第19話
五月の終わり。
二十一時頃、麗美は自宅に帰宅した。
「ただいまー」
「おかえりなさい」
休日だった結月が、帰りを迎えてくれた。
麗美としてはタワーマンションでの暮らしを続けたかったが、現在は同棲相手の結月が選んだデザイナーズマンションに住んでいた。
タイル貼りの床、そして所々に変わった模様の装飾があり、一年過ごしても麗美はあまり落ち着かなかった。
麗美の名義で契約していたタワーマンションの方は、天羽晶をひとり押し込んだ。退院したばかりの晶は迷惑そうだったが、すぐ近くのテナントに彼女のカフェを用意したので、大きな不満は漏らさなかった。人気の少ない場所に、晶を隔離しておきたかった。
結月の作った夕飯を食べた後、リビングのソファーに腰掛けた。
スーツのジャケットこそ脱いでいたが、部屋着に着替えるのは面倒だった。そのままダッカールクリップで髪を後頭部に留め、ノートパソコンを開いた。
「ねぇ、結月さんや。私も髪バッサリ切ったり染めたりしてもいい?」
ノートパソコンの画面を見ながら――キッチンで後片付けをしている結月に、何気なく訊ねてみた。
「だーめ。麗美ちゃんは黒髪ロングが一番似合ってるわよ。それに、営業行っても麗美ちゃんだってすぐ分かるでしょ?」
「うーん……。そう言われると、ぐうの音も出ませんわ」
麗美は担当している結月だけではなく、事務所としての営業に行く事もあった。営業では、元アイドルとしての現場の経験、そして九年間培った『林藤麗美』というブランドで強引に押し通す場面もあった。確かに、印象を大きく変えるのは、まだ得策ではないだろう。
「でもさ。もし白髪が生えてきたら、考えさせてね」
少なからずストレスを抱えて生活している自覚はあったが、幸いにも髪や胃に影響は無かった。
ただ、昔に比べ肌が荒れ気味なのは年齢だけの問題では無いと思っていたので、ケアは念入りに行っていた。
「案外大丈夫じゃない? でも一応、麗美ちゃんに似合う色を考えておくわ」
結月にさらっと流され、麗美は願わくば白髪の一本でも生えて欲しいと冗談交じりに思った。
「気分変えたいなら、ネイルでもしてみたら?」
「仕事の邪魔になりそうだから、いいや」
別に、気分を変えたいわけじゃないんだけどね――それは付け加えず、伏せておいた。
髪は鬱陶しいから切りたかった。ネイルにしても、かつてはサロンでジェルネイルの施術を受けていた。しかし、パソコンのキーボードを叩く事が増えた現在、頻繁に視界に入ると気分が上がるどころか落ち着かないだろう。控えめな色のマニキュアで充分だった。
「結月はさ……私の外見だけが好きなの?」
何度目かは忘れた。その質問は、少なくとも初めてではなかった。
「麗美ちゃんの見た目も、確かに好きよ。でもそれ以外にも、麗美ちゃんのカッコイイところは沢山あるわ」
「そこを教えてよ」
「まだヒミツ」
洗い物が終わったのか、水音が止んだ。結月の淡々とした声が、よく聞こえた。
その答えも、初めてではなかった。肝心の部分は以前から伏せられていた。
「なに? 不安なの? 安心して。私が麗美ちゃんのこと、世界で一番愛しているわ」
ティーカップをふたつ持ち、キッチンから結月が歩いてきた。
「いや……そういうわけじゃないんだけどさ……」
眼鏡姿の結月は髪をヘアバンドで纏め、モコモコした生地の可愛らしいルームウェアを着ていた。大きめのプルオーバー、そしてショートパンツで脚が露わになっているため、麗美は視線を逸らした。
「はい。ハーブティー」
「ありがとう。でも欲を言うなら、コーヒーが飲みたいなぁ」
「夜にカフェインはダメよ。これだってノンカフェインなんだから」
カモミールの良い香りはリラックス効果の他、眠りを連想させた。
麗美はテーブルの栄養ドリンク剤に手を伸ばしたが、結月に取り上げられた。
「観念なさい。というか、帰って仕事はやめなさいよ。それ急ぎなの?」
結月はソファーの隣に座り、ノートパソコンを覗き込んだ。
「今度の役員会議までだから、もうちょっと時間はあるかな――時間取れるか、分からないけど。もうちょっと養成所に予算欲しいから、費用対効果のシミュレートをプレゼンしたいんだよね」
麗美は事務所の養成所から送られてきた動画を再生した。
