第九十六話(完)
十二月二十四日。
午後六時頃に飛行機が降り立ち、姫奈は帰国した。
それから長い到着手続きを済ませると、空港から電車に乗った。
一度帰宅してもよかったが、午後八時になろうとしていたため、その足でstella e principessaに向かった。
結局、着いたのは午後八時過ぎ――閉店直後だった。
「ただいま! みんな、ありがとう。一週間、迷惑かけたね」
姫奈は『closed』の札が揺れる扉を開けると、元気よく挨拶した。
「おかえりなさい!」
「あっちはどうでしたか?」
レジやキッチンで後片付けをしていた従業員達が手を止めた。
「向こうは真夏だったからねぇ。時差ボケよりも、気温の差が堪えるよ」
あちらの国は半袖で過ごせるほどの暑さだったが、それでもクリスマスを祝う雰囲気だったため、おかしな感じだった。
そして、体感の寒暖差がとても大きく、この国の冬はこれほど寒かったのだと、改めて感じた。
「チーフ! あたし、やりましたよ!」
キッチンで洗い物をしていた従業員から、声をかけられた。
黒髪の少女――誰だろうと姫奈は思うも、それが新宮天使だとすぐに理解した。
「あんちゃん! すっごく似合ってるよ!」
別人のように姿が変わっているのを見ると、彼女の中で大きな心変わりがあったようだ。姫奈は、それがまるで自分のことのように嬉しかった。
「お疲れさん」
入り口で立ち尽くしていた姫奈に、小柄な女性が近づいた。
一週間離れ――姫奈が現在最も会いたい人物だった。
「マスター、ただいま戻りました」
「ああ。おかえり」
優しく微笑む晶に今すぐにでも抱きつきたかったが、従業員が居る手前、我慢した。
「今日はもう遅いんで、皆にお土産だけ配りますね」
姫奈は床でキャリーケースを開けると、従業員への土産を取り出した。
ココナッツのチョコレート菓子、パイナップルのドライフルーツ、マテ茶のティーパック、オーガニックコスメ。いくつかあるそれらを、テーブルに並べた。
「お土産というより、クリスマスプレゼントになるのかな。みんな、ひとつずつ取ってね」
片付け作業は一旦中断となり、従業員達がテーブルに集まった。
天使もその中に入ろうとしたところで、姫奈は肩を掴んだ。
「はい。あんちゃんはこれ」
姫奈は天使の右手首に、麻を編み込んだ紐状のものを巻いた。
「わぁ。これって、アレですよね?」
「あっちでは有名なお守りだね。願いを込めて、叶ったら切れるってやつ。まあ、四六時中着けてることもないからね」
所詮は迷信に過ぎないが、希望が必要な少女にはこれを託したかった。
天使は物珍しそうに触るも、どこか浮かない表情だった。
「チーフ……。あたし、今日コクって、上手くいきましたよ! 願いが叶ったばっかりなんです」
「やったじゃん! でも、これがゴールじゃないよね? あんちゃんのこれからの夢が見つかったら、願掛けするといいよ」
ひとまず、天使の目先の目標が達成されたようで、姫奈としても嬉しかった。この容姿と告白は、少女が自信を持てた証拠だった。
だが、これで終わりではない。かつての自分がそうであったように――先の見えない長い道を、この少女がどのように歩むのか、姫奈は見守りたかった。
「はい! ここでの経験は忘れません! これからも頑張ります!」
ぱっと表情の明るくなった天使から、姫奈は頭を下げられた。
「コクったって……私の知らない人間だったのか。まあ、高校卒業して、もしバイトに困ったら……ウチに来い。今度はちゃんと雇ってやる」
ふと、晶が隣に立った。
晶がこうして誘うということは、自分が不在の間に天使を認めたのだと、姫奈は嬉しかった。
「マスター! まだ分かりませんけど、その時はお世話になります!」
天使は礼儀正しく、晶にも頭を下げた。
