16 レモーネの詫び状
俺は執務室で書類と格闘していた。
室内は恐ろしいほど静かだ。
これは本当の平和による静けさなんだろうか?
よく言うではないか、嵐の前の静けさ、と。
あの子供になったレモーネが、クマに襲われてからというもの、すっかり俺になついてよくいうことを聞く聞き分けのいい子供になっているのだ。
それはとてもいいことだ。
いいことなんだが、それが逆に怖い。
いや、怖くはない、怖くはないぞ!
しっかりしろ!ジン・フロスト!
あいつはこのまままともな人間に育てていくんだ!
体に力が入りすぎて、握っていた鉛筆をへし折ってしまった。
いかん、落ち着け。
窓の外を眺めて深く息を吐いた。
よし、OK、大丈夫だ。
たかが女一人に何を恐れることがある。
ポムピンが魔法の解除方法を探しているらしいが、あの様子ではそう簡単に見つかるはずがない。
あいつが元の大人に戻ることなどないだろう。
「ねえねえ、じぃじん。」
「うおわあっ!なんだお前か!急に話しかけるな!」
子供レモーネがいつの間にか俺のもとにやって来て、膝の上に登ろうとしていた。
抱えて膝の上に乗せてやったら、俺のほうを向くために体をねじってしがみついてきた。
「何の用だ、仕事の邪魔をするなといっているだろうが。」
「れもはじいじんとけっこんしないとしんじゃう。」
「そーかそーか、そいつは大変だな。」
何十回も聞かされたセリフだが、ばかばかしいので相手にしていない。
こいつは「結婚」するためにここへやってきたということは忘れていないようだが、死んでしまう、というのは子供らしい作り話なんだろう。
「でもさあ、じぃじんはれものこと、きらいだもん。だかられもはしんじゃう。」
ぎくり、としてしまった。
子供と言うのは本当に敏いものだ、俺がなるべくこいつを遠ざけようとしていることに気づいているんだろう。
嫌い、というよりも、苦手、なんだが。
子供にとっては同じなのかもしれないが。
あまりにも悲しそうにしているので、嫌いではない、と言ってやろうとして、慌てて口をつぐんだ。
このままこいつが俺のことが嫌になって離れていってくれたらいいじゃないか。
そうだ、そうすべきだ。
「でもれもはしにたくないから、きすして。」
「あのなあ、お前、相手が子供だからと言って俺がなんでもいうこと聞いてやると思うなってはあああああああ????」
「まうすつーまうす。」
「バカか!なんでこの流れでキスが出てくるんだよ!せんぞ!絶対にだ!」
「いいからいいから。」
「よくない!離れろ、このバカ!」
膝から下ろそうとするよりもはやく、こいつは俺の唇に触れた。
いや、触れた、というよりかすったといった程度のものだったが。
「おい!ふざけるな!お前何し……。」
目の前の光景に息が止まった。
一気にさなぎが蝶になるように、子供が大人に成長していく。
細く柔らかだった髪は光を浴びてキラキラと光りながら緩やかなウエーブを作りながら伸びていき、ぷっくりとしていた顔の輪郭はすっきりとしたものに変わり、頼りなげな三頭身の体はしなやかであでやかな弾力を持つすらりとした大人のものになった。
強い意志を秘めたライム色の瞳がゆっくりと開き俺を射抜けば、また体が動かなくなる。
そして、つぼみが開くように、薄い桃色の唇が開いた。
「なんだかキスって、ナメクジみたい。」
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
子供になっていたときはつい遊ぶことに夢中になっていて忘れることがあったが、私は大人に戻って結婚しないともれなく死刑の哀しき囚人だった。
ポムピンが元に戻る方法が見つかったと教えてくれたことで思い出した。
あぶないところだった。
大人にならないと結婚はできないものね。
子供の姿から元に戻るにはジン・フロストとキスをすることだとポムピンに言われ、キスをして元に戻ったはいいが、なぜかそれから完全に彼から無視をされている。
作ってくれていたレバー料理も、今では兵士が作ったものが部屋に運ばれてくるのだ。
フランケンシュタイン博士夫人に相談してみたら、今まで押しすぎたんだろうから引いてみると良いといわれたので、こちらからのコンタクトもまったく取らないでみたけれど、これは逆効果ではないかと思う。
事態は前進どころか百歩くらい後退している。
もんもんとしながら人気のない古城の近くを散歩していると、人の話し声が聞こえてきた。
ついいつもの癖でさささっと木陰に隠れ、盗み聞きスタイルに移行する。
「ですから、何度も言っていますが私に言われても困ります。私にはそのような決定権はないんですから。」
ナハシュが珍しく少し怒りを含んだ声を出している。
「あなた様もここクグロフでは「異民」でいらっしゃる。今まで悔しい思いをされたことが一度ならずともあるはずです。どうかわれら同胞に反撃の機会をお与え下さい。」
話し相手はあのブラック・ランプ協会のデバランという男だった。
「反撃とは、ずいぶんと過激なことを言われますね。そのようなことを言われるような方に同胞などと呼ばれたくありませんよ。それにあなた方はこの城内への入城許可が下りていないはずですが、どこから侵入されたんですか?」
ナハシュの声が明らかに鋭さを帯びている。
「申し訳ありません、トライフルの言語の言い回しを間違えてしまったようです。我々にもチャンスを、と言いたかったのです。」
