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胸を張って歩ける日まで  作者: 未田
第11章『眼鏡と眼帯』
35/113

第26話(前)

 六月の終盤に差し掛かり、ようやく梅雨が訪れた。

 連日雨が降り続き、鬱陶しい日が続いていた。


 そんな中、台風が発生し、姫奈の住む街に直撃した。七月に入ってすぐの出来事であった。


 朝のうちはそれほど酷くなかったので姫奈は登校したが、だんだんと天気は悪化し――夕方に下校する頃には、大荒れとなっていた。

 携帯電話が大雨洪水警報を、そしてモノレールの運休を通知した。

 帰りの足が止まってしまったため、学校中は大騒ぎとなった。

 予報では、これからさらに雨風が強くなるらしい。

 現在のうちに歩いて帰宅する者。自動車で迎えに来て貰う者。そして、帰る手段が無い者は体育館で一泊となる。

 各々が携帯電話で家族と連絡を取り、教室は騒然としていた。


「澄川さんは、どうする?」

「わたしは歩きかな。まだ近い方だから」


 隣の席のクラスメイトに訊ねられ、姫奈は答えた。

 自宅まではモノレールで一駅。学校から一時間ほど歩けば着くだろう。

 とはいえ、窓を強く打ち付ける雨を眺めると憂鬱になった。


「歩くのは嫌だけどねぇ」


 苦笑しながら、携帯電話の電話帳――五十音順に並んだ一番上にある『アキラさん』を開いた。


「……」


 少し悩んだ末、通話ボタンを押した。


『どうした? 今日は休みだって言ったろ?』


 電話が繋がるや否や、晶の気だるそうな声が聞こえた。

 確かに今日の昼過ぎ、台風で店を休む旨の内容が晶からメッセージアプリで届き、姫奈は了解のスタンプを返した。


「いえ。それは分かってるんですけど……。モノレールが止まって帰れなくなったんで、今から部屋(そっち)に行ってもいいですか?」


 晶のマンションへは学校から徒歩二十分ほどで着く。この悪天候の中、二十分歩くのも自宅まで一時間歩くのも濡れる事に変わりは無かったが、少しでも近い方を選びたかった。


『別に構わないが……。まだ学校か? タクシー呼んでやろうか?』

「あっ、大丈夫です。その代わり、タオル用意して貰ってもいいですか?」

『わかった。風呂も沸かしておいてやるよ。――気をつけて来いよ』


 浴室でだけど、晶さんの部屋で裸になるんだ……。

 通話が切れると、姫奈はお風呂という言葉からそれを連想した。

 こういう事態を想定していたわけではないが、予備の下着と靴下とストッキングを学校鞄に入れて持ち歩いていた。


「澄川さん、どうしたの? 顔真っ赤だよ?」

「な、なんでもないよ!」


 心配するクラスメイトに、姫奈は慌てて否定した。

 これから晶の部屋に向かうことに、恥ずかしさは確かにあった。

 だが、それ以上に――ドキドキしていた。



   *



 学校近くの同級生に泊めさせて貰うと親に連絡し、姫奈は下校した。

 大雨と強風の中、傘は意味が無いどころか逆に危ないので、広げなかった。

 雨で視界が悪いので、姫奈は慎重に歩いた。

 レインコートを着ているとはいえ、無防備な顔面部には雨が容赦なく打ち付けた。観念して眼鏡は外した。

 レインシューズは滑り止めの効果しかなく、靴の内側まで浸水していた。歩く度に足裏の感触が気持ち悪かった。


 大きな橋を渡ると、河の水位がいつもに比べとても高くなっていた。

 視界が悪くとも、河は荒れ、その先の海は大きく時化ていたことが分かった。

 実際に歩いてみて、想像以上に酷かった。これからさらに悪化するという予報を思い出し、自宅まで歩かなくてよかったと改めて思った。


 晶のマンションに着いた頃には、主に精神面が疲弊しきっていた。

 部屋のカードキーを持っているが、無断で使うのはいけないと以前から思っていた。携帯電話のメッセージアプリで、晶に着いたことを伝えた。


 豪華なエントランスを汚すのは気が引けたので、玄関口でレインコートを脱いで水気をなるべく切った。

 濡れたストッキングは気持ち悪かったが、制服の方は雨の被害に遭っていなかった。

 洗顔後のように濡れている顔をハンドタオルで拭くと、仕方ないとはいえ化粧がごぞっと落ちた。あれだけの雨を浴びた状態から既に酷い顔になっていたんだろうな、と姫奈は思った。怖くて手鏡で確認出来なかった。

