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胸を張って歩ける日まで  作者: 未田
第14章『初恋』
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第35話

 ――わたしは八雲と、友達で居たい。


 姫奈はその決意を抱いたものの、八雲と話す機会は、本音を伝える機会は無かった。メッセージアプリでのやり取りも、一度も無かった。

 どう切り出せばいいのか分からなかった。

 自覚は無かったが、八雲からの接触を待っていた。受け身の姿勢だった。

 夏休みの時間が過ぎ、アルバイトに明け暮れ――まるで夏の熱さに溶けるように、気持ちの風化を少なからず感じた。

 いっそ、このまま消えて無くなればいいのに……。

 投げやりにそう思ったが、簡単には捨てられなかった。気持ちも関係も、姫奈は『自然消失』を恐れた。

 しかし、完全には消えることは無かった。自身の中で引っかかり、もどかしかった。



   *



 携帯電話を眺める余裕すらも無くなったのは、八月の中旬、世間がお盆と呼ばれる期間に入ってからだった。


 ある日、晶は行き先を告げず、出かけるとだけ言い残して姫奈に店を預けた。

 何があったのか、姫奈は知らない。

 しかし、その翌日から晶が寝込んだため、姫奈ひとりで店を回すことになった。


「大丈夫ですか? お店の方は何も無かったです」


 夕方、いつもより早めに店を閉めると、一日分の控えのレシートを持って晶の部屋を訪れた。


「……」


 晶はベッドに横になり、ぼんやりとしていた。隻眼の瞳は焦点が合っていないかのようだった。

 テーブルにはミネラルウォーターのペットボトルと、処方された薬が広げられていた。それが風邪薬ではないと、姫奈は分かっていた。


「晶さん、昨日何があったんですか?」

「……何でもない。ただの発作だ」


 姫奈の問いに、晶はぽつりと答えた。

 晶は体調を崩したわけではない。精神面で寝込んでいた。

 発作と言うが、姫奈の知る限り、ここ二ヶ月ほどは精神面を崩したことは無かった。

 その言葉を信じたかった。しかし、自分が晶の正体を知った時のように――きっかけとなる何かがあったのだと悟った。

 晶が隠す限り、姫奈は無理に聞き出さなかった。


「シャワー浴びますか? さっぱりしますよ」


 姫奈は苦笑しながら提案するが、晶は首を横に振るだけだった。

 晶が食事を摂っている様子は無かった。仕方なく、卵粥を作って食べさせた。

 しかし、晶は食べてすぐ嘔吐した。まるで生きることそのものを拒んでいるかのように、姫奈には見えた。


 明らかに、尋常ではない様子だった。姫奈はただ心配だった。

 携帯電話を取り麗美に連絡しようとしたが、晶はそれを静止し首を横に振った。

 もしかすると麗美とケンカしたのかと、姫奈は疑った。晶の気持ちを汲み、携帯電話を仕舞った。


 晶にコンビニで買ってきた栄養ゼリー飲料を飲ませ、そして睡眠導入薬を服用させた。

 その後ベッドで添い寝すると、晶は眠った。

 姫奈としては朝まで付き添いたかったが、その日は帰宅することにした。


 部屋を出る際――扉の開いた一室があったので、無意識に覗き込んだ。

 部屋には、いくつもの段ボール箱が積まれていた。いくつかの開けられた中から衣服が見え、ここは衣装部屋なのだと理解した。

 中央の床で、ゴシック調の黒色のドレスが月明かりに照らされていた。

 乱暴に扱われたような形跡があり、脱ぎ捨てられたように見えた


 その日の帰り道、深夜まで営業しているディスカウントショップで、姫奈はキャリーケースを購入した。



   *



 翌日、キャリーケースに着替えや化粧品を可能な限り詰めた。親には、学校の友達と急遽旅行に出かけることになったと言い、自宅を後にした。適当なアンテナショップで土産を買って帰ろうと思った。

 キャリーケースを引っ張り、朝から晶の部屋に向かった。


「晶さん。わたし、何日か泊まり込みますからね!」


 姫奈としては、根比べのつもりだった。折角の夏休みなのだから、鬱陶しいからもう帰れと言われるぐらいまで、粘って看病をするつもりで来た。


「私のことはいいから、店の方を頼む。お前ひとりに任せて、すまないな」


 晶はベッドに仰向きになったまま、淡々と告げた。

 まだ覇気は感じられないが、姫奈の見る限り、昨日より顔色は若干良くなっていた。


「……わかりました。冷蔵庫にお粥とプリンが入ってるんで、食べれそうなら食べてください」


 今日は店を閉めるつもりだったが、姫奈は晶の言葉に従い、店を開けた。

 世間が盆休みだからか、その日は特に忙しかった。店内に常時、複数の客が座っていた。

 水出しのアイスコーヒーは午前中に完売した。急冷アイスコーヒーの方も、手動のミルで豆を挽いてはとても注文が回らないため、まだ残っていた粉を使用した。一刻も早く電動のミルが必要だと思った。

 合間を見て携帯電話を確認するが、晶からも――八雲からも、連絡は一切無かった。

 夕方に店を閉め、水出しアイスコーヒーの準備を済ませた。疲労感を引きずりながら、晶の部屋へと戻った。


「今日も何とかなりました……。めちゃめちゃ大繁盛でしたよ」


 姫奈は作り笑いでリビングに入ると、晶の様子を見て瞳が見開いた。

 晶はベッドで横になり、泣いていた。左目から溢れる涙を、指先で必死に拭っていた。


「晶さん!?」


 姫奈は慌てて近づき、晶を抱きしめた。

 晶は姫奈に身体を任せ、正面からもたれ掛かった。そして、ベッドに腰掛けた姫奈の膝で泣いた。

 まるで、小さな子供を諭すように――姫奈は、晶のぼさぼさの頭を優しく撫でた。


 しばらくして晶が落ち着くと、晶を風呂に入れた。泣き疲れたのか、抜け殻となっている晶の全身を、姫奈は洗った。


「お風呂入って、偉いですよ」

「……」


 風呂から上がり、姫奈は夕食の支度をした。豚肉、生姜、めんつゆで温かいつけ汁を作り、茹でた素麺を氷水で冷やした。夏バテではないが、晶に元気が出て欲しいと願ってのメニューだった。

