第17話
姫奈が初めてこのマンションに来たのは、髪を切って貰った時だった。
あの時はタワーマンションの高級さに緊張したなと思いながら、豪華なエントランスを抜けた。
現在は全く緊張していないわけではないが――それよりも、憧れの人に会いたい想いの方が強かった。
長いエレベーターを降り、目的の部屋をカードキーで開けた。
カーテンを閉めていないリビングは夕陽が差し込み、眩しかった。
そんな中で――天羽晶はベッドで眠っていた。
右目の医療用眼帯は外していた。
左頬にだけ、涙の流れた跡があった。
「晶さん」
姫奈がベッドに腰掛けると、その存在に気づいたのか、晶は目を開けた。
「なんだ……姫奈か……」
晶は突然の訪問に驚いた様子はなく、身体を起こすとベッドにぺたんと座った。
――たぶん、薬のせいでちょっとラリってると思う。
車を降りる際、麗美に言われた事を思い出した。現に、寝起きだとしても異常なほど瞳は虚ろだった。
晶はキャミソールとショーツだけを着けていた。半裸の姿を、姫奈は初めて見た。
ぼさぼさの髪。とろんとした瞳。痩せ細った身体の――少なくとも胸元、腕、脚に傷跡が見えた。
きっと、事故の際に出来たものだろう。
この小柄な女性はかつての栄光を掴んだ後、心身共にボロボロになりながらも生きてきた。
世間には亡くなったと伝え、一体どういう気持ちで生きてきたのだろう。姫奈にはとても計り知れないが、悲痛さだけが伝わった。
「なあ、姫奈」
晶は姫奈のブレザーの襟を掴んだ。小さな手で、力強く握った。
「お願いだ……お前は遠くに行かないでくれ……」
震えた声に続き、左目から涙がこぼれた。
とても弱々しい瞳で、姫奈を訴えた。
きっと、正体を知られた現在、自分から離れてしまうと悩んでいたのだろう。
意識は朦朧としているだろうが、だからこそ心の底からの声に聞こえた。
その願いに応えるように、姫奈は晶の両肩に正面から手を置いた。
「たとえ晶さんが何者でも――わたしは晶さんから離れません!」
晶の瞳を真っ直ぐ見た。
「ありがとう……」
その言葉が伝わったのか、晶は泣きながら微笑んだ。
夕陽に照らされたその顔は、あまりにも儚く、あまりにも美しかった。
しかし、左目から涙がぼろぼろと溢れるにつれ、表情は崩れていった。
「こんなに嬉しいのに、右目で泣けないんだよ……両目で見ていた景色が、もう思い出せないんだよ……」
今にでも消えてしまいそうな、とても小さな――絞り出したような声だった。
どこか脱力気味に、右目は虚空を眺めていた。
精巧に作られた義眼が、なんだか濁っているように姫奈には見えた。
「晶さん!」
姫奈は晶を抱きしめた。
その小さな身体が壊れてしまうぐらい、力強く抱きしめた。
誇りを失くした、生きる糧を失くした、空っぽの女性を――
「頼りないわたしですけど……側に居ますから」
姫奈は、晶とふたりでカフェを運営している景色を思い浮かべた。
姫奈が現在まで見ていたものであり――そして、これからも見ていたいものだった。
この温かな景色で、自分だけではなく、晶も満たしたいと思った。
両目で見ていた景色が思い出せないのなら、新しい景色を見せよう。
片方の目に光が届かないのなら、別の光を届けよう。
あなたがわたしに、光をくれたように。
わたしがあなたに、新しい光を与えたい。
(第1クォーター終了です)
https://twitter.com/m_hitsujida/status/1391001977916563462
次回 第08章『太陽と月(前)』
一年前。麗美は結月にRAY解散後ソロでの活動を求めた代わり、二つの条件を飲んだ。




