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胸を張って歩ける日まで  作者: 未田
第12章『揺れる水影』
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第29話

 夏休みが始まった。

 姫奈は一学期の成績から、塾や予備校の夏期講習は不要だと思った。毎日、朝からアルバイトに精を出していた。


 客足が一度途絶えると、購入したばかりの手動コーヒーミルを取り出した。ふたり分の豆を入れ、調整ネジで細挽きに設定した。


「どうして手動のやつ買ったんだよ? 電動にしておけよ」


 ハンドルをガリガリ回していると、カウンターテーブルの晶から気だるそうな隻眼を向けられた。


「いいじゃないですか。風情がありますし、可愛いですし」


 姫奈が選んだものはクラシックタイプのものだった。作業効率が悪い分、デザインとインテリアに優れていた。店のキッチンカウンターにオブジェとして置けるだろう。


「まあ、匂いは良いんだけどな……」

「そうですよ。匂いと一緒に、この音で落ち着いた時間を提供できると思いますよ」

「バカ。悠長に待ってられるか」

「身も蓋もないこと言わないでくださいよ!」


 とはいえ、晶の言い分も一理あった。もしも注文が停滞していては、呑気に挽いてはいられない。

 この手動タイプは安かったとはいえ、結局は電動タイプも買わないといけないなと姫奈は思った。晶の機嫌が良い時に言うことにした。

 ミルの引き出しから細挽きの粉を取り出すと、すぐに急冷アイスコーヒーを二杯淹れた。ひとつを晶に渡した。


「挽いたばかりなだけあって、やっぱ美味いな。なんていうか、コクもある」

「はい。思ってた以上に変わりますね」


 姫奈も一口飲み、普段との味の違いに驚いた。豆から淹れる、そして挽き方を変える――たったこれだけなのに、大きく変わった。


「豆から買いましょうか?」

「そうだな。手配はお前に任せる」

「わかりました。卸業者から、ひとまずサンプル送って貰いますね」


 インターネットで探しておこうと思った。

 豆のサンプルの他に、もしも試飲会があれば晶と一緒に行ってみたかった。


「うちも益々カフェらしくなってきたな」


 晶は腕を組み、どこか自慢げに言った。


「でも、まだ熱いか冷たいかのコーヒーしか出せないじゃないですか」

「……わかったよ。豆のことが片付いたら、エスプレッソマシーンのこと考えてやるよ」

「本当ですか!? ありがとうございます!」


 ようやく晶の許しが降りそうで、姫奈は嬉しかった。

 エスプレッソマシーンでカフェラテやカプチーノが出せるようになると、ようやく理想のカフェに近づける気がした。

 ニコニコと笑顔を浮かべながら、ふきんを片手にキッチンからカウンターテーブルに回り込んだ。晶の飲み終えたグラスを下げ、カウンターテーブルを拭いた。


「サンダル、可愛いですね。やっぱり似合ってますよ」


 今日の晶は、ドット柄の白いワンピースにブラウンのカーディガンを羽織っていた。ワンピースの丈が膝下あたりと、いつもより短いので、姫奈のプレゼントしたアンクルストラップのサンダルが映えていた。


「まあ、折角だしな……」


 晶は言葉を濁すが、表情は特に照れている様子は無かった。

 小柄なだけあり、ワンピース姿がまるで人形のように可愛いと姫奈は思った。プラチナベージュのショートボブヘアーも含め、意外と似合っていた。


「すっかり夏ですね」


 扉の向こう、客船ターミナル隣の公園からだろうか――セミの鳴き声が、微かに聞こえた。

 七月も終わろうとした現在、外は強い日差しと熱気で蒸し暑く、立っているだけで汗が流れた。涼しい室内でアルバイトが出来て良かったと、姫奈は改めて思った。


「わたし、来週に友達とプールに行くんですよ。水着も買いました」

「プールって……お前今、アレの期間だろ?」

「それまでには終わってますよ」

「ていうか、お前泳げるのか?」

「ナイトプールでくつろぐ感じです」

「は? ナイトプール? ませてんなぁ」


 気だるそうな表情の晶だったが、その言葉に驚いた様子を見せた。


「大体、お前未成年(こども)じゃないか。行っていいのかよ」

「まあ、ひと夏の冒険ということで……」


 痛いところを突かれ、姫奈は苦笑で誤魔化した。

 調べたわけではないので分からないが、ナイトプールといえばどこも成年以上が対象なのだろうか。


「ていうか……ナイトプールなんて出会いの場だろ? ナンパしに行くのか? されに行くのか?」

「え――そうなんですか?」


 姫奈はキッチンで洗い物をしていたが、その言葉に思わず手を止めた。

 八雲から、その手の話は聞かされていなかった。


「晶さんはナイトプールに行ったことあるんですか?」

「昔、三人で海外ロケに行った時に、ホテルのプールを夜に貸し切って酒飲みながら遊んだことならある」

「うわぁ……」


 流石は元著名人。一般人には考えられないスケールで遊んでるだなぁ。

 姫奈はその発言に白けながらも、洗い物を再開した。

 グラスを洗っていると、晶が一般的なナイトプールに行っていないことに、ようやく気づいた。


「出会いだのナンパだの、晶さんの勝手なイメージじゃないですか。大体、行くのは女性オンリーの日ですよ」

「それでもだ!」


 カウンター席の晶は、睨むような瞳で姫奈を見た。


「お前はただでさえチョロくて流されやすいんだから、ナンパなんてされたらホイホイ付いて行くだろ」

「――ちょっと待ってください。わたし、そんなにチョロいですか?」

「ああ。一般人の百倍はチョロいな」

「えー」


 晶の言葉に信憑性は無い。姫奈にも自覚は無い。

 とはいえ、誰かにそう言われたのは初めてなので、すぐに否定は出来なかった。念のため、気に留めておくことにした。


「まあ百歩譲ってチョロいとしても、友達と一緒なんで大丈夫ですよ」


 そう。ひとりで行くなら警戒は必要だろうが、八雲が一緒なので大丈夫だと思った。


「それでもだ――もし変なのに絡まれたら、はっきりと嫌だと言えよ?」

「はい。本当にそういうのと遭遇したら、そうします」


 きっと、自分が未成年だからであろう。ガミガミと心配する晶は、まるで母親のようだった。

 しかし、その心配は鬱陶しいわけではなく、むしろ嬉しかった。

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