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胸を張って歩ける日まで  作者: 未田
特別編
112/113

第九十五話

 十二月半ばの火曜日。

 その日はstella e principessaが定休日のため、晶はいつもより早い時間に姫奈と夕飯を食べていた。

 リビングのテーブルに置いたカセットコンロには、赤いスープの鍋がグツグツと煮込まれていた。色の割に唐辛子の匂いは無く、むしろ甘い匂いが漂っていた。


「トマト鍋、美味しいですね!」


 晶にしてみれば『好きでもないが嫌いでもない』味だが、姫奈が美味しそうに食べているなら、それで良かった。


「次は辛い鍋をだな……寒いし……」

「マイルドなやつならいいですよ」

「いやー。そこは、汗かくぐらいじゃないと……」

「それはダメです!」


 大人になっても味覚は変わらないか……。

 晶は諦めながら、鶏肉をキャベツで包んで食べた。


『――パートナーシップ制度の認定が本日から始まり、早速五組のカップルが訪れました』


 ふと、テレビのニュース番組からそのようなアナウンスが聞こえ、晶は画面を見た。

 近くの自治体が同性カップルの証明を始めたようで、認定を受けようと市役所を訪れた人達が映っていた。

 女性ふたりが、とても幸せそうな笑みを浮かべていた。


「……」


 姫奈に視線を移すと、姫奈は箸を止め、真顔でテレビ画面を眺めていた。

 表情にも声にも出さないが、少なからず羨んでいると、晶には分かった。


 この制度に関する知識を、晶はあまり持ち合わせていなかった。しかし、結婚とは根本的に違うものであり、法的効力が何も無いことだけは知っていた。

 所詮は当事者の自己満足にしかならないと思っていた。意味が無いと思っていた。

 ――それでも、姫奈が望むのであれば、その気持ちを汲みたかった。


「なあ――」


 私達も、行くか?

 そう訊ねようとしたその時、姫奈の携帯電話が鳴った。通話の着信音だった。


「もしもし」


 その場で姫奈が応えると同時に、晶はテレビリモコンの消音ボタンを押した。


「――えっ、本当ですか? わたしでいいんですか? でも、確か……。そりゃ、嬉しいですけど……。ええ……。念のため、スケジュールを確認させてください。折り返し連絡します。すいません」


 姫奈は神妙な表情で壁のカレンダーを眺めた後、通話を切った。

 話し相手は分からないが、あまり良い話ではないのだと晶は悟った。


「正直に話してみろ」

「来週、コーヒー豆の品評会があるんですけど……審査員のひとりが欠席することになったんで、代わりにわたしに来て欲しいという協会からの要請です」

「なんだ。名誉なことじゃないか。行ってこいよ」

「はい。というか、ぶっちゃけ拒否権は無い感じです。まあ、わたしとしても嬉しいんですけど、場所がですね……」


 姫奈の口から、コーヒー豆で有名な外国の名前が漏れた。

 この星のちょうど裏側に位置する国だった。とても日帰りで行き来できないことを、晶は理解した。


「忙しい時期に一週間も空けることになって、すいません」

「一週間もか……。確かに痛いが……シフトを調整するから、店は任せろ」


 申し訳無さそうに頭を下げる姫奈を、晶は笑顔で諭した。

 表情には出さないが、かなりの痛手であった。姫奈ひとりに頼る部分が大きかったのだと、経営者として反省した。


「ちなみに、いつ帰ってこれるんだ?」

「えーっと……。二十四日です。クリスマスはこっちでお祝いできそうです」

「そうだな。お祝いの準備して待ってるから、お前は向こうでプレゼント買ってきてくれ」

「はい。楽しみにしてください」


 姫奈は微笑むと、携帯電話を手に取り、返事をした。

 姫奈のバリスタとしての活躍が嬉しいが――一週間も離れることに対し、晶はあまりいい気がしなかった。



   *



 十二月十七日。

 朝から姫奈を見送り、晶はstella e principessaに向かった。


 従業員の勤務シフトは調整済みだった。事情を話すと、皆協力してくれた。

 晶も事務仕事は最小限に抑え、姫奈の代わりになるべく現場を指揮していた。これまでも、姫奈が一時的に不在の時はそうしていた。

 従業員の数さえ揃えば、店を回すこと自体は充分に可能だった。


 しかし、一流バリスタの長期不在による品質問題を、晶は懸念した。

 こればかりは仕方ないと割り切った。それに、客に対しわざわざ事情を言わないが――常連客は姫奈の顔が無いことで察するだろうと思った。五年経営していることの強みであった。


