第九十一話
河沿いのカフェ『stella e principessa』の開業から五年が経過した。
多種多様な店舗が立ち並んだ立地であることから、買い物客が休憩に立ち寄るところから始まった。
居心地の良さと飲み物の評価は瞬く間に世間へ広まり、雑誌やテレビ番組の取材が何度か訪れた。そして、澄川姫奈のバリスタ競技会入賞の実績で、名実ともに『人気カフェ』としての地位を築き上げた。
通りがかった買い物客が窓越しに空席の確認をするも、残念そうに通り過ぎる様子は――店内からの日常風景となっていた。中には、引き返して持ち帰りで飲み物を購入する客も居るが。
定休日の火曜日を除き、曜日や時間を問わず、午前九時から午後八時までの営業時間中は常に客が訪れるほどであった。
その忙しさに、店主の天羽晶はいつの間にか慣れていた。
必要な人数の従業員を雇い、シフト勤務を組み、かつ店の品質を維持したうえで利益を出す。センスとこれまでの経験から、見事な経営を行っていた。
十一月。徐々に寒さを感じる季節だった。
晶は事務仕事が大半となっていたが、状況次第で店内の助っ人に入っていた。
ここ最近の夕方は、客の離れた席を整えながら店内の様子を確認することが多かった。
――だから、その客が今日も訪れていることに気づいた。
入り口のレジで注文を待つ客の中に、ひとりの学生が居た。
ピンクの入った明るいブラウンのミディアムヘアは、ウェーブ状に巻かれていた。学生服を着崩し、派手な化粧を施していると遠目からでも分かった。
この街では珍しくない姿の学生だが、そわそわした様子が晶の目を引いた。
レジ頭上のメニューを眺めているようだった。しかし、実際のところはキッチンのバリスタを確認しながら順番を調整しているのだと晶には分かった。
キッチンにはふたりのバリスタが、注文を受けた飲み物を作っていた。丁度、長身で黒髪ショートボブのバリスタに当たるタイミングを図り、少女はレジの列に並んだ。
その狙い通り、少女は商品受け取り口で、目当てのバリスタから飲み物を受け取った――満面の笑みと共に。
そして、窓際のカウンター席に腰掛け、キッチンを眺めながら時間を過ごしていた。
このような光景を、晶は何度か目にしていた。
――キッチンを眺める少女の瞳にどのような感情が込められているのか、分かっていた。
晶は、あまりにも長居する客にはわざとらしくテーブルを拭いて退かせていた。
同じような衝動に駆られるが――正当な理由が見つからないので、ぐっと我慢した。
その代わり、キッチンに入り、黒髪ショートボブのバリスタの肩をぽんと叩いた。
「お前な――」
――どの客に対しても笑顔で応じるのは、やめろ。
晶はそう言いかけるも、冷静さを取り戻し、口を閉じた。
「どうしました?」
「いや……何でもない……」
澄川姫奈は、きょとんとした表情で首を傾げた。
晶は帰宅後にあの少女の事を話そうかと思った。しかし、いい歳の大人が子供相手に嫉妬するのは恥ずかしく、気にしないでおこうと流した。
思えば――この時から既に、嫌な予感はしていた。
*
数日後の夕方。
晶は店内の様子を確かめようと、スタッフルームでの仕事を一旦切り上げた。
立ち上がろうとした丁度その時、扉が開いた。
「マスター、すいません」
ひとりのアルバイトの女性が、困った表情で部屋を覗き込んだ。
「どうした?」
「この子が、どうしてもバイトの面接を受けたいみたいで……」
アルバイトの傍らには、ひとりの少女が立っていた。
明るい髪色と派手な化粧、着崩した学生服――晶がこの時間、よく目で追っていた人物だった。
「わかった……。話をするから、お前は仕事に戻ってくれ」
晶は頭を掻きながら、少女とふたりきりになった。
アルバイトの彼女が困った表情をしていた理由は分かっていた。それを踏まえて断ろうと、晶は思った。
怒りに似た感情が込み上げたが、我慢した。ここで怒鳴って追い返せば、店の評判を落としかねない。
子供とはいえ、アルバイトの面接を受けにきたとはいえ、従業員でないのなら客なのだ。冷静に説得し、納得させたうえで引き取って貰わなければならない。
「まあ、座れ」
晶はパイプ椅子を対面に並べ、少女と向き合うように座った。
少女は肩が張り、緊張した表情だった。
イメージと違って柄にも無いなと、晶は思った。
「せっかく面接に来たのは山々なんだが――」
「これ、履歴書です!」
最後まで人の話を聞けよ――晶は呆れるも、学校鞄から取り出された履歴書を受け取った。
目を落とすと、氏名欄には『新宮天使』と書かれていた。
氏名ではないような響きの文字列に晶は親近感を少し覚えるも、振り仮名を見て驚いた。
名字の『しんぐう』という読みは、思った通りだった。問題は名前の方で『天使』の上に『あんじぇら』と書かれていた。
「お前――」
――これは冗談のつもりか?