晶の言葉を他の従業員達も聞いていたようで、天使は彼女達からも、卒業したらおいでと誘われた。
その様子を見て、姫奈は静かに微笑んだ。晶だけではなく、皆からも歓迎されていることに、天使の成長を改めて感じた。
「そうだ。わたしが美味しいと思ったコーヒー豆のサンプルを貰いました。もしよかったら、仕入れを考えてくれると嬉しいです」
姫奈は、コーヒー豆の入った袋をいくつか取り出した。
晶にも早く紹介したかったので、航空便の荷物ではなく手荷物として持ち帰った。
「海外からの直輸入か……。いい感じじゃないか」
「わたしも直に話したんで、経路は確保できそうです。面倒なところを振って悪いですけど、詰めのところをお願いします」
「ああ。値段の交渉も任せろ」
締結となれば姫奈は何も出来ないので、晶の存在が頼もしかった。
普段から世話になっている卸業者の他に、海外からの経路を作るとなれば、仕事として面白かった。
「そんな晶さんへのクリスマスプレゼントは、これです!」
姫奈はキャリーケースから、一本の大きな瓶を取り出した。
「特産のお酒ですよ!」
「なかなか良いチョイスじゃないか。あの国の酒は、たぶん飲んだことないからな……。どんな味か、楽しみだよ。ありがとうな」
予想通り、晶は喜んだ。
姫奈は現地で、ライムと砂糖とのカクテルで飲んだ。癖が無く美味しかったので、お酒好きの晶にも飲ませたいと思い、これを選んだ。
「それにしても……。これだけ買ってきたら、手荷物検査に手間取っただろ?」
「はい。そのせいで、これだけ遅くなりました。何も引っかからなかったんで、よかったですよ」
空港での到着手続きを思い出し、姫奈は苦笑した。
特にコーヒー豆の袋は怪しまれ、念入りに検査された。
「まあ、今夜はクリスマスですし、早速これ飲みましょう」
「そうだな……」
姫奈は酒瓶を、再びキャリーケースに仕舞った。疲れているが、帰宅後が楽しみだった。
それからしばらくすると閉店後の片付けが終わり、姫奈は晶と最後の戸締まりをした。
「なあ。今からちょっと、デートしないか? 行きたい所があるんだが……」
「クリスマスデートですか。いいですね」
晶の提案に、姫奈は頷いた。
stella e principessaの周りは、他にも色んな店が立ち並ぶ通りとなっていた。午後九時を回った現在もクリスマスの雰囲気が続き、きらびやかだった。まだ大勢の人達で賑わっていた。
その中を、姫奈は晶と手を繋いで歩いた。
行き先は訊かなかったが、やがて電車の駅に着いた。駅のコインロッカーにキャリーケースを預け、電車に乗った。
電車、そしてモノレールに乗り継ぎ――向かっている方向から、姫奈は行き先を理解した。
予想通りの駅で降りた。高校に通っていた三年間、毎日降りていた駅だった。
しかし、高校とは逆方向に向かった。姫奈としても、そちらの印象の方が強かった。
寒空の下、晶と手を繋いで大きな橋を渡った。
たとえ暗くとも、かつて見ていた景色が懐かしかった。五年前から、何も変わっていなかった。
変わったものは――シャッターの降りたテナントが並んだ中で、ひとつだけが営業していた。
少し離れたところで立ち止まり、姫奈は晶と店の明かりを眺めた。
「どうします? 入りますか?」
かつてEPITAPHと呼ばれていたカフェは、現在はバーらしき店に様変わりしていた。
姫奈はこの現状を初めて知った。晶の引っ越し以降ここを訪れることも無かったので、去った後のことは何も知らなかった。
「いや……やめておく」
「わたしも同じ意見です」
おそらく変わったであろう現在の店内を見るのが、嫌だった。あそこでの三年間は、大切な思い出として仕舞っておきたかった。
それは晶も同じのようで、ふたりで顔を見合わせて苦笑した。
それから、再び歩き出した。
