第37話
八月の頭。
ふたり揃って夏バテ気味であったが、林藤麗美は柳瀬結月を連れ、フィットネスジムに来ていた。
事務所の提携先であり、一般人は入会できない所だった。体型と体力の維持のため、以前から時間の合間を見つけてはふたりで通っていた。
その日の夜は空いており、見知った顔も特に居なかった。
来て早々、有酸素運動を行っている時だった。
麗美はランニングマシーンで走っていると、結月の携帯電話の通知音が聞こえた。
視線を隣の結月に向けると、エアロバイクを回す足を止め、携帯電話の画面をぼんやりとした瞳で見ていた。
そして画面上に指を動かした後、おもむろに電話をかけた。
「ええ。明日の正午――個室でふたり――」
そんな断片的な会話に耳を傾けながらも、麗美は走り続けた。
結月は通話を終えると携帯電話を置き、再びエアロバイクを漕いだ。
「ねえねえ、麗美ちゃん。明日のお昼、あそこに連れてって」
結月が続けて口に出したのは、とあるホテルの料亭の名前だった。
「え? 誰かと会うの? 仕事の話?」
業界人との密会の場として、過去より麗美もまた、個室を利用していた。まだ一度もマスコミに知られていない、麗美にとっての『安全地帯』だった。
「ううん。お仕事じゃなくて、プライベートでお友達と」
「友達? ほんとに?」
結月が友達と会うと言い出したのは、麗美の知る限り初めてだった。
性格や雰囲気から、悲しいことに業界内外問わず交友関係がほとんど無いことは、麗美がよく知っていた。
「友達って誰? それだけ教えてよ」
「うーん、ヒミツ。ていうか、麗美ちゃんは来ちゃダメよ? どこか違う所で、適当にランチ済ませてきて」
「別にいいけどさ……。なーんか怪しいなぁ」
結月がここまで隠すことが、麗美にとっては珍しかった。
さっきの電話で『ふたり』の予約を抑えていたと思い出した。つまり、正体不明の相手はひとりでやって来る。
結月が、顔の見えない相手とふたりきりの個室で密会しているのを想像すると――麗美はいい気がしなかった。
「やっぱおかしいよ。なんで私に言えないの? 何か後ろめたいことでもある?」
麗美はランニングマシーンから一度降り、立ち止まった。
声に苛立ちが含まれていたことが、自分でも分かった。
「ふふっ……。安心なさい。麗美ちゃんも知ってる相手だから」
エアロバイクを漕ぎ続けながら、結月の口元は微笑んだ。
こちらの感情を知りつつも嘲笑われていると、麗美は理解した。
有酸素運動の後に筋力トレーニングを済ませた。麗美は苛立ちのせいで荒っぽかった。
一通りのメニューを終えると、シャワールームへ向かった。
結局、明日の相手が誰なのか分からないな……。
頭から熱いシャワーを浴びながら、麗美はぼんやりとそう思った。
ふと、狭い個室を遮っていた扉が開いた。
振り返ると、麗美と同じく全裸の結月が抱きついてきた。
「結月!?」
身長は麗美の方が十センチほど高いが、結月の勢いに負け、壁に押し付けられた。個室の壁と結月の身体に挟まれるかたちとなった。
結月は両腕を壁につき、麗美の逃げ道を塞いだ。そして、強引にキスをした。
麗美は長時間、結月から舌を絡まれた。
「はぁ……はぁ……。こんなところでダメだって……。誰かに見られる……」
ようやく開放され呼吸を整えながら、結月を押し退けようとした。
「大丈夫よ。私達以外、誰もいないわ」
しかし結月は離れず、麗美に絡みついた。
麗美としても怪我をさせる心配から、無理に力を出せなかった。
「麗美ちゃん、妬いてるの? すっごく可愛い」
結月に顎を持ち上げられ、麗美は視線を外すことが出来なかった。
ふたりを打ち付けるシャワーの中、首筋や顔にへばり付いたアッシュピンクの髪の隙間から――結月が恍惚の表情を浮かべているのが見えた。
「ち、ちが――」
「可愛いわ、麗美ちゃん。でも……生意気でちょっとムカつく……」
「ひゃっ!」
結月に太ももをそっと撫でられた。
そして細い指先は、徐々に上へと這い上がった。
「ん――」
それに加えて、唇も塞がれた。
結月の息遣いとシャワーの音だけが、麗美の耳に届いていた。
苛立った感情の中、結月から軽い絶頂を与えられた。
少しの快楽と、場所の背徳感から――麗美は熱が冷めたというより、情けなくなった。
*
翌日。
麗美は正午頃、結月を自動車でホテルまで連れて行った。
上階のレストランフロアで結月と別れた。
結月の相手として誰が来るのか隠れて確かめようとしたが、結月に知られると怒られると思い、観念した。
自分も昼食にしようと、ホテル地下の飲食店街へと向かった。
結月が和食だと思い出し、麗美も同じ系統の店に入った。
暑さであまり食欲は無かったが、冷たいざる蕎麦と天ぷらの盛り合わせ――デザートに冷たい白玉あんみつまでを食べた。
必要以上の食事を摂取したことで、自己嫌悪に陥った。とはいえ、そうまでしないとストレスが溜まる一方だった。
食事の後、ホテル地下を散策した。
人で混雑しているわけでも、空いているわけでもなかった。
しかし、誰ひとりとして麗美に視線を向けなかった。
スーツ姿だから? いや、違う。
暑くとも、変装用にわざわざマスクを着用する必要まであるのだろうか? 外しても正体は分からないのでは? その疑問さえ浮かんだ。
一体いつからだろうか――『RAYの林藤麗美』に価値が無くなったのは。
ここ最近、一般人から声をかけられた記憶が無い。最後にサインを書いたのはいつなのか、思い出せない。
