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胸を張って歩ける日まで  作者: 未田
第30章『三月三十一日』
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第83話

 三月三十一日、木曜日。

 朝、姫奈は自宅の冷蔵庫から昨晩作ったガトーショコラを取り出した。

 仕上げとして、天面に粉砂糖をまぶし、その上にホイップクリーム、そして苺とブルーベリーを乗せた。さらにミントの葉を添え、晶へのバースデーケーキが完成した。味はともかく、見た目は悪くない出来だと思った。


 自分の誕生日の時には、晶が店売りを疑うほど立派なケーキを作ってくれた。あのようなものは姫奈には作れないので、背伸びすることなく、自身の腕での範疇で考えた結果だった。

 百円均一店で購入したケーキ箱に、ガトーショコラを仕舞った。

 着替えと化粧を済ませると、誕生日プレゼントの入ったショップバッグとケーキ箱を持ち、アルバイトに出かけた。



   *



「晶さん。お誕生日、おめでとうございます!」


 姫奈はEPITAPHの扉を開けると、開口一番、挨拶代わりに祝福した。

 開店準備をしていた晶は、一度手を止めた。


「そうか、今日で二十六か……。そろそろ歳取るのは嫌なんだけどな。ありがとう」


 晶は言葉とは裏腹に、照れ臭そうに微笑んだ。


「ケーキ作ってきましたよ! どんなケーキなのかもディナーが何なのかも、夜までヒミツです!」

「それは楽しみだ」


 姫奈はケーキ箱と、来る途中に購入した夕飯の食材を冷蔵庫に仕舞った。

 閉店後、晶の部屋で誕生日を祝うことになっていた。夕飯は――姫奈は悩んだ末、煮込みハンバーグを作ることにした。


「楽しみにしていてください!」


 姫奈はすっかり舞い上がっていた。

 愛する人の誕生日が自分の時以上に喜ばしいのだと、初めて知った。

 生まれてくれたことへの感謝。そして、晶が良い一年を過ごせるように、この日を心から祝いたかった。


 午後六時半。

 その日も不慮の出来事は無く、無事に店を閉めた。

 姫奈はこの後のことを楽しみに、キッチンの片付けをしていた時だった。


 扉が開き、麗美と結月が姿を現した。

 ふたりも晶の誕生日を祝いに来てくれたのだと、姫奈は思った。


「晶……。誕生日、おめでとう」


 しかし、ふたりの様子は明らかに変だった。

 麗美の消え入りそうな声に続き、ふたりは今にでも泣き出しそうな――泣くのを堪えているような表情だった。

 姫奈は、嫌な予感に襲われた。


「どうした? めでたいなら、そんな表情(かお)するなよ」


 晶も異変に気づいたのか、困ったように苦笑した。


「今日はね……晶ちゃんに、これを渡しに来たの……」

「現在のあんたなら、受け取れるよね?」


 結月は、両手で大事そうに持っていたショップバッグを差し出した。

 使い古されたような、年季の入ったものに姫奈には見えた。


「晶さん――」


 直感だった。

 ふたりが用意したものではないであろうプレゼントと、ふたりの様子から、中身は『よくないもの』だと姫奈は悟った。


 思わず呼び止めたが、晶はそれを受け取り、カウンターテーブルで袋の中身を取り出した。

 コーヒーサーバーとドリッパーのセット箱、コーヒー豆の袋、そしてターコイズブルーとパステルイエローのふたつのマグカップ――新品だと思われるそれらが、順に出てきた。

 最後に、ひとつの封筒が取り出された。封筒の中にはメッセージカードが入っていた。


 どうしてその贈り物なのかは、分からない。しかし、それらを誰が用意したのか、姫奈は理解した。

 何が書かれているのかは分からないが――メッセージカードを読んだ後に涙を流した晶を見て、確信を得た。

 テーブル席に置かれた、橙色のハーバリウム。その隣に並べられた黄色のハーバリウムに目をやった。


「晶さん!」


 姫奈はキッチンから晶の元へと駆け寄った。


「あ……ああ……」


 晶は泣き崩れ、床に座り込んでいた。左目からは涙が溢れ、医療用眼帯越しに右目を押さえていた。

 まるで、義眼の埋まっている右目が痛むかのように――

 姫奈も屈むと晶を正面から抱き締め、震える背中を擦った。


「――どうして!?」


 麗美と結月に言いたいことが、次々と浮かんだ。しかし、現在の頭ではとても整理が追いつかないため、その一言に込めてふたりを見上げた。


「一年前は、とても渡せるような状態じゃなかったよね……」

「事故の後に部屋を整理していたら、これが出てきたのよ」

「ずっと黙ってたのは、悪かったと思ってる。ごめんね……」


 ふたりは憐れむような表情で、交互に言葉を投げかけた。

 しかし、姫奈には所詮は言い訳にしか聞こえず、どうでもよかった。

 一年前に比べ晶の精神状態が回復したとはいえ――こうなることは、きっと分かっていたはずだ。後から発見したものでも、そのまま永遠に渡さないことが正しい選択だと、姫奈は思った。


「それでも――愛生さんの最後の気持ちを、汲んであげて」


 そう。これらは、一栄愛生が生前に渡せなかった贈り物だった。

 麗美と結月の手によって、二年越しに晶へと届けられた。


「落ち着いたら、ちゃんと誕生日を祝おう……。また来るね」

「晶ちゃん……」


 まるでこの場から逃げ出すように、ふたりは店を後にした。

 一方的に押し付けただけで随分勝手だと姫奈は思いながら、晶を介抱した。

 しばらくして、晶を一度立ち上がらせた。


「すまないな……。先に上がってもいいか?」


 俯いた晶の表情は分からないが、涙は一旦落ち着いたようだった。


「はい。残りの片付けはわたしひとりで大丈夫です。ぱぱっと終わらせて、すぐに追いかけます」

「いや……すまないが、今日はひとりにしてくれ……。明日には元気になってるから、ちょっとだけ時間をくれ……」


 晶の声には感情が無く、姫奈には不安だった。

 強引に押しかけてでも、側に居るべきだと思った。


「……わかりました」


 しかし、姫奈は晶の意思を尊重することを選んだ。

 自信に満ち溢れているにも関わらず、一栄愛生という人物に踏み込むにはまだ躊躇があったのだった。


「でも、わたしからの誕生日プレゼントだけは今日受け取ってください」


 姫奈はスタッフルームから、ショップバッグを持ってきた。

 呆然と立ち尽くす晶がちゃんと持てるのか、不安だった。だから、ショップバッグから小箱を取り出すと、晶のパーカーのポケットに入れた。


「誕生日、おめでとうございます。帰ったら、中を見てください」

「……」


 黙って頷く晶を、姫奈は扉まで見送った。

 その後、テーブル席に広げられたままの贈り物を、姫奈は全てショップバッグに片付けた。

 このまま捨てしまいたい気持ちで一杯だった。

 しかし、それを我慢して、スタッフルームの棚に仕舞った。


 折角の誕生日を祝えないのは残念だったが、それ以上に不安が強かった。

 それでも、明日には元気になるという晶の言葉を信じ、その日は店のシャッターを下ろした。


 結果として、姫奈の選択は誤りだった。

 否、どの選択が正しかったのか、後になっても姫奈には分からなかった。


 翌日、四月一日。

 澄川姫奈の前から、天羽晶は姿を消した。

次回 第31章『誇り』

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