すぐ近くにある埠頭――鉛筆のような尖った屋根の建物が、ライトアップされていた。
その下の広場もまた、暖色の明かりに照らされていた。とても綺麗な所だが、相変わらず人気が無かった。
緩やかな階段状の広場を降り、端の――海に面した柵で立ち止まった。
かつて、医療用眼帯を着けたプラチナベージュのショートボブの小柄な女性が、ここでよく煙草を吸っていた。煙草を口に咥えると、ライターで火を点けるのが自分の役目だった。
その女性は現在、医療用眼帯を外し、プラチナベージュのロングヘアーとなっていた。ロイヤルブルーの大判のマフラーを、髪の上から巻いていた。
「すいません。ライター持ってないです」
「あー……そんな大昔のことは思い出さなくてもいい。というか、煙草を吸う気分でもない……」
珍しいなと思い、姫奈は晶を改めて見ると、なんだかそわそわした様子だった。
「ここも、久しぶりに来るといい感じですね……。ありがとうございます」
しかし現在はそれを気にするよりも、この静かな雰囲気に浸りたかった。
晶をそっと抱きしめるが――晶からすぐに引き離され、向き合うように立たされた。
「なあ。お前とも、長いよな……。数えたら、もう八年になるんだよ」
広場に設置された高所からの照明が、晶の顔を照らした。
晶はやはりどこか落ち着かない様子だった。一度は俯くも、不安そうな目で見上げた。
「八年ですか……。長いようですけど、あっという間でしたね」
改まって何だろうと姫奈は首を傾げながら、晶を見下ろした。
晶と八年の時間を過ごしてきたが、やはりこの場所での思い出が、特に感慨深かった。
この場所で出会い、そして――
「別に、キリのいい数字でも節目というわけでも無いんだが……。これが今年の、私からのクリスマスプレゼントだ」
晶はダウンジャケットのポケットから、明るい緑色の箱を取り出した。
それはどうやら化粧箱のようで、中には黒色の箱が入っていた。
さらにその中には――ふたつの指輪が入っていた。
「晶さん……」
姫奈は息を詰まらせ、両手で口を覆った。
瞳の奥が熱かった。頭がどうにかなりそうなほど嬉しかった。
八年前と同じだった。まるで、あの時の再現のようだった。
違うのは、指輪だった。
白金のそれは現在嵌めているものよりも細く、よりシンプルなデザインで――ブリリアントカットされた小さなダイヤモンドが、輝いていた。
全く同じ指輪が、ふたつあった。
アクセサリーとして着けるものではないと、姫奈はすぐに理解した。日常での使いやすさを追求したものだった。
そう。この指輪が意味するものは――
「ダメです。ちゃんと言ってください。晶さんの気持ちを、わたしに聞かせてください」
瞳が潤むのを、姫奈は感じた。
口を覆う両手で顔を隠したかったが、照れ臭そうにしている晶を真っ直ぐ見つめた。
晶の気持ちを確かめたかった。
「私の人生に付き合ってくれて、ありがとう……。これからも付き合って欲しいし、私もお前の人生に付き合いたい……。姫奈……私は、お前と同じ人生を歩きたいんだ!」
白い息と共に、その言葉が届いた。
滲んだ視界の向こう――晶の真っ直ぐな瞳が見えた。
自分の瞳から溢れ出した感情を、姫奈は両手で受け止めて俯いた。
「晶さん……わたし……わたし!」
笑顔で応えたいのに、嬉しくてたまらないのに、呼吸が乱れた。
何かを考える余裕は無かった。この気持ちを表現する言葉が浮かばなかった。
「お前のこと、初めて泣かせてしまったな……」
姫奈の耳に、晶の苦笑する声が聞こえた。
晶の前で泣いたのは、確かに初めてだった。いや――泣くこと自体いつ以来だろうと、姫奈は思った。
「いつも、晶さんがわたしの分まで泣いてくれていましたから……」
辛くて泣きたい時は、現在まで何度かあった。
