第90話(最終話)
「晶さん――」
自分の名前を呼ぶ声で、晶は目を覚ました。
「晶さん、そろそろ起きてください!」
最愛の女性がベッドの横で屈み、顔を覗き込んでいた。
ぼんやりとした頭で――晶は手を伸ばし、女性の頬に触れた。柔らかく温かい感触を確かめた。
「……何してるんですか?」
「いや……なんとなく……」
女性は頬の手を払わず、呆れた目を向けた。
晶自身、この行動が理解できなかった。どうしてか、触れてみたいという衝動が込み上げていた。
夢を見ていた。
夢の内容は思い出せないが、なんだか懐かしい余韻だけが残っていた。
「今日がどれほど大切な日か、わかってます? 熟睡できるなんて、信じられませんよ」
「そう言われてもな……何を身構える必要があるんだ? 忙しくなるんだから、身体は休めておけ。というか、お前はもうちょっと肩の力を抜け」
「気持ちの問題です! 晶さんはもうちょっと緊張感を持ってください!」
レースのカーテン越しに差し込んだ春の陽射しが、怒っている女性の顔を照らしていた。
先日、高校卒業を機に黒髪のショートボブヘアーにしていたが、晶にはまだ新鮮に見えた。
髪型も顔つきも、すっかり大人びたものだった。
――それでも、晶の中では『少女』の一面がまだ残っていた。
晶は、女性を抱き寄せ、キスをした。
「かわいい」
「子供扱いはやめてくださいって言ってるじゃないですか!」
「好きだ」
「わたしも好きですけど、朝っぱらからはダメです!」
六畳の狭い寝室に、女性の大きな声が響いた。
ここへ引っ越してまだ日が浅いが、熟睡できるということは居心地は悪くないのだと晶は思った。
いや――この女性と暮らすのなら、どこであろうときっと天国なのだ。
首筋へのキスを止められたところで、観念して上半身を起こした。
「おはよう……」
「おはようございます!」
挨拶と共に――澄川姫奈は微笑んだ。
狭いリビングへ行くと、姫奈がふたり分のトーストとコーヒーを用意した。
晶は姫奈と朝食を摂りながら、壁のカレンダーに目をやった。
四月一日が赤い丸で囲まれ、姫奈の文字で『開店!』と書かれていた。
「いよいよか……」
まるで他人事のように、晶はぽつりと漏らした。
確かに今日は新たな門出の日だが――姫奈に怒られた通り、晶にはやはり緊張感が無かった。
「そうですよ。いい感じにスタートダッシュを切れたらいいんですけど……」
「私はな、姫奈――緊張感が無いんじゃなくて、楽しみなんだよ。三年間のノウハウがどこまで通じるのか、わくわくしているんだ」
EPITAPHは昨日、閉店した。
約三年間の営業だったが、二年目以降は黒字と赤字が不安定な状態だった。あの立地の悪い環境で黒字化に転じた経験が、晶に経営者としてのさらなる自信を与えた。
そして、最高のバリスタを抱えていることが、最大の武器であった。
姫奈は高校在学中に民間のバリスタ資格を取得し、名実共にバリスタを名乗っていた。これからも夜間の専門学校でカフェに関する勉強をし、コーヒーに関する他の資格も取得する予定であった。
「わたしと晶さんだけなら大丈夫なんですけど、他の人が……」
「あー……。研修は済んでいるんだから、信じてやれ」
EPITAPH最後の一ヶ月は、他にもアルバイトを三人雇った。ひとりずつ一緒に働かせ、最低限の業務教育は行った。
アルバイトの中では教育係の姫奈が最年少であったが、そうとは思えない貫禄があり、他の皆から尊敬されていた。
「まだキャリアが足りない内は頼りないし、ヘマをするかもしれない。でも、お前だって最初はそうだったんだから、私達でちゃんとフォローしていこう」
「そうですね……」
甘酸っぱい過去を思い出したのか、姫奈は苦笑した。
朝食を済ませると、晶は洗面所に向かった。
鏡に映った自分の姿は、プラチナベージュのロングヘアーだった。
数ヶ月前にあるテナントの賃貸契約をした頃から、髪を伸ばし始めた。伸び切った現在となっては、過去を思い出す、懐かしい風貌だった。
どういう心境の変化だったのかは、晶自身わからなかった。なんとなくだった。
これからの願掛けのようなものなのか――それとも、時間が『アイドル天羽晶の死』を風化させたのを感じたのか――
髪色を変えなかったのは、後者を意識してのことだった。これがせめてもの、晶なりの変装だった。
あと何年かかるのか分からないが、世間から忘れ去られるまでは、まだ何らかの変装が必要だった。
長い髪が、自分の小さな身体を際立たせた。
この身体で二十八年間生きてきたように、これからも精一杯生きてやると、晶は鏡の自分に向かって挑発的に笑った。
たとえどれだけボロボロになろうとも――現在はまだ、立ち止まれなかった。
洗面と化粧の後、アイボリーのブラウスとブラウンのマキシスカートに着替えた。その上から、オフホワイトのフード付きパーカーを羽織った。そして、右手首にチェーンブレスレットを着けた。
姫奈は白色のシャツに黒色のスキニーパンツ、ベージュのロングカーディガンといった格好だった。
「よし。それじゃあ、行くか」
