第84話
仕事に対する誇りなど最初から無かったのだと、天羽晶は思う。
プロとして、トップアイドルとして――九年間続けてきたアイドル業を、事故をきっかけに引退した。身体が治れば続けることも可能だろうが、驚くほど簡単に諦めがついた。
未練は無かった。
晶にとって続ける意味が無かったのだ――事故により、最愛の人を失ったのだから。
「晶さんの人気は衰えることを知りませんね! この勢いがどこまで伸びるのか、見ものです!」
「まったく……どこまで伸びれば、お前は満足なんだよ?」
「うーん、そうですね……。国内は制した感じなんで、次に目指すは世界一ですね!」
「ははっ、世界ときたか。簡単に言うが、なってやるよ……お前のために。だから、これからも頼むぞ」
「はい!」
決して、自分のためではない。世界中の人間から認められても、きっと満たされない。
愛する人ひとりのために努力を続け、愛する人ひとりに認めて欲しかった。
それらが絶対に叶わなくなった現在、続ける理由が見出だせなかった。
そう。もしも、天羽晶の中に誇りというものがあるのなら――それは、特定の個人だった。
確かに仕事では頼りない部分はあるが、それでも晶にとってはとても頼りになった。誰よりも自分のことを理解し、誰よりも応援してくれた。
九年間、共に支え合ってきた仲だった。
胸を張って特別だと言える存在だった。
――しかし、それを失くした。もう二度と会える日は訪れなかった。
病院のベッドで目が覚めた時、晶は視界に違和感を覚えた。
折れた右腕は固定されていたが、左腕は動いた。左手で顔に触れてみると、右目を隠すように頭に包帯が巻かれていたのだと分かった。
それでも、どこか変だった。いくら目隠しをされているとはいえ、右目に僅かな光すら入る気配が無かった。
試しに左目を瞑ってみると――真っ暗な闇の中、左目のみぼんやりと光を認知した。
そして、右目から涙が流れていないことに気づいた。
それからすぐに、麗美と医者から右目のことを聞かされた。しばらくして頭の包帯が解かれても、右目で光を視ることはもう二度と無かった。
どうして、私だけが生かされたのだろう。
晶は、最愛の人と右目の視界を失くした現実を恨んだ。一緒に死ねなかった現実を恨んだ。
しかし、現実はどうにもならなかった。最愛の人の後を追うことは、周りが許さなかった。
「私はあの時、きっと死んだんだ……。お願いだ。私はもう、死んだ事にしてくれ」
だからせめて、世間では死んだことにしたかった。
最愛の人と誇りを失った現在、晶にとってこれが折り合いだった。
こうしてアイドル業から退いたが、決して気持ちは晴れなかった。
陰鬱な気分を薬で誤魔化している内に、時間と共に身体は歩けるほどに回復した。
その頃には、左目のみの視界に慣れていた。
いや――かつて両目で見ていた広い視界を忘れていた。もう思い出すことも無かった。
「この傷跡は、残してくれ……」
右胸、右腕、右股の三箇所に事故の大きな傷跡があった。
現代の医療技術では限りなく目立たなくすることが可能だったが、晶はそれを拒んだ。
気持ちの問題であった。この傷跡を敢えて残すことで、晶なりに擬似的な死を体現した。
それに――よほど肌を露出しなければ傷跡は見えないので、それを見る人物が二度と現れないことを悟った。
顔は不幸にも完治した。傷ひとつ無く、かつての美しさを取り戻した。
失くなった右目の眼球の代わりには、義眼が埋め込まれた。まるで本物のように精巧なもので、外観では、左右の目に違和感は無かった。
しかし、右目の虚無感が埋まらない感覚に、晶は嘔吐した。
そう。いくら紛い物を埋めたところで、結局は何も変わらないのだ。
右目がぽっかりと空いたように、誇りを失くした自分もまた空っぽなのだと感じさせた。
それを他者に見せたくないから、悟られたくないから――晶は、医療用眼帯で右目を隠した。
心に負った傷の精神療養には、およそ一年を要した。
まだ薬を手放せない状態だったが、ひとまず『一般人』としての生活を送れるまでには回復した。
「なあ。どこか人目のつかないところで、小さなテナントを借りてくれないか? 最後にカフェをやって終わりたい」
