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胸を張って歩ける日まで  作者: 未田
特別編
109/113

第九十二話

 新宮天使(しんぐうあんじぇら)のインターンが始まってから二週間。

 澄川姫奈は言葉通り責任を持って、彼女の面倒を見ていた。


 チーフとしてアルバイトの新人教育を何度も行ってきたが、それらとは事情が違った。姫奈本人が進言した通り、あくまでもインターンシップである。技術の習得が主旨ではなく、職場の雰囲気を感じて欲しかった。

 雑用のみ、かつ無給という条件のため、続くか辞めるかは姫奈の中で五分五分であった。

 しかし、毎日夕方になると天使は落ち着いた私服姿で訪れ、食器洗いや客席の後片付けを嫌な顔をせずこなしていた。

 やる気に満ちていることを、姫奈は身近で感じていた。

 ――そして、彼女から熱い眼差しを向けられていることも。


「あんちゃんは、わたしのどこがカッコいいと思ったの?」


 その日の閉店後、姫奈はキッチンで備品の在庫管理を行いながら、マグカップを洗っている天使に訊ねた。

 そろそろ彼女の熱意に向き合おうと思った。


「へ? ……初めてここに来て、コーヒー淹れてる姿を見た時、一目惚れしました!」


 突然振られて天使は一瞬きょとんとなるも、ハキハキと答えた。


「一応言っておくけど、わたし付き合ってる人いるよ?」

「一目惚れって言ってもそういう意味じゃなくて……ガチでカッコいいと思ったんです! こんな人になりたいなっていう、憧れです!」


 姫奈は右手を軽く振って指輪を強調するも、その回答を確かめ、ひとまず安心した。

 天使が一般客として訪れていた時から、姫奈は彼女の視線に気づいていた。

 恋愛経験は乏しいが、その視線に恋愛感情は込められていないことは、なんとなく分かっていた。だから、その答えに嘘偽りは無いと思った。


「それじゃあ、一度コーヒー淹れてみようか」


 とはいえ、姫奈は天使の言うことが漠然であり、最終的な目標が今ひとつ掴めなかった。

 彼女の掲げる理想像を叶えようと、そう提案した。


「えっ、いいんですか? あたし、雑用だけじゃ……」

「練習というわけじゃないよ。わたしが飲みたいだけだから、淹れてみて」


 姫奈は夜にカフェインを摂りたくないので、カフェインレスのコーヒー豆を挽いた。

 マグカップにドリッパーを直に置き、湯をケトルに入れ、最低限の準備を行ったうえで天使に振った。


「わたしのことずっと見てるの、知ってるんだからね? 何も言わないから、ひとりで淹れてみなよ」

「は、はい!」


 天使はドリッパーにペーパーフィルターを敷き、その上に挽いた豆を均した。

 そして、肩が張るほど緊張しながら、真剣な表情で湯を少し注いだ。

 約一分蒸らした後、ドリッパーに二度湯を注いだ。二度目は完全に湯が落ち切ってからであった。


「ど、どうですか?」

「合ってるところもあるし、間違ってるところもあるよ。……まあ、及第点かな」

「ありがとうございます!」


 姫奈はマグカップのコーヒーを飲んでみたが、風味が物足りなかった。

 とはいえ、動作自体は全くの的外れではなかったのが、救いだった。何も教えていないのに、よく観察していると思った。


「それで――完璧にコーヒー淹れることが出来たら、カッコいいの?」

「うーん……。なんていうか、余裕があって手慣れた感じのチーフがすっごくカッコいいんですよ……」

「そりゃ、何年もコーヒー淹れてたら誰だって慣れるよ。わたしで何年だろ……八年?」

「えっ、そんなにですか? やっぱり、大ベテランじゃないですか」


 姫奈自身、改めて数えると、バリスタとして長い時間を活動してきた実感が湧いた。しかし、まだ人生の三分の一ほどだと思うと、短く感じた。

 長いようで短い――姫奈にとってはまさにそれだが、何にしてもあっという間の八年間だった。

 それほどまでに、充実した日々だった。


「あんちゃんは、コーヒーとかカフェラテとか好きなの?」


 ふと、姫奈は訊ねた。


「正直、ここに来るまではあんまりでしたけど……最近はチーフや皆さんを見て勉強するぐらいには好きになりました!」

「それはよかった……。わたしはね、別に大して好きでもなかったんだ。たぶん現在でも、そうだと思う」


 姫奈は苦笑しながら、本音を漏らした。

 この気持ちは、八年前から変わらなかった。


「ええ!? なんか、衝撃的なんですけど! バリスタのコンクールで入賞していましたよね!?」

「確かにそうだけど……。あんちゃんぐらいの歳だったかな? ここに来る前、小さなお店でバイトを始めてね……。最初はお客さん全然来なかったんだけど、独学で試行錯誤していたら、段々来るようになってね……。それが嬉しくて、また頑張って……その繰り返しだったなぁ」


 EPITAPHと呼ばれるカフェでアルバイトを始めた頃を思い出す。

 現在も――晶と客を増やすことが、店を大きくすることが、楽しかった。やり甲斐があった。バリスタとしての実績もその延長であり、コーヒー自体が好きというわけではなかった。


