第89話
四月一日。
午後六時半を回った頃、麗美はEPITAPHを訪れた。
店内では澄川姫奈が、ひとりで片付けをしていた。
「……」
キッチンの姫奈は一度手を止め麗美の姿を一瞥すると、再び作業に戻った。
麗美は姫奈の姿に、何か違和感を覚えた。
「ごめん……。コーヒー貰えるかな」
しかし、正体が分からぬままカウンター席に腰掛け、そう注文した。閉店しているにも関わらず、厚かましい態度だと自覚していた。
「……」
姫奈は断らず、無言でコーヒーを淹れ始めた。
最近の麗美はエスプレッソメニューばかりを飲んでいたので、姫奈のハンドドリップの姿を見るのは久々だった。
一年前は、まだ不慣れな様子だった。
しかし現在は、実に手慣れていた。
「うん、美味しい」
差し出されたホットコーヒーを一口飲み、麗美は率直な感想を漏らした。
「腕上げたね。昔よりも、味が良くなってるよ」
それもまた、素直に感じたことだった。
麗美の知る限り、どのカフェにも負けないほどの美味しいコーヒーだった。
「舐めないでください。私はこの店のバリスタです」
ようやく、澄川姫奈が口を開いた。
凛とした表情は、静かに落ち着きながらも――自信に満ち溢れていた。
コーヒーを淹れる動作といい味といい、バリスタを自称するだけの貫禄を麗美に感じさせた。
そして、麗美は姫奈が大人びたように見えた。最早、少女のようなあどけなさは無かった。とても十六歳には見えなかった。
たった一日だが、昨日とは明らかに雰囲気が違っていた。それが違和感の正体だった。
そうか、眼鏡を外したんだ……。ようやく、具体的な違いに気づいた。
しかし、眼鏡越しでもやや幼く可愛い顔をしていると、麗美は以前から思っていた。化粧を変えた様子もなく、眼鏡を外しただけでここまで雰囲気が変わるとは考えられなかった。
考えられるとするならば――彼女の中での大きな変化だった。
覚悟や決意が姫奈の顔つきを変えたのだと、麗美は理解した。
――その成長に、麗美には喜びよりも罪悪感が押し寄せた。
「晶はどうしたの?」
麗美はそれを表情に出さずに訊ねた。確認した。
昨日の一件。姫奈ひとりだけの店内。そして、姫奈の様子。
姫奈が眼鏡を外したように――天羽晶に何があったのかも、大体の想像はついていた。
「知りませんよ」
姫奈は素っ気なく、そう答えた。
本人は感情を押し殺しているつもりだが、漏れた苛立ちが――自分に対しての怒りが、麗美に伝わった。
姫奈の口振りから、晶は黙って姿を消したのだと、麗美は確信した。
「晶の行きそうな所は心当たりあるけど……」
「結構です」
昨日の一件から晶は一栄愛生の墓地、またはその近くに向かったのだろうと思った。
勿体ぶって漏らすが、その先は姫奈から拒まれた。おそらく、彼女も察しているのだろう。
「あの人は必ず帰ってきます。強い人ですから。信じてますから」
言葉とは裏腹に、姫奈の表情は何とも儚げだった。
どこか遠くを見つめる横顔が、麗美には美しいとさえ思えた。完全には拭えない不安に抗っているのだ。
そして、罪悪感はなお膨れた。
「……ねえ。晶がどうして眼帯を着けているのか、わかる?」
姫奈が眼鏡を外したことから、ふと訊ねた。
晶本人から理由を直接聞いたわけではない。しかし、入院期間を含め長年の付き合いから、事情を察していた。
「……」
姫奈は何も答えず、麗美を睨んだ。
向けられた明確な怒りに麗美はふっと微笑むと、コーヒーを飲み干し立ち上がった。
「ごちそうさま。ありがとう」
晶の眼帯を外すのは、あんたの役目だよ――
その台詞は胸内に仕舞い、麗美はEPITAPHを後にした。
謝罪の言葉も同様だった。謝って楽になろうなど、虫のいい話であった。
そう。最後まで憎まれ役で居なくてはならない。
それこそが、少女を解散に巻き込んだ責任なのだから。
その決意が出来たのは『最後』が近い予感があったからであった。
麗美もまた、晶が自分の足で帰ってくることを信じていた。
――ふたりが素顔で笑いあえる日が訪れることも。
林藤麗美が澄川姫奈と和解するには、時間を要した。
天羽晶が再びEPITAPHのキッチンに立った頃、柳瀬結月と共に謝罪した。
確かに、かつての四人は解散した。
しかし、この四人は始まったばかりであった。
そして、二年の月日が流れた。
次回 終章『(二週間かけてもタイトルが決まりません)』