 晶はふと時計を見ると、もう午後五時になりそうだった。

 そろそろかと思い、スタッフルームに入った。そして、椅子に座ってその人物が来るのを待った。


「お疲れさまです」


 しばらくすると、待っていた人物がようやく現れたかと思ったが――


「いや。誰だよ、お前」


 黒色のロングストレートヘアーと控えめな化粧の少女が現れた。

 声を聞いたからこそ、その人物だと分かったが、一見では別人だった。


「いやだなぁ。あたしですよ、あたし。天使ですよ」


 新宮天使(しんぐうあんじぇら)は苦笑した。

 そう。まるで別人のように様変わりしていた。以前より幼く見えた――というより、歳相応の本来の格好になったと言う方が正しいだろう。

 一体何があったのか、晶には分からなかった。清楚な姿は何かから解脱したのかと思い、接客業としてより好感が持てた。しかし、現在は余裕がないため、変化に対して興味を持つことは無かった。


「まあ、その格好はちょうどいい……。手短に言うぞ。チーフが出張で一週間居ないことは知ってるな?」


 ロッカーを開け店内に出る準備をしている天使に、晶は言った。


「はい。寂しいですね……」

「寂しいんじゃなくて、忙しいんだよ。だから――この一週間は、お前を特別にアルバイトとして雇う。ちゃんと給料出すから、いつも以上に気合入れて働け」


 従業員の戦力としては、既に足りていた。

 晶の計画に天使は頭数に入っていなかったが、この際、使えるものは惜しみなく使っておきたかった。不安は可能な限り払拭しておきたかった。天使に賃金を払う代わり、仕事に対する責任を課した。


「えっ、マジですか!? いつも全力ですけど、百二十パーで頑張ります!」


 天使は明るい声を上げた。

 姫奈に任せきりだったので、晶は天使と接することはあまり無かった。

 姫奈がどのように指導していたのかは、分からない。しかし、この少女は無給にも関わらず真面目に仕事を頑張っている姿を、ぼんやりと見ていた。


「バカ。二百パーだ。いつも通り、食器洗いと備品の補充は任せたからな」

「はい!」


 天使が力強く頷き、晶は少し安心した。


 それから数時間は特に問題無く、閉店時間を迎えた。

 天使は自主的に最後まで残り、晶と店内の掃除をしていた。

 時給稼ぎではない意図だと、晶は理解していた。


 面接に押しかけてきた時はどうなるかと思ったが、現在は仕事に対する姿勢をとても評価していた。

 もうすぐ、当初に定めたインターン期間が終了する。可能であればこのまま正式に雇い、雑用以外の業務の教育を行いたいぐらいだった。彼女の年齢を恨んだ。


「なあ……。そのイメチェン、何があったんだ?」


 閉店した現在だからこそ、晶はふと気になった。


「えっ、今さらですか? ……ただの心変わりですよ。チーフと一緒に居て、気持ちがだいぶラクになりました。マジで感謝しています」

「そうか。それはよかったな」


 ふたりに具体的に何があったのかを知りたいが、天使に訊ねるのはいやらしい気がしたので止めた。帰国後、姫奈から話を聞くことにした。


「それに……クリスマスに、好きな人にコクるつもりなんで!」

「……が、頑張れよ」


 ちょっと待て。その相手は姫奈なのか?