晶は麗美にそう頼んだ。
ひとりになってしまったが――かつての自分の夢を叶えたかった。期間は、約一年のみ。その後は実家に帰り、隠居生活に入るつもりだった。
「店の名前はどうする?」
「そうだな……EPITAPHがいい。確か、墓標という意味だ」
晶はたとえ一部だけでも、ファンと別れを告げられる場所が欲しかった。その目的としても、丁度いいと思った。
麗美から、彼女の住んでいたタワーマンションの一室と、近くのテナントを宛てられた。RAY解散後、麗美が結月と同棲を始めたと聞いた。以前からそういう関係の予感はあったので、特に驚かなかった。
晶はテナントを希望通りの内装にし、自身も髪をばっさりと切った。さらに髪を明るい色に染め、医療用眼帯を着けると――近寄り難い雰囲気であると自覚した。変装として、効果は充分だった。
四月になり、晶は店を開けた。
思っていた通り、客は滅多に来なかった。時々、かつてのファンが訪れ、店本来の機能は果たしていた。
インスタントのエスプレッソマシーンを使用していることもあり――自身が思い描いていた夢の景色とは何かが違い、一寸たりとも満たされることは無かった。
暖かな季節であるが、決して浮かばれなかった。退屈というより、生きた心地がしなかった。
だから、晶は擬似的な自傷として煙草に手を出した。自分の身体を害したかった。
その日の帰り道、いつものように煙草を一本吸おうと立ち寄った橙色の広場で――少女と出会った。
他に誰も居ない広場でひとり、まだ真新しい学生服に身を包んだ少女が膝を抱えて座っていた。ぼさぼさの長い髪と哀愁漂う背中が、晶の目を引いた。
「おい」
ある予感がして、思わず声をかけた。
「失恋でもしたか?」
正面に回ってその顔を見た時、予感は確信へと変わった。
顔が似ているわけではなかった。雰囲気が似ていたのだ――もうこの世には居ない、最愛だった人に。
「お前はこれからどうしたいんだよ?」
「分かりません……」
晶は、表情には出さなかったが、嬉しさに似た感情が込み上げた。久々の明るい気持ちだった。
「ついてこいよ。オシャレな店に連れて行ってやる」
この出会いが、始まりだった。
「好きな芸能人は?」
「すいません。テレビ全然観ないんで分からないです」
少女は芸能事情に疎く、結果的にRAY三人を知らなかったのは偶然であった。
晶は正体を隠し、一般人として接した。
そして、少女がアルバイトとして働きたいと申し出たのを受け入れた。
それからは、少女は晶の事情も店の事情も知ることなく、カフェとして機能させようと努力をした。
晶は最早面倒だと思っていたものの、少女のひたむきな姿に心を動かされた。かつてのあの存在を彷彿させていた。
しばらくして、少女に正体を知られると共に、身体の傷跡も見られた。それでもなお、晶は一般人として受け入れられた。
この頃は――晶はまだ、少女にあの人物の影を重ねていた。
それは次第に大きくなり、やがて恋愛感情へとなった。かつてあの人物に抱いていた感情の延長だと思っていた。
だが、それは明確に違った。そのことに気づいたのは、初めて意見が衝突した時だった。
そう。最愛だった人とは、こういう場面は絶対に無かったのだ。
あくまでも別人だと理解したうえで、それでもなお少女を必要とした。
EPITAPHと名付けたカフェは、最早本来の存在意義を失っていた。晶がかつて夢見たものとは少し違うが、忙しく働けることが、店が成長していくことが嬉しかった。大きい店への移転を考えるほどであった。
ふたりで過ごした日々を、ふたりで築き上げたものを――これからも大切にしたいと思った。
晶は少女への気持ちを橙色のハーバリウムと橙色のペアリングで示し、受け入れられた。
少女のことを愛した。
大切な人が側に居て、かつて夢見ていた仕事も順調で――晶は幸せだった。
自分の中は空っぽだったが、いつの間にか満たされていた。
季節は巡り、再び春がやって来た。
しかし、暖かな季節に胸を膨らませていた時、それは唐突に訪れた。
少女と出会って一年後――天羽晶は、一年前の気持ちを思い出した。