 晶は一束分の素麺を食べた。その後嘔吐することもなかったので、姫奈は安心した。

 冷蔵庫の粥は少し減り、プリンは丸ごと無くなっていた。


 晶はまだぼんやりしていて、元気が無い様子だった。しかし、姫奈はどの薬も服用させなかった。

 姫奈としても疲れていたので、早めにふたりでベッドに入った。

 もう慣れているはずなのに、晶を抱きしめると――晶に触れると、未だにドキドキした。

 しかし、高まる胸の鼓動は眠気に勝てなかった。


 ふと姫奈が目を覚ました時、体感として、まだ朝ではないと分かった。

 手の指先に何か違和感を覚えた。

 虚ろな意識で確認すると――晶に手を持たれ、指先をしゃぶられていた。


「……晶さん?」


 薄暗い部屋の中、晶の表情は分からなかった。他者に口で吸われている奇妙な感覚が、指先に伝わった。

 しかし、それはふと鋭い痛みに変わった。

 歯で噛まれたのだと、姫奈は理解した。

 思わず表情をしかめるが、声は出さなかった。晶を振り解こうともしなかった。

 まだ耐えられる痛みだったので、我慢した。

 これで晶の気が済むなら――あるがままを受け入れた。


 しばらくして晶は指から口を離すと、小さな身体で姫奈を抱き寄せた。そして、次は首筋に噛み付いた。

 いや――唇で吸われているのか、歯で噛みつかれているのか、姫奈自身わからなかった。ただ、確かな痛みを感じていた。

 まるで、食べられているかのようだった。

 貪欲に何かを求める晶を安心させるため、姫奈は抱きしめた。

 それに応えたのか、晶は姫奈のパジャマのボタンを、上からいくつか乱暴に外した。

 暗闇の中、下着を着けていない乳房が露わになり――晶は顔を埋めた。

 胸にも、指先や首筋同様の痛みが走った。それでも姫奈は、晶を抱きしめ続けた。


 時間もわからない。晶の表情もわからない。

 腕の中の獣のような存在も、この痛みすらも、きっと夢なんじゃないかとぼんやり思いながら――姫奈は晶に犯された。



   *



 次に姫奈が目を覚ました時、頭がなんだか重かった。

 薄暗い部屋の中、自身のパジャマが乱れていることに怪訝な顔をすると、姫奈はトイレで用を足した。

 そして、その足で洗面所に向かった。


「うわぁ……」


 鏡に映った自身の姿を見ると、思わず白けた声が漏れた。

 ぼさぼさの髪の毛に、着崩れたパジャマ。所々に痣や歯型が見えた。髪を上げて角度を変えると、首筋にまで『痕跡』があった。

 あれは夢ではなかったのだと理解すると同時、この無様な姿にただ呆れるばかりだった。

 衣服や髪型でどう隠そうか悩んでいると、シャッターの上がる音が聞こえた。


 姫奈はリビングに戻った。夏の眩しい朝日が、部屋に差し込んでいた。

 ベッドの上では、身を丸く縮ませた晶が――顔を真っ赤にさせていた。その恥ずかしい感情が伝わってきそうだと、姫奈は思った。

 晶は横目でチラリと姫奈を見ると、すぐに視線を外して両手で顔を覆った。


「姫奈、すまない……。私が悪かった……」


 謝罪の声には、涙が混じっていた。

 感情の籠もった声を久々に聞いたと、姫奈は思った。ふっと微笑み、ベッドに腰掛けた。


「大丈夫か? 傷、残ったりしないか?」


 晶は顔を上げ、涙でぐちゃぐちゃになった顔を見せた。心配そうに、姫奈の胸元の痣を撫でた。

 そんな晶を落ち着かせるように、姫奈は晶の小顔――頬に触れた。


「たぶん大丈夫ですよ。わたしはまだ、傷の治りも早いんで」

「……そう言われると、なんか腹立つな」


 晶はまだ涙を流しながら、半眼の左目を向けた。


「今日からわたしとお店に出てくれたら許してあげます。今はめちゃめちゃ忙しいですよ。晶さんの思ってる五倍は忙しいです。……それと、やっぱり電動ミル買ってください」

「わかったよ。ひとり任せてすまなかった。――ちなみに、最後のは何だ?」


 ようやく晶が元の調子に戻り、姫奈は安心した。

 緊張感が解けたように、空腹感が訪れた。しかし――


「朝ごはんの用意もするんで……その前に、シャワー浴びてきます」


 身体に残る汗と唾液の不快感を一度落としたかった。

 ベッドから立ち上がり、ふと携帯電話の電源ボタンに触れた。


『来週の夏祭り、今年も一緒に行かない?』


 空閑八雲からのメッセージが、待ち受け画面に浮かんでいた。時刻を確認すると、昨晩のうちに届いていたものだった。

 ここ何日か晶に気を取られていたが――八雲への気持ちは消えていなかった。再び浮かび上がるというより、何かがぴたっと嵌ったような気がした。


『いいよ。午後六時に、去年と同じ場所で』


 姫奈はそれだけを返信すると、携帯電話を置いて風呂場へと向かった。

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