第87話
三月三十一日の夜。
麗美はEPITAPHから出ると、結月と自動車に乗り込んだ。
ヘッドライトを点け、帰路を走り出した。
「……」
「……」
車内では互いに無言だった。
カーステレオも鳴らさず、自動車のエンジン音のみが重く響いていた。
ようやくやり遂げた――
麗美は達成感を味わいながら、ハンドルを握っていた。
二年前、天羽晶と一栄愛生の事故によりRAYは解散した。
しかし、あの突然の終焉に麗美は納得できなかった。悔やみきれなかった。
心の折り合いは時間が解決してくれるだろうと思っていたが、期待はしなかった。
そんな時だった――愛生の部屋を整理していると、晶へのプレゼントを発見したのは。
中身がコーヒーセットであることは、晶が以前話していた『引退後』を思い出し、愛生の意図を理解した。
これが晶の引退に際して必要であること。そして、愛生の気持ちが届かなかったこと。
この二点から、これを晶に届けた時――RAYは本当の意味で解散できると、麗美は折り合いをつけた。
いつ晶に届けるのが正しかったのか、麗美には現在でも分からない。
少なくとも事故から一年は、苦しんでいる晶にとても渡せなかった。
あの少女との出会いから一年――本格的にカフェを始めるにまで回復した現在、誕生日を見計らってようやく渡した。
泣き崩れた晶と、睨むように見上げた少女を、麗美は現在でも鮮明に覚えている。ほんの数分前の光景だが、脳裏に焼き付いて離れなかった。
後悔が無いと言えば、嘘になる。
「仕方ないじゃん……」
麗美は運転をしながら、ぽつりと漏らした。
こうなることは充分に予想していた。いくら晶が回復しようとも、受け止めきれないのは分かっていた。
だが、実際に目の当たりにすると、こうして逃げるように立ち去っていた。
――耐えきれなかったのは、自分自身だったのだ。
「ねえ……。これでよかったのかな?」
麗美は前方を見て運転しながら、助手席の結月に訊ねた。
「これでよかったのよ。麗美ちゃん、随分苦しんでいたじゃない……。それに……私だって麗美ちゃんと同じ気持ちよ。RAYをちゃんと終わらせたいのは麗美ちゃんだけじゃないわ」
淡々と口にする結月の表情を、麗美は分からなかった。
「……ただの自己満足だったのかな?」
あのふたりに辛い過去をぶつけたことを、申し訳なく思う。
「いいえ、違う――これはあくまでRAYのためよ。遅かれ早かれ、誰かがやらないといけないことだったのよ」
――それでも、許されたかった。
自らの行いも、こうして終わることも、誰かに許して欲しかった。
麗美はハザードランプを点けると、左方向の指示器を出して路肩に一時停車した。
現在の麗美には達成感と罪悪感、そして虚無感の三つが入り混じっていた。
いくら申し訳ない気持ちで果たしたとしても、後に残ったのは虚しさだった。
フロントガラスの隅に、月が見えた。丸い月が、ぼんやりと浮かんでいた。
二年前――結月と『契約』を交わした時のことを、麗美は思い出す。
笑いたいのに、笑えなかった。泣きたいのに、泣けなかった。あの時は、置かれた立場からそれらを我慢した。
きっと、あれからずっと我慢していたのだと思う。
我慢し続けた二年間――その結果がこれだった。
麗美は目の奥が熱くなるのを感じながら、シートベルトを外した。
もう我慢しなくてもいいんだ……。
両手で顔を覆い、溢れ出した感情を受け止めた。
「私は……私は!」
このような気持ちで解散を迎えるとは、二年前は思わなかった。
しかし、望んだ結末を確かに迎えた。
達成感だけならまだしも、罪悪感と虚無感の方が大きかった。このふたつに押し潰され、ただ涙を流した。
麗美は、助手席の結月から抱き寄せられた。その勢いで、結月の膝に倒れ込んだ。
まるで、小さな子供のように――結月の膝で泣きじゃくった。
「麗美ちゃんは頑張ったのよ……。やり遂げたのよ……。私だって嬉しいわ。ありがとう」
結月の感情の無い声が、麗美にはとても温かかった。
肯定する言葉が欲しかった。理解者が欲しかった。
そう。十一年間連れ添ってきたこの女性はかけがえのない仲間であり、麗美の唯一の理解者だった。
RAYを終わらせたいという思いも、事務所のことも――ずっと側で支えられていた。
「二年間、お疲れさま。だから現在は……存分に泣きなさい」
いつだって、欲しい言葉をくれた。
「RAYは今度こそ終わったのよ。麗美ちゃんは気持ちを切り替えて、新しい一歩を踏み出しましょう」
自分にとって、必要不可欠な存在になっていた。
「結月……。今までありがとう」
これこそが愛する気持ちなのだと、麗美は思った。
二年前に交わした『契約』ではない。互いの目的のために利用する『駒』ではない。
麗美にとって、柳瀬結月は心から欲する存在となっていた。ずっと側に居て欲しい存在となっていた。
この溢れ出す感情を受け止めてくれる人だった。
「私、あんたのことが好きだから! 今度こそ、ちゃんと愛してみせるから!」
だから、大切にしたいと思うのは至極当然だった。
ようやくRAYが解散した現在、麗美にとっての『新しい一歩』はこれだった。
「ありがとう、麗美ちゃん。私も心から愛しているわ……これからも、ずっとね」
頭を撫でられながら聞こえたその声は、麗美にとってとても優しいものだった。
EPITAPHから運転を始めて現在まで、麗美は結月の表情を一度も見ていなかった。
だから、結月の瞬きが何秒間隔であったのか、麗美には分からなかった。
しかし――少なくとも、結月の言葉は全て本心に聞こえていた。一片の疑いすら無かった。
どうしようもない結末に打ちひしがれた麗美は、結月に縋り、涙を預けた。
まるで、深い闇夜を月明かりに導かれて歩くかのように。