しかし、それらの場面は晶が先に泣いていた。そんな晶を支えるため、泣けなかった。
「もう我慢しなくたっていいんだ……。これからは、お前の涙を私に拭わせてくれ」
晶から両手を掴まれ――顔から離された。
最高に格好悪い顔を愛する人に見られたと、姫奈は恥ずかしかった。
しかし、優しく微笑む晶が、ぼんやりと見えた。
晶の指先が伸びてきた。手首に巻かれたチェーンブレスレットの青い宝石が揺れるのが、涙越しに見えた。
細い指先はとても冷たく、とても温かかった。
涙をそっと拭われた。呼吸もようやく落ち着いた。
「一緒に笑って、一緒に泣いて……どんな時も、お前と一緒に居たい。私と家族になって欲しい……」
家族。この指輪の意味を、改めて言い表された。
恋人として八年間交際し、内五年間を同じ部屋で暮らしてきた。特に遠慮の無い間柄だったが、それでも血縁の無い他人として、どこかで一線を引く部分はあった。
晶の前で泣かなかったのも、きっとそのひとつだった。
家族になるというのは、それを取り払い――そして、以降一生をその関係で居続けるという未来への確約を行うのだと、姫奈は思った。
現在までの状況と似ているようで、確かに違った。
「……わたしでいいんですか?」
「お前じゃなきゃダメなんだよ!」
思った通りのふたつ返事だった。意地悪な質問をしたと姫奈は思った。
――この喜びを、確かめたかった。
再び、目尻から溢れたものが頬を伝った。
「こんなものに、何の意味も無いのかもしれない……。それでも……お前のことは、これからもずっと愛してる」
晶に左手を掴まれ――薬指に、指輪を嵌められた。
小さな指輪の小さな輝きが、とても綺麗だった。
軽いが、確かに重かった。言葉だけではない晶の気持ちを、こうして受け取った。
晶からの愛情は、これまで幾度となく感じてきた。それらを家族になるという『覚悟』が昇華し、こうして形作ったように見えた。
しかし、薬指にこうして宿るものは決して重荷ではなく、これからもずっと大切にしたいものだった。
「わたしは晶さんの側に一生居ます……。だから、晶さんもわたしの側に一生居てください!」
姫奈もまた、これまでの気持ちと――これからの『覚悟』を指輪に込め、晶の左手薬指に嵌めた。
自分の人生を、これから一生の問題を、このように簡単に決めていいのかという躊躇は意外にも無かった。
迷いなど無かった。あるはずが無かった。
これは、目の前の人間と一生を添い遂げたいという――心からの『願い』なのだ。
「ありがとう……」
晶は頷くと、指輪を見せるように左手を上げ、子供のように無邪気に笑った。
姫奈もまた同じようにし、涙を流しながら微笑んだ。
こうして『誓い』を交わした。
法的な家族にはなれない。しかし、当事者間での気持ちは固く結ばれたと、姫奈は感じた。
「晶さん!」
姫奈は晶を正面から抱き締め、キスをした。
この人と出会えてよかった。
この人を愛してよかった。
この人の前で涙を流せてよかった。
幸せだった。二十三年の人生で、きっと現在が最も幸せな瞬間だった。
否、これからも幸せな日々を続けたいと思った。
左手の指輪も愛する人も、一生大切にし、離したくなかった。
それは晶も同じようで――正面から、強く抱き締められた。
こうして、八年振りに再び最高のクリスマスが訪れた。
そして、季節が暖かくなり、春が巡る頃――ふたりは純白のドレスを纏い、神の前で改めて誓いを立てた。
surely have a bright future.
続あとがき
https://note.com/htjdmtr/n/n17b1f2b6fe2e
and the sun falls, a long night begins.
新作予告編『魔女は黄昏に笑う』
明日12.25公開