喉まで出かかった言葉を、晶はなんとか飲み込んだ。このご時世に名前を貶す発言はいけないと、倫理観が抑止した。
ふざけた名前は紛れもなく本名なのだろう。信じ難いが、そう思い込んだ。
かつて、履歴書の氏名で大笑いをしたことが一度だけあった。
あの時と同じような衝撃を受けたが、今回は笑うに笑えなかった。むしろ、苦労してそうだと勝手に思い、哀愁を誘った。
「新宮……か」
「はい!」
名前には触れてはいけないと思い、ひとまず名字だけを確かめた。
十七歳の高校二年生だった。晶は学校名に疎いため、知らない高校だった。
履歴書右下の志望動機欄には大きく『お姉さんに憧れて!』と書かれていた。
今までの面接では、店の感想や自分の都合が書かれていることがほとんどだった。このような動機を、晶は初めて見た。
「ここに書いてあるお姉さんって、誰のことだ?」
しかし、客として訪れていた様子から、どのような意図であるのか大体分かった。
正直に書かれていると思いながら、晶は確認の意味で訊ねた。
「ほら、あの人ですよ。背の高くてショートボブの……名札は確か……あれ? マスターも『スミカワさん』ですか?」
「あれは私の妹だ」
名札を覗かれ、晶は呆れて答えた。
思っていた通りだった。他の従業員の名札を見ていないほど、天使はひとりの人間しか見ていなかった。
やはり、客として訪れていた時から、この志望動機と同じ気持ちだったのだろう。
晶は腕を組み、シルバーゴールドの指輪が嵌った右手薬指をわざとらしく動かすが、天使は特に反応しなかった。
「お疲れさまです」
ふと扉が開き、マグカップを持った澄川姫奈が現れた。
晶は壁の時計を見て、休憩に訪れたのだと理解した。
――そして、よりにもよって最悪のタイミングだと思った。
「この人ですよ、マスター! お姉さん、はじめまして!」
天使はパイプ椅子から立ち上がり、礼儀正しく頭を下げた。
状況が飲み込めず首を傾げる姫奈と、晶は目を合わせた。
「確か、よく来てくれるお客さんですけど……何かあったんですか?」
「それがだな――」
「あたし、面接に来ました! お姉さんと一緒に働きたくて!」
姫奈との間を天使に割って入られ、晶は少し苛立った。
それを察したのか姫奈は苦笑しながら、パイプ椅子を運び晶の隣に座った。
「よくわからないけど、ウチのバイトは高校生不可だよ?」
「……え?」
「というか、今はバイト自体募集してない。求人の貼り紙だって無いはずだ」
「ええー!? そんなの知りませんでしたよ! そういうことは、もっと早く言ってくださいよ!」
うるさく驚いている天使に、晶は怒る気にもなれなかった。
隣の姫奈を見上げ、助けを求めた。
「休憩のところすまないが、後は任せた」
「はい。えーと……あんじぇら!? 天使って書いて、あんじぇらちゃん!?」
履歴書を覗いた姫奈は、わかりやすく驚いた。
「わぁ……素敵な名前だね。あんちゃん、になるのかな?」
「はい! 学校の友達からも、そう呼ばれてます!」
姫奈が本心で素敵だと思ったのか、わからない。
しかし、まるで模範解答のような対応だと、晶は素直に感心した。
「それで、あんちゃん――私と働きたいって、どういうこと?」
「あたし、お姉さんに憧れてます! お姉さんみたいにカッコいい女になりたいです!」
「へぇ……」
姫奈はマグカップの飲み物を一口飲んだ。
カフェラテの匂いが漂う中――少女の真っ直ぐな瞳と言葉に、晶は既視感や懐かしさがあった。遠い昔、小さな店で感じたものだった。
どこか遠くを見つめるような姫奈の横顔から、チーフバリスタもきっと同じだと晶は思った。
「そうは言っても……今回は申し訳ないが、ご縁が無かった。高校卒業して、かつ求人案内があったら、また来てくれ」
「マスター。バイトはダメでも、インターンじゃダメですか?」
「は?」
お引き取り願おうとしたところ、姫奈からそう提案された。
インターンシップ。晶は意味を知っていたが、この業界では滅多に聞かない言葉だった。
姫奈からも、真っ直ぐな瞳を向けられた。かつて自分がそうであったように――次は自分がその気持ちを汲みたいのだと、晶は理解した。
「社会勉強というか、お仕事体験みたいなものですよ。わたしが面倒見ますけど、やらせるのは雑用だけ。期間は、そうですね――年内いっぱい。……こんな感じでどうですか?」
「まあ……客の迷惑にならないのなら、構わないが……」
具体的かつ妥当な案をすぐに出され、晶は飲むしかなかった。私情ではそれでも嫌だったが、断る理由にはならなかった。
そう。あくまでも、憧れ――
現在のところの真意は分からないが、天使からの自己申告を信じるしかなかった。
二ヶ月も無い中、その感情が別のものにはならないと思った。それに、姫奈もきっと阻止すると信じた。
「あんちゃんは、それでいい? インターンだから、お給料は出ないけど……」
「はい! お世話になります!」
出された提案に、天使はふたつ返事で頷いた。
姫奈は満面の笑みを浮かべていた。
――無給のことを最後にもってきたのは偶然だと、晶は思いたかった。
「エプロンは貸すから、小綺麗な服装で来い。わかってると思うが、インターンのことはくれぐれも他言無用な。他に来られても困る。それから――」
従業員同士の恋愛は禁止――
そのような就業規則は無く、また自分が該当してしまうため、晶は飲み込んだ。
「それじゃあ、よろしくお願いします! 皆さんの迷惑にならないように、頑張ります!」
天使は深々と頭を下げた。
晶の第一印象は『容姿によらず真面目そう』だった。しかし、評価が相対的に上がるわけではなく『おかしな奴』に落ち着いた。
これからのことを考えると、晶はなんだか調子が狂った。
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