぞ?」
「はい……」
姫奈を見上げる晶の隻眼は、今にも泣きそうだった。
そんな晶を安心させるように、姫奈は頭を撫でた。
「時間かかりますけど、エスプレッソマシンのこと、いろいろ調べてみます」
姫奈はカタログを学校鞄に仕舞うと、ふたつのアイスコーヒーを両手に外へ出た。
晶が扉を閉めシャッターを降ろし、客船ターミナルの広場へと歩いた。
誰も居ない広場の隅で、晶は煙草を咥えた。
姫奈はすかさず手持ちのライターで火を点けた。立ち上る煙草の煙を眺めながら、もう氷が全て溶けたアイスコーヒーを飲んだ。
「そうだ。コンビニで、こんなのあったんですよ」
ふと思い出し、鞄からチャック袋パッケージのチョコレート菓子を取り出した。
「手につきにくい?」
「はい。なんか、溶けにくいチョコらしいです」
パッケージのフレーズを読んだ晶に、姫奈は説明した。
夏場は溶けにくいという理由で、チョコレート菓子を持ち歩いていなかった。しかし、その問題が解決できそうであり、コーヒーと一緒に甘いものをつまみたいという晶のために購入した。
「ふーん。本当か?」
チャック袋の封を開け、怪しんでいる晶の手のひらに二粒乗せた。
チョコレートを練り苺でコーティングしているらしく、見た目はピンク色だった。
姫奈自身もひとつ手に取った。夏場の鞄にずっと置かれていたにも関わらず、本当に溶けていなかった。チョコレート菓子にしては珍しく、ツルツルした手触りだった。
「ほら。全然溶けてませんよ」
「夏なのに溶けないって、これもうチョコじゃない別の何かだろ」
晶は文句を言いながらも食べ、コーヒーを流し込んだ。
「なんか変な感じだが……まあ、アリか」
晶の何とも言えない感想を聞いたうえで、姫奈も口にした。
苺とチョコレートの甘い味だったが、サクサクした軽い食感が気になった。
確かに、ひとつのチョコレート菓子としては悪く無い。だが、コーヒーとの相性はまた別だと思った。
「コーヒーにはやっぱり、口の中にべったり残るような甘みが合いますね」
その条件を満たすのは、純粋な生タイプのチョコレート――夏場で容赦なく溶けるものだった。
現在の季節の携帯は難しいと、改めて実感した。
「おおっ。お前もだんだん分かってきたか」
たかが駄菓子で味覚の成長を感じられないが、晶の味覚に近づけたと思うと、姫奈は嬉しかった。
「はぁ……。なんかケーキ食べたくなってきたな」
「あっ、またウーバーで取り寄せるつもりですね。食べるなとは言いませんけど、ちゃんとご飯も食べなきゃダメですよ?」
「あははっ。分かってるさ」
口うるさく言うと、晶は笑って見せた。
鬱陶しがっている様子は無いので、姫奈も微笑んだ。
「そういえば――」
晶は、ふと何かを思い出したようだった。携帯灰皿に、煙草の吸い殻を仕舞った。
「明日なんだけどな。やっと私の部屋にテレビが届くぞ。業者に取り付けて貰う」
「えっ? 本当ですか!?」
想像もしていなかった言葉が聞けて、姫奈は驚いた。
晶にどういう心境の変化があったのかは知らないが、以前から強請った甲斐があったと思った。
「一応、テレビ台のサイズ測って注文したから大丈夫だとは思うが――もし合わなければ、即返品だ」
「……そうならないように祈っておきます」
おそらく家電屋まで出向いて現品を確認するまでもなく、適当に注文したんだろうなと、姫奈は想像した。
「それじゃあ、次の週末に遊びに行ってもいいですか?」
「ああ。いいぞ。ピザでも頼んで、ダラダラしながら何か観るか」
「はい!」
姫奈はとても喜びながら、笑顔で頷いた。
おそらく大画面であろうテレビで何かを観ることに、ではなかった。
アルバイト外で晶とふたりきりの時間を共有できることが、たまらなく嬉しかった。
早く週末にならないかなと願うと同時、残りの平日を頑張って乗り切ろうとモチベーションにになった。