 人気の無いエントランス――コンシェルジュの前を、顔を隠すように俯いて通った。

 エレベーターで上がり、晶の部屋に入った。


「……何してるんだ?」


 玄関で、晶の呆れたような声が聞こえた。

 姫奈は俯いたまま、両手で顔を覆っていた。


「雨でメイク落ちて、たぶんすっぴんより酷いことになってるんで。とてもじゃないですけど、見せられません」

「お前なぁ……。私はお前がクソダサかった頃から知ってるんだぞ?」

「ちょ――」


 晶に強引に両手を退けられた。

 姫奈の素顔を見た晶は、真顔だった。


「……ぷっ」


 しかし、少しの間を置いた後に吹き出した。


「だから見ないでって言ったじゃないですか!」

「いやー、想像以上だった。写真撮ればよかったな」

「絶対にダメです!」


 姫奈は赤面しながらストッキングを脱ぎ、晶から受け取ったタオルで足を拭いた。

 晶の部屋に新聞紙が無かったので、代わりに丸めたキッチンペーパーをレインシューズに詰めた。


「そこが洗面所と浴室だ。後で着替え持っていってやるよ」

「ありがとうございます。下着は替えがあるんで、Tシャツでも貸してください」

「わかった。洗面台にクレンジングシートあるから、よーく拭けよ」


 笑いながら去っていく晶に姫奈は怒ると、リビングに荷物を置いて洗面所に向かった。

 洗面所もリビングと同じく、片付いているというより物がほとんど無かった。それでも、新品ではない歯ブラシを見ると、晶の確かな生活感があった。

 そんな中で制服と下着を脱ぎ、姫奈は全裸になった。自宅以外では滅多に無い経験なので、なんだが落ち着かなかった。


 タオルで長い髪をまとめ、浴室に入った。シャワーで身体を軽く流した後、広い湯船に浸かった。

 レモンの入浴剤だろう。爽やかな柑橘系の香りが、鬱陶しい季節には心地よかった。

 ここで晶さんも、毎日お風呂に入ってるんだ……。

 ふと、姫奈はそんなことを思った。

 全裸姿の晶を自然と想像してしまうが――洗面所に人の気配がしたため、首を横に振ってかき消した。

 きっと、晶が着替えを置いてくれているんだろう。

 そう思っていると、浴室の扉が開き、医療用眼帯までを外した全裸の晶が入ってきた。


 乳房と乳首、そしてアンダーヘアーまでもがはっきりと見えた。

 小柄で華奢な身体には、所々に傷跡さえあれど――姫奈が想像していたより肌がずっと白く、美しかった。


「晶さん!?」

「私も入る」


 晶はいつも通りの気だるげな様子だった。

 思わず腕で胸を隠した姫奈と違い、何も恥ずかしいと思っていない様子だった。


「ちょっと待ってください――わたしは、恥ずかしいです」


 姫奈は晶の裸体から視線を外した。

 公衆浴場の利用がほとんど無い。誰かと入浴した事がほとんど無い。

 晶の裸体を見るのが恥ずかしい。自分の裸体を見られるのも恥ずかしい。

 理由は次々と浮かぶが、現在最も深刻なのは――


「無駄毛の処理をしてないんで……」


 何よりも、これが一番恥ずかしかった。首をすぼめて俯き、風呂湯の表面でブクブクと言葉を濁した。

 普段からスカートを履くことはなく、学生服も未だに黒色のストッキングを履いているため、怠っていた。

 八雲と水着を買いに行く時に、まとめて処理をしようと思っていたのだ。


「えっ、そうなのか? まあ夏だし、そろそろ剃っておけよ」


 姫奈の悩みに反し、晶はつまらなさそうに流した。

 そして、特に身体を洗うことなくそのまま湯船に入った。

 湯船は充分にふたりが入れる広さだった。

 向かい合うことになると姫奈は思っていたが――背中を向けた晶が、姫奈にもたれ掛かってきた。


「これなら私からお前が見えないだろ?」

「それはそうですけど……」


 晶は振り返らなかった。

 確かに、晶からの視線を遮ることで恥ずかしさは和らいだ。しかし、湯船の中で素肌が密着し、姫奈の理性はそれどころではなかった。

 胸、そして腕に晶の重みを感じた。痩せ細った身体なのに、とても柔らかかった。

 プラチナベージュの内巻きの髪から覗かせたうなじが、すぐ目の前にあった。ただの首筋のはずが、どうしてか妙に色っぽく見えた。

 ドクンドクンと、自分の胸の音が高まっているのが分かった。こう密着していると伝わるのではないかと、心配だった。


「なあ。ちょっとした心理テストしてやるよ」


 ふと、晶が提案した。