養成所に頻繁に出向いているわけではないが、新人アイドルの成長を確かめ、時には指導に口出ししていた。
RAYの解散から一年。事務所での後続を、麗美は誰よりも念頭に置いていた。
「今期のルーキーは、筋の良い子多いよ」
「うーん……。私には全然分からないんだけど、そうなの?」
「あんたはセンスで駆け上がったからね。こういうのは私の目線が近いのさ。あんたや晶みたいなS級は何かを持ってないと無理だけど、この子らを私みたいなA級までは頑張り次第で何とかなるんじゃないかなって」
隣の人物相手に凡人として努力で追いついてきた実績があるからこそ、自信と根拠があった。
「マネージャーに経営に新人育成に、晶ちゃんのことも……私は麗美ちゃんが心配よ」
結月はぽつりと呟き、麗美の肩にもたれ掛かった。
そんな結月の頭を、麗美は撫でた。
「ありがとう、結月。この子らが軌道に乗れば、ちょっとはラクになると思う。今はほら、ふんばり所だから……。まだ体力も落ちてないし、私は平気だよ」
晶の事故から全ては成行きだが、麗美は現在の仕事にやり甲斐と誇りを持っていた。『凡人』としての九年間の経験があるからこそ、自分にしか務まらない仕事だと思っていた。
「結月も、うちのエースとしてもうちょっとだけ頑張ってね」
麗美は結月の唇に、そっとキスをした。
ぼんやりとした結月の表情は、なんだか嬉しそうに見えた。
――麗美には、それが心苦しかった。
「私があんたのマネージャーなのに、ここだと逆に身の回りの世話やらせちゃってるね。本当に、ありがとう」
罪悪感を誤魔化すように、感謝の言葉を口にした。
「いいのよ。私が好きでやってることだし……。でも、本当にそう思ってるなら、仕事はお終い。ハーブティー飲んでお風呂入って、休みましょ」
「はーい」
結月にノートパソコンを閉じられ、麗美は観念した。
どういう意図でこの設計になったのかは分からないが、浴室の壁と扉はガラス張りで透けていた。
行ったことないけど、ラブホテルってこんな感じなんだろうなぁ。
麗美は湯船に浸かりながら、いつもそう思っていた。
現に、肌着を脱ぎ髪をまとめ、入浴の準備をしている結月の姿が湯船から見えていた。
仕事に対して、やり甲斐や誇りはある。
しかし、私は一体何をしているんだろうと、ここでの同棲生活で時々思う。高校生の子供相手に自信や誇りを偉そうに語った手前、自己嫌悪に陥っていた。
結月は私にとって何なのか。
浴室の天井を眺めながら、麗美はぼんやりと考えた。
RAYで九年間寄り添ってきた大切な仲間。そして現在は、事務所として売りに出したい『商品』と考える一面もあった。
現役時代はアイドルとしてのイメージを第一にしていたため、バラエティー番組やテレビドラマの出演は厳禁だった。
だがRAY解散後、ソロでタレント活動をしていた結月に、テレビドラマのゲスト出演のオファーが届いた。
麗美はあまり乗る気がしなかったが、ソロとしての売り込み、話題作りの一環として承諾した。
与えられたのは『ヒステリックな上司』というOL役だった。結月から敢えて程遠いイメージを置くことで、制作側も話題を作りたかった。演技の出来栄えは、この際どうでもよかったのだ。
しかし、結月は別人のように成りきり、完璧に演じきった。制作陣の期待を裏切り、麗美も驚いた。
それが世間でも評価され、麗美の予想以上に話題となった。ドラマや映画の出演オファーも続々と届いている。
ソロといっても自慢の歌唱力を活かし、歌手を主として手堅くやっていくつもりだった。だが、女優としての選択肢も生まれた。麗美にとって嬉しい誤算だった。
いや、化け物だと思った。
九年間を一緒に過ごしても、まだ底が見えなかった。おそらく総合的な能力では、あの天羽晶もを凌ぐだろう。
「お待たせ」
結月は浴室に入ると、口元が小さく微笑んだ。相変わらず、眠たげな瞳だった。
潜在的な部分を理解していない商品を扱うことが、麗美は怖かった。このぼんやりとした雰囲気も演技なのでは、との疑いすらあった。
しかし、それでも事務所の稼ぎ頭を利用せざるを得なかった。
麗美が愛しさえすれば、結月は必ずそれに応えてくれる。そのためには、素肌で身体を重ねる事さえ厭わなかった。
――麗美もまた、結月に利用されていた。
そう。これは柳瀬結月と交わした『契約』なのだ。