「わたしの場合、打ち込めるものが偶々これだっただけ……。学生だったら勉強や部活もあるわけだし……あんちゃんも、夢中になるぐらい打ち込める何かが見つかるといいね」


 姫奈は天使に微笑んだ。

 チーフバリスタではなく、ひとりの大人として子供に向けた助言だった。

 ――八年前、眼鏡をかけ始めた頃の自分が欲しかった言葉でもあった。


「あたし、学校に好きな人が居て……それでも、自分に魅力が無いから自信が持てなくて……だから、チーフみたいになりたくて……」


 派手な化粧をした少女は、不安そうな表情で、少しずつ言葉を吐き出した。

 少女の告白に、姫奈は驚かなかった。この部分でも、かつての自分と似ていると思った。


「何かに一生懸命な人は、きっと素敵に見えるよ」

「は、はい! あたしも、打ち込める何かを探してみます!」


 姫奈は天使の頭を撫でた。

 不安だった表情は消え、天使はやる気に溢れた真っ直ぐな瞳で、姫奈を見上げた。

 悩める少女を諭すことが出来て、姫奈も嬉しかった。



   *



 平日の昼間、客がまだ少ない時間を見計らい、姫奈は店のテラス席を閉鎖した。

 ウッドデッキには椅子とテーブルの他、大型の焙煎機が設置されていた。それを動作させた。

 姫奈は週に何度か、コーヒー豆の焙煎を行っていた。店で使用する他、店頭での販売もしていた。そちらの売上も好調だった。


 焙煎機自体の音もコーヒー豆を撹拌する音も、非常にうるさかった。コーヒー豆の濃い匂いも、河辺に広がっていた。

 始めた当初は近隣からの苦情が心配だったが、この五年間は寄せられたことが無かった。それどころか、この音と匂いが良い宣伝になっていた。

 現在も、店内からの物珍しい視線を集めていた。


「もうすっかり寒くなってきたな」


 ふと扉が開き、晶が姿を現した。

 十一月半ば――外は寒かったが、焙煎機からの熱が暖かかった。

 晶は焙煎機に手をかざした後、ウッドデッキの隅に移動した。

 コーヒー豆の濃い匂いに混じり、微かに煙草の匂いがしたのを、屈んで焙煎機に目を落としている姫奈は感じた。


「ここで吸うなとは言いませんけど、くれぐれもお客さんに見つからないように注意してくださいね」


 焙煎機の騒音に負けぬよう、姫奈は大声で話した。


「ああ。気をつけてる」


 晶の立っている所が店内からの死角だった。しかし、店内は全席禁煙を謳っている以上、マスターの喫煙が見つかれば言い訳が出来ないほどの失態になる。


「今年もそろそろ、フランボワーズブランモカの準備を始めますね」

「もうそんな季節か……。去年と同じか? 念のため、発注する材料を確かめておいてくれ」

「はい。わかりました」


 フランボワーズブランモカ。毎年、ホリデーシーズンに販売している期間限定のメニューだった。

 ホワイトショコラのカフェモカに、ラズベリーのソースと果肉をかけたものだった。白と赤で、クリスマスを彷彿させた。あとは緑色さえあれば完璧だが、それらに合う緑色の材料は見つからなかった。


「それで――天使(てんし)ちゃんはどうだ? コキ使ってるか?」

「あんじぇらちゃん、ですよ。まさに現在、手伝って欲しいぐらいです」


 焙煎機もコーヒー豆の入った袋も重いため、力仕事であった。

 近隣からの苦情が無いとはいえ、焙煎作業は日中にしか行わないため、新宮天使のアルバイト時間とは重ならなかった。


「若いって、いいですね……。悩んでもがく姿が、なんだか眩しいです」

「まだ二十歳そこそこの小娘が、何言ってるんだ。そういうのは、私みたいに三十超えてからにしろ」

「わたしは誰かさんのせいで、だいぶ早くに悟りましたから……。中身はとっくに三十オーバーですよ」

「それは違いない。私より老けてるかもな」


 晶のケラケラ笑う声が聞こえた。

 現在、晶は三十三歳であり、姫奈は二十三歳だった。晶が実年齢に対して若く見えるように、姫奈も店の開業からの五年は、お酒を嗜む以外は特に変化は無かった。

 大学を卒業した同級生から、社会人一年目で大変だという声を今年はよく耳にしていた。

 もし別の道を歩んでいれば自分もそうだったんだろうかと、姫奈は思う。しかし、現在と違う道が全く想像出来なかった。

 そう。この道を歩くと決めたあの時から――迷いは無かった。


「昔のわたしは、晶さんに憧れていました。晶さんみたいになりたいって、思ってました」


 何事にも動じず常に堂々としていた小さな女性が、姫奈にとって憧れだった。

 あの時は強い部分しか見えていなかったが、それでも彼女のように胸を張っていたかった。


「そういえば、お前そんなこと言ってたな……」

「最初に思ってたのとはちょっと違いますけど、理想の自分にはなれました」


 晶のように凛とした雰囲気は出せないとはいえ、何に対しても恥じることの無い自分になれた。

 この結果に、姫奈はとても満足していた。


「だから、次はわたしの番です。あの子がわたしに憧れるなら、わたしが手助けをしてあげます」


 目標を定めてもがいている姿に、かつての自分が重なっていた。放っておけなかった。

 自分に晶が必要だったように――天使には自分が必要なのだと分かった。

 姫奈は焙煎機から顔を上げると、晶が吐息を漏らすように微笑んだ。


「お前も成長したな……。私はとやかく言わないから、お前の思うようにやってみろ」

「はい!」


 姫奈は頷くと、改めて決意した。

 ひとりの大人として、手本になる存在になろうと――

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