「もうこれ以上あなたと話すことはありません。今回は見逃してあげますので早くお帰りなさい。閣下に見つかればどうなるかわかりませんよ。最近は特に気が立っていらっしゃるので。」
それを聞いたデバランはぶるりと体を震わせて、
「失礼します。」
と言って走り去っていった。
ここクグロフでも他国からやってきた人間には住みにくいところなんだろう。
他国の人間、「異民」への差別的な扱いは未だトライフル王国では根強い。
先ほどのブラック・ランプ商会のように権力者の後ろ盾を欲しがるのも無理はない。
私も母国のハカティアから来てしばらくはなにかと難癖をつけられたものだ。
他人に文句を言わせないように努力を重ねた結果、差別的な扱いは受けないようにはなったので、そういえば自分も「異民」なのだと忘れてしまっていた。
ナハシュがやれやれと肩をすくめながら館のほうに歩き出した。
私はさも今来たかのように装ってナハシュに声をかけた。
「おや、ヴァンドルディさん。このようなところでどうされたのですか?」
「あなたに相談したいことがあったの。」
「ああ、閣下のことですね。」
ナハシュはにこりと微笑んだ。
よくわかってるじゃない。
「私、完全にフロスト侯にいないものとして扱われてるみたいなんだけど、もう関係を改善することはできないのかしら?」
「それは心配されなくてもいいと思いますよ。現にあなた様はまだクグロフから追い出されていませんし。閣下が本当に嫌だと思えば、森の中にでもあなた方を置き去りにするでしょうから。それくらいのことはされますよ、あの方は。」
「それを聞いて安心したわ。」
まだ私には死刑を免れる可能性が残されているようだ。
「では一体何をあんなに怒ってらっしゃるのか、あなたは知っている?」
「え?わからないんですか?」
「ええ。」
ナハシュは苦笑いした。
「キスはナメクジ発言が原因です。」
「それのなにがいけないの?」
「閣下は、あなた様に閣下とのキスはナメクジとしてるみたいで気持ち悪い、と言われて傷ついてらしゃるんですよ。」
「気持ち悪いというつもりで言ったんじゃないんだけど。」
「ナメクジを好きな人は、まあ、あまりいませんよね。なので暗に気持ち悪いと言われたと思って当然です。王都の貴婦人にそのようなことを言われたら繊細な男心なんてあっという間にこなごなですよ。」
「傷つけてしまったことは、本当に申し訳ないわ。」
なんだかんだと言いながらもなにかと世話をしてくれた彼を傷つけてしまったというならば、謝りたい。
「そういうことならばぜひとも謝罪をしたいのだけれど、会ってもらえるかしら?」
「そうですね……。そうだ、手紙を書かれるというのはどうでしょうか。私が渡しておきますよ。」
「そうしていただけると助かるわ。よし、私のビジネス文書能力をもって完ぺきな詫び状を作り上げて見せる!」
「そんなビジネスライクではなくて、素直な気持ちをしたためていただいたらいいと思いますよ。」
「なるほど、素直な気持ちを入れること、ね。」
「何か今余計なことをいってしまった気がしますが。」
「それにしても、キスの感想に作法があったとは勉強不足だったわ。なにせ初めてだったものだから。」
「えっ?ファーストキスだったんですか?」
「はじめてのキスはそういう言い方をするのね。なんかこう、ぷにっとしててしめっていて、たとえる言葉が見つからなかったのよ。それでついナメクジと。」
「そ、そうですか……。」
なぜかナハシュは顔を赤らめてうろたえている。
「そうだ、あなただとなんとたとえるのかしら?参考までに教えてちょうだい。」
「ええええっ!?私ですか!?そ、そうですね、ファースト・キスはレモン、じゃなくて、まあ、そんな感じです。」
「レモン?何よそれ、なぜレモンなの?」
「もう、これ以上は勘弁してください……。」
ゆでタコみたいになっている。
何がそんなに恥ずかしいのか。
私はどうやら男女や恋愛に伴う行為について知らないことが多いみたいだ。
今後の課題だ。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
拝啓
先日のキスの件では私の物言いが悪く、閣下に不愉快な思いをさせてしまったことを取り急ぎ謝罪いたしたく存じ、筆をとった次第です。
閣下には、毎々お気遣いいただいているのにもかかわらず、キスをした時は私がナメクジのようだと言ったことで他ならぬ閣下の誤解を招いたばかりか怒らせてしまい、自身の浅はかさ、表現力の乏しさを恥じるとともに、今更ながら後悔するとともに深く反省しております。
何分当方初めてのキスであり勝手がわからずにこのような事態を招いてしまいましたので、今後はキスについてよく勉強していく所存でございます。
厚かましいことではございますが、もしよろしければ今後ともキスはさることながら、その他の男女間でのやり取りについてもご教授いただければ幸いに存じます。
今後キスをする時は同様の過ちを犯さないよう肝に銘じてまいりますので、何卒お許しを賜りますよう伏してお願い申し上げます。
改めてお伺いしてお詫びを申し上げたく存じますが、まずは書中にて申し上げた次第です。
敬具
大星暦○年○月○日
レモーネ・ヴァンドルディ
トライフル王国クグロフ辺境伯
ジン・フロスト侯爵閣下
読んでいただき、ありがとうございました。