解散からまだ一年。想像以上に、世間から忘れられていた。
おそらく、現役の柳瀬結月やイメージチェンジ前の天羽晶なら、また違っていただろう。人気最下位の自分だからだろう。
晶に『一般人』への転向を促しておきながら、自分もまた気づかないうちに『一般人』になっていた。
この知名度の低下が、自分よりも結月と晶の両名に申し訳なかった。
そう。自分ひとりだけなら、まだよかったのだ。
何年先、何十年先かは分からない。この風化が――結月と晶、そして大切にしているRAY自体にも、遅かれ必ず押し寄せる恐怖を麗美に与えた。
世間から完全に忘れ去られることは無いだろうが、徐々に存在が削られていく未来は、想像しただけで悲しかった。
しかし、どうにもならない現実だった。
ただ――あのようなカタチで解散を迎えたことが、たまらなく悔しかった。
物寂しさと焦燥感を抱きながら、麗美は一般人に混じり、ひとり歩いた。
結月からの連絡が無いため、麗美はもう少し時間を潰すことにした。
飲食店街から上がり、地下一階には華やかな衣類やジュエリー等のブランドショップが並んでいた。
いつの間にか、この手のブランドものには興味が失せていた。スーツだけは特定のブランドを好いているが――スーツ以外を着る機会が滅多に無いため、お洒落そのものに無頓着だった。
まだ若いのに、これでいいのかな……。
そう思いながら店頭を見て歩いたが、やはり食指は動かなかった。
いや、自分に対して似合うか否かの尺度で測っているわけではなかった。
それぞれのアイテムを着用する結月の姿が、頭の中で浮かんでいた。結月に似合うものを、無意識に探していた。
――彼女のマネージャーとして当然だと思っていた。
ふと、とあるブランドのジュエリーショップに立ち寄った。立地的にブライダル推しているが、そんな中を麗美はひとりで見て回った。
プラチナの三日月がダイヤモンド一粒の星を囲んでいるデザインのピアスが目に止まった。
シンプルで小さいそれは大切な仲間ふたりを彷彿させると同時、結月に似合いそうだと思った。
「試着なさいますか?」
眺めていると、店員が駆け寄ってきた。
「これ、プレゼント用にください」
「はい。かしこまりました」
衝動買いなんて珍しいなと、麗美は自分でも驚いた。
やけ食いに続いて散財でストレス発散かと思ったが、現在はなんだか頭がふわふわしていた。
「あの、お客様。大変失礼ですけども……RAYの林藤麗美様でいらっしゃいませんか?」
商品外箱にリボンのラッピングをしている店員が、ふと訊ねた。
その質問に麗美は瞳が見開き、静かに驚くが――少しの間を置き苦笑した。
「あははは……。別人ですよ」
否定しながら、明細書の乗ったトレイにクレジットカードを置いた。
店員はカードの名義を見ると、嬉しそうに微笑んだ。
そんな店員に、麗美はマスクの上から口元に人差し指を立て、会計を済ませた。
久しぶりに『著名人』として認知され、麗美はとても嬉しかった。
しかし――現在はもうマネージャーであり、経営者でもあり、引退した身として名乗った。
その後、地下駐車場の自動車に戻った。
車内のエアコンをつけて待っていると、今から戻るとの連絡が、結月から届いた。
「麗美ちゃん。お待たせ」
しばらくして眼鏡とマスクを着けた結月が現れ、助手席に乗り込んだ。
「おかえり。楽しいお喋りできた?」
「うーん。なんかね、意外だったわ」
「へ、へぇ……」
話が全く見えず、麗美は適当に相槌を打った。
結月はいつもと変わらず眠たげな様子なので、実際に楽しかったのか分からなかった。
「これ。私からプレゼント」
暑そうにマスクを外す結月に、麗美はショップバッグを差し出した。
「あら。なぁに?」
結月はリボンを解き、小箱を開けた。
ぼんやりした瞳は変わらないが、口元は微笑んでいた。
「まあ、可愛い。突然どうしたの? 何かの記念日だっけ?」
「いやー。地下をブラブラしてたら、結月に似合いそうだなって」
結月の嬉しそうな表情を見ることができて、麗美は満足だった。
――RAYの名前を少しでも遺すためにも、結月にはまだ頑張って貰わないといけない。
自分の中の感情を誤魔化すように、そう言い聞かせた。
「ねぇ。これ着けてよ」
結月は麗美に小箱を渡し、髪を耳にかき上げた。
麗美は小箱からピアスをひとつ取り出すと、運転席から助手席に身体を伸ばした。シフトレバーとドリンクホルダーの隔たりこそあるものの、可能な限り近寄った。
結月の息が肩にかかる距離だった。
結月の耳たぶを支え、ピアスを軽く回転させながら小さなピアスホールに通した。
そして、キャッチャーでの固定を終えると――顔だけを伸ばした結月に、そっとキスをされた。
「……やっぱり、麗美ちゃんは優しいのね」
ぼんやりと見上げる結月の瞳を、麗美はじっと見つめた。
ホテル地下の駐車場。マスコミの目がどこに潜んでいるのか分からないが、周りを見渡さなかった。
いっそ見られてもいいと、一瞬思った。
「そりゃ、結月は私の大切な人だからね」
落ち着いて優しい言葉を投げかけることで、麗美自身がなんだか安心していた。
目の前の女性がついさっきまで誰と会っていたのかは分からないが、最早どうでもよくなった。
「うん。似合ってるよ」
腕を伸ばし、結月の頭を撫でた。
――結月とふたりきりで会っていた『誰か』に嫉妬していると、麗美は認めたくなかった。
結月は嬉しそうに、頬を赤らめていた。