「はい!」
身支度を済ませ、晶は姫奈と共にアパートを出た。
幸いにも空は晴れ渡り、春らしく暖かな天気だった。
終章
『ふたりの夢を叶える日まで』
自宅から徒歩で約十五分。
市街地からやや外れた河沿いに、多種多様な店舗の立ち並んだ区画があった。
その中のひとつ――カフェが、本日開業しようとしていた。
晶はロッカーの並んだスタッフルームで、パーカーからカーキのエプロンに着替えた。そして『master A.Sumikawa』と書かれた名札をエプロンに付け、髪を結んだ。
スタッフルームを出ると、広い店内を改めて見渡した。
様々な人数に対応できるテーブル席やソファー席の他、河に面したテラス席を用意した。
壁はオフホワイトを基調とし、木材はライトブラウンで統一した。EPITAPH同様、落ち着ける空間作りを目指した色調だった。暖色の間接照明よりも、今日のような天気の良い日は広い窓からの陽射しが心地よかった。
真新しいキッチンの中、EPITAPHからの付き合いであるエスプレッソマシーンだけがやや年季が入っていた。
コーヒーはハンドドリップで提供するため、ずらりと並んだドリッパーとサーバーが目を引いた。
そして、出入り口すぐにあるレジの隣には、外注ではあるがケーキがショーケースに置かれていた。
姫奈とふたりで話し合い、立地も内装も理想のカフェを作り上げた。どの客にも必ず気に入って貰える自信があった。
レジと商品受け取り口は別れており、その間に姫奈を含む四人の従業員が並んでいた。
制服は店のロゴ入りエプロンのみで、その下は小綺麗であれば各々の自由だった。指定通り、全員が店の雰囲気を損なわない格好だったので、晶はひとまず安心した。
「よし! いよいよ、この店がオープンする!」
時刻は、営業開始時間である午前九時を迎えようとしていた。
「妥協はするな! 飲み物作りも接客も、常に全力で取りかかれ! 自信を持て!」
彼女達の前で晶は腕を組み、まるで軍隊の隊長のような物言いだった。
しかし、それこそが晶の忌憚なき言葉であった。始めるにあたり、どうしても伝えたい内容であった。
「いいか! 私はお前達を誇りに思う! だから、お前達も私とこの店を誇りに思ってくれ! ――思えるようにしてくれ!」
従業員は全員、晶の言葉に頷いていた。
白けてもいい内容だが、この気持ちを受け取って貰えたと、晶は確かな手応えを得た。
「目指すは世界一じゃない! 宇宙一のカフェだ!」
晶はニカッと笑った。
バカげたことを口にしているという自覚はあった。
だが、あの時からこの心意気で、ここまでやって来た。これからも大切にしたい夢だった。
自分と誰かを信じる気持ちと――そして、決して立ち止まらないために――
「――マスター、時間です」
姫奈に言われ、晶は出入り口の扉に歩き出した。
レジの後ろの棚には――青色と橙色のふたつのハーバリウム、そしてターコイズブルーとパステルイエローのふたつのマグカップが飾られていた。
扉の横には、匿名だが赤い薔薇と白百合の開店祝花が置かれていた。
それらに目を移すと、晶は扉の取手に右手を置いた。
「チーフ。こっちに来てくれ」
しかし、ひとりでは押せなかった。
振り向かずに姫奈を呼ぶと、すぐにやって来た。背後からそっと手を重ねられた。
姫奈の右手首には腕時計が巻かれていた。自分の手首では青い宝石が揺れていた。そして、重なったふたつの手にはシルバーゴールドとローズゴールドのペアリングが嵌っていた。
重ねられた手の温もりを感じながら、晶は思う。
ふたりで理想のカフェを作り上げた。ここまで三年の時間を要した。
かつてふたりで語り合っていた夢を、こうして叶えた。
だが、まだ終わりではない。
「わたし達ならきっと、宇宙一を目指せます……」
姫奈から耳元でそっと囁かれた。
「当たり前だろ!」
ふたりで、扉を開けた。
そう。この扉を開けることは、始まりに過ぎないのだ。
この先はきっと、長く険しい道だろう。楽しいことばかりではないだろう。
それでも、ふたりでなら歩いていけると晶は信じていた。
これまでがそうであったように、これからも――宇宙一のカフェを目指すという夢を叶える日までは。
ふたりで開けた扉の向こうには、明るく温かい世界が広がっていた。
晶は振り返ると、まずは扉が見えた。
扉には『stella e principessa』と店の名前が書かれていた。
その上には、店名を示す『ひとつ星と、ティアラを乗せた女性』のロゴマークも描かれていた。
そして、扉の隣で大切な人が微笑んでいた。
晶も笑みを浮かべ、ふたりで笑いあった。
胸を張って歩ける日まで
world and life
完
あとがき
https://note.com/htjdmtr/n/nbe22e28c712d
次回 特別編
新店舗の開業から五年。晶は姫奈との今後を考える。
(ハッピーEDの延長です)
今後の予定
12.24 特別編(長さ次第で23日も)
12.25 次回作の読み切り版(予告編みたいな感じ)
2022年春頃 次回作の連載開始