 この流れでその質問は充分に可能であったが――驚いた晶は冷静を装い、咄嗟に応援の言葉を選んだ。

 結果的に、その選択は正しかった。もしそうだとしても、告白を妨げる権利は自分には無い。何を言っていいのか分からなかった。

 それに、姫奈が天使になびくことなど絶対に無いと、晶は自分に言い聞かせた。


「よし。あとの戸締まりは私がやっておくから、先に上がってくれ」

「わかりました。お疲れさまです!」


 天使が店から出ていくのを確認してから、晶は髪を解いて、テラスで煙草を一本吸った。

 その後、スタッフルームでエプロンを脱いだ際に『master A.Sumikawa』と書かれた名札が目に入った。

 中には正体や事情を知る者はいるが、店内や従業員相手には姫奈の姉の『澄川晶』として通している。随分昔に姫奈とふたりで決めた『設定』だった。


 ――まるで、お前と結婚したみたいじゃないか。


 確かに、最初はそう思った。あの時はまだ、笑い話で済んだ。

 そんな昔のことを、ふと思い出したからだろうか。


「……」


 愛する人と名字が同じである意味を、晶は今一度考えた。



   *



 姫奈が居ないのでラーメン屋で夕飯を済ませ、晶は帰宅した。

 風呂でよく身体を温め就寝の準備をすると、寝室に直行しベッドに倒れ込んだ。

 ひとりだから、八畳の寝室が広く感じた。ひとりだから、キングサイズのベッドがとても広く感じた。


 携帯電話を手に取った。

 姫奈とメッセージアプリでのやり取りはあるが――晶は、姫奈の声が聞きたかった。

 おそらく、姫奈の居る所は日中だろう。現在は何をしているんだろう。

 電話帳から姫奈のページを開いた。しかし、通話ボタンを押さずに閉じた。


『無事に乗り切れてるから、店の心配はするな。おやすみ』


 代わりにメッセージアプリでそう送信すると、携帯電話をスリープモードにして無線の充電台に置いた。

 寝室の明かりを消した。

 姫奈が居ないのに、ベッドの足元ではモカが丸くなって寝ていた。


 晶は、ラーメンを食べながら携帯電話で調べたことを思い出した。

 この国で改姓を行う場合、裁判所での手続きが必要らしい。さらに、よほどの理由でないと認められないため、改名手続きよりも難しいらしい。

 残念ながら戸籍上『澄川晶』を名乗ることは不可能に近いと知った。

 姫奈と戸籍を作ることもまた、この国では不可能だった。わかりきったことだった。

 これから何十年も、気持ちだけで、恋人という関係だけで、一緒に居なければいけなかった。


 ――本当に、居られるだろうか?

 バリスタとしての姫奈は、これからも海外に行く機会は増えるだろう。これまでも、有名なホテルやカフェからの姫奈への引き抜きオファーは何度かあった――本人が全て断ったが。

 姫奈の成長と若さ、そして姫奈との年齢差を、晶は感じることがあった。

 きっと、三十三歳という年齢のせいだろう。老いが、晶を少しだけ不安にさせた。

 若い存在の――天使の言葉も、頭から離れなかった。嫉妬、いや焦りに近い感情も込み上げていた。

 姫奈が自分の元から離れないことは、側に居る自分が一番よく知っている。しかし、年齢の距離があるため、不安はゼロでは無かった。


 姫奈を束縛したいわけではなかった。

 ただ、お互いの気持ちを確かめられる何かの『証』が欲しかった。

 戸籍が作れないから、パートナーシップ制度の認定を受ける――数日前に観たテレビニュースを、ようやく理解した。現在になり、羨ましくなった。


 晶はベッドで仰向けになり、薄暗い天井に右手を伸ばした。

 この指輪を嵌めて、もう八年になる。アクセサリーではなく、生活内の当たり前となっていた。


 そう。姫奈と一緒に居ることは、もはや生活での当たり前なのだ。

 それを恋人と呼ぶには、晶は疑問だった。

 一緒に生活を送りたい。一緒に歳を重ねたい。いつまでも、一緒に居たい。

 こうして八年間過ごしてきた関係を――そして、これからの関係を、改めて形にしたかった。

 晶はようやく、それを恋人ではなく、どう呼ぶべきなのかを理解した。

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