「心理テストですか?」

「ああ。もしも、だ――お前が人気の無い夜道を素っ裸で歩いていて、正面から誰か来る気配がしたら、両手で身体のどこを隠す?」

「なんですか、そのシチュエーション……。露出狂の人の気持ちなんて、分かりませんよ」

「だから、たとえ話だよ。直感で答えてみろ」


 姫奈は呆れながらも、状況を想像してみた。直感で、自分が取った行動とは――


「そうですね……。強いて言えば、胸ですかね」


 頭の中では、両腕で胸を隠していた。

 おそらく大半の女性がそうするだろうと思った。というより、それ以外の選択があるのか疑問だった。


「そうか、胸か……。答えを言うとな、その箇所が『自分の身体で最も自信のあるところ』らしいぞ」


 晶はそう言いながら、姫奈の胸に大きくもたれ掛かって仰け反った。

 天井を見上げるかのように姫奈の顔を眺め、にんまりと笑った。


「これだけ大きいと、あながち間違ってないな」

「いやいやいや。間違ってるとか間違ってないとか――それ以前に、胸や股以外に答えようが無いじゃないですか!」


 確かに姫奈は周りに比べ胸が大きめではあったが、高身長故だと思っていた。

 特別に自信があるわけではないので、納得できなかった。


「それを訊かれた時、私は顔と答えた。もし首から下の裸を見られても、それが誰かなのか分からなければ意味が無いと思ったからな」


 晶の答えが分からなくはなかった。

 直感でその考えに至るのは、センスなのか――それとも、本当に自らの顔に自信があるのか。どちらにせよ、元トップアイドルらしいと思った。


「私はな、姫奈。恥ずかしいところを、お前にもう散々見られてるんだ……。裸なんかよりも、ガチの泣き顔の方がよっぽど恥ずかしいんだよ」


 晶は首を戻し、湯船の中で三角座りになって俯いた。

 姫奈からは、晶の表情が見えなかった。だが、呟くように漏らした言葉は、本当に恥ずかしいのだと伝わった。

 晶の泣き顔を何度か見てきた。

 その中でも特に、夕陽に照らされた笑顔が泣き崩れたのが印象的だった。あれが晶の言う『ガチの泣き顔』だと思った。


「……覚えてたんですか?」

「ああ。次の日になったら、恥ずかしすぎて気が狂いそうだった」


 キスの記憶は無かったから――薬で朦朧としていたあの時の記憶も無いと思っていた。


「なんでだろうな……。お前には、つい甘えてしまう」


 晶は再び姫奈の胸にもたれ掛かった。

 そんな晶を、姫奈は背後からそっと抱きしめた。


「わたしでよければ、いつでもいいですよ。全然迷惑じゃないです」


 晶の耳元で、諭すように囁いた。

 躊躇なく泣かれるのも、甘えられるのも――晶から信頼されているようで、姫奈は嬉しかった。そして、これにより晶が元気になることも、嬉しかった。

 晶は姫奈の腕に触れ、そっと頬を擦り寄せた。

 ありがとう、と姫奈は言われたような気がした。


「……晶さんが短いスカートを履かないのって、これが原因ですか?」


 ふと、晶の太ももにある傷跡が目に入り、撫でるように触った。

 以前プレゼントしたレースのフットストラップのサンダルをミニスカートと共に履いて欲しいと思ったが、この傷跡が人目に付くのが嫌なんだろうと思った。


「それもあるが……この歳になると、短いスカートはしんどくなるんだ。履けるのはお前ぐらいの歳なんだから、後悔の無いようにしておけよ」

「わたしだって履きたいですけど履けないんです! というか、晶さんの脚めちゃめちゃ綺麗じゃないですか」

「そういう問題じゃないんだよ。もう若くないんだしな、っていう気持ちの問題だ」

「はぁ……。よくわかんないです」


 他にも、晶の二の腕に傷跡が見えた。

 これからさらに暑くなるのに薄着は出来そうにないと、姫奈は残念だった。


「……この傷って治せないんですか?」


 近代の医療技術の発展は、目まぐるしいものがある。完全に消せはしなくとも、目立たせないぐらいの処置は可能なのではと、ふと思った。

 この痛々しい傷跡を――敢えて残している疑いがあった。


「シミはなかなか消えないから、若くても日焼け対策はしっかりしておけよ」

「ひゃっ」


 お返しと言わんばかりに晶から太ももを撫でられ、姫奈は変な声が漏れた。

 質問に対し、上手くはぐらかされたと思った。

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