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作者: 霧氷 こあ

 母が死んだ。篠突く雨の黄昏時だった。

 夕餉の支度をしていると、もうすぐ四歳になる娘の柚月(ゆづき)が、ぺたぺたと素足で歩いてきた。私の足に纏わりついて、ご飯はまだかとねだられるかと思ったら、

「ばぁば、起きないねぇ」

 と少し不思議そうに言った。

 ずいぶんと早い時間に寝室に行っていたのは記憶していたが、起きないとはどういうことだろう。最近はテレビを見ながらこっくりこっくりと船を漕ぐことが多かったので、昼寝のつもりがうっかり寝過ごしているのかもしれない。

 私はコンロの火を消して柚月を抱きかかえると、母の寝室へと向かった。

 二世帯住宅のこの家では、一階の奥にある和室が母の寝室だった。普段、私や夫は立ち入らない母のプライベートな空間だった。

「お母さん、ご飯もうすぐできるよ」

 襖の前で声をかけても返事はなかった。どうしたものかと思っていると、抱きかかえていた柚月が身をよじったので下ろしてやると、私が止める間もなく襖を開けた。

 電気の点いていない薄暗い部屋には、沈香の香りが漂っていた。左の壁際に父の仏壇があり、線香が立っている。香りはそのせいだろう。

 物がほとんどなくて、布団を敷くために向かいの窓際に追いやられた小さな机に、ケーキのレシピ本が置いてあった。その隣にある鏡台に、エプロンをつけたままの私の姿が映っている。

 部屋の真ん中に敷き布団があり、更紗風の花柄プリントが施された掛け布団に身を包んだ母がいた。目を閉じて、小さく口が開いている姿を見たとき、すぐに異変に気が付いた。

 まるで眠っているかのように、母は事切れていた。その顔は苦悶とはほど遠く、どこか満ち足りたような柔和なものだった。

 柚月が「ばぁば」と声をかけて揺らしても、決して起きることはない。小さく開いた口の中が真っ黒な空洞に見えて、まるで魂のない空虚な器のように感じた。同時に、母はようやく解放されたのだと、どこか安堵を覚えた。

 葬式は、近親者のみで執り行われることになった。とはいっても、まだ六十手前だった母の近親者は至って元気で、足元の悪いなか平日にも関わらず参列してくれた。

 参列者は口々に、母の生き様を称えた。中には私に母の面影を感じたのか、涙を流しながら、何度も「ありがとう」と言葉をかけられた。

 まるで若いときの母を見ているようだと言われるのは、少しも嫌なことではなかった。それに、母は本当にみんなに愛されていたのだなとつくづく感じられて、素直に嬉しかった。

「あなた、私ちょっとお手洗いに」

「ああ、もうすぐ葬儀が始まるからね。今のうちに行っておいで」

 夫に断りを入れて席を立つと、隣にいた柚月も立ち上がった。

「お手洗い、一緒にいこっか」

「うん」

 堅苦しい雰囲気に吞まれたのか、柚月は普段とは打って変わってどこかよそよそしい態度で頷いた。

 手洗い場は玄関ロビーのほうにあるので、柚月と手を繋いで歩く。ざあざあと音がするので入り口の自動ドアに目を向けると、雨季も過ぎたというのに雨は止む気配もなく降り続いていた。まるで、涙一つ零さない自分の代わりに空が泣いているようにさえ思える。

 ふと、雨で霞む視界の中に、ぼんやりと赤い何かが浮かんで見えた。その緋色に、どこか懐かしみを覚える。なぜだろうと思うと同時に、私が子供の頃に持たされていた緋色の傘だと思い至った。母曰く、視界の悪い雨の中でも目立つようにと買ってくれたものだった。

 どうして目立つようになのか当時は分からなかったが、私が四歳になる誕生日に、オモチャを買いに行った父が交通事故で亡くなったからだと、中学生になってから気が付いた。そういったことがあったから、母はどこか神経質になっていたのかもしれない。

 父を轢いた運転手は、雨で視界が悪いなか、対向車のライトと自車のライトが重なって見えなかったと言っていたらしい。その状況に、蒸発現象という名前がついているのを知ったのは、教習所で免許を取得するための座学でのことだった。

 ただ幼かった私は、辛い出来事は頭の片隅に追いやり、傘をもてあそんでいた。単純に和傘のようで可愛らしかったので、母の憂いとは裏腹に雨が待ち遠しくて仕方がなかったのを覚えている。

 いつだったか、私がまだ小学校低学年の頃。図書館に行って本を借りていると、夕立に降られて帰れなくなった。すぐに止むだろうと本を読んで待っていると、朱色の傘を差した母がわざわざ迎えに来てくれたのだ。

「ママ、迎えに来てくれたの?」

「うん、有希(ゆき)ちゃん。傘持っていなかったからね。ママの傘は、途中で壊れちゃった」

 少し照れ臭そうにいう母の左手には、コンビニで買える安いビニール傘があった。

 無理をしてまで来なくても良かったのに、と思わなかったといえば嘘になる。それでも、私は母が来てくれたということが嬉しくて仕方がなかった。

 母は子供用の傘を差していたからか、上着やズボンの裾がひどく濡れていた。それなのに、私を見てにっこりと微笑んでいる。その笑顔を見ていると、自然と胸の奥のほうが温かくなった。今にして思えば、あれも母の愛だったのだろう。

「ママ……?」

 ぐい、と腕を引かれて我に返る。

 自動ドアの向こうに見えた赤色は本当に傘だったのか、あるいは斎場に面した国道を走る車のブレーキランプだったのか、今はすっかり消えていた。

 視線を下げると、柚月が心配そうにこちらを見上げていた。

「ごめんね、大丈夫よ。さぁ、お手洗いに行こうね」

 手洗い場には、誰もいなかった。柚月が個室に入るのを見届けてから、用を足して手を洗う。柚月の濡れた手をキャラクターが刺繍されたハンカチで拭いてあげると、私を置いてさっさと手洗い場から出て行ってしまった。

「柚月?」

 すぐに自分の手も拭いて追いかけると、柚月は柩のほうに向かって歩いていた。供花に囲まれた遺影が、こちらを笑顔で見つめている。

柩の蓋は開いていて、死に化粧をしてどこか安らかな表情をした母が変わらずそこにいた。普段は全くメイクなんてしていなかったのに、死んでから化粧されるというのも、何だか不思議な感じがする。

 思えば、お洒落には頓着しない母がよく身に着けていたものに、西陣織のバレッタがある。私が中学生のとき、修学旅行で行った京都のお土産として買ったものだった。

 傘もそうだが、私がそういった和風なものが好きだったという理由で買ってみたのだが、母はいたく喜んでバレッタで髪を纏めると、その場でくるっと回って背を見せた。

「少し、派手すぎかしら?」

 七宝菊柄のやや赤みがかったバレッタは、普段飾り気はないが大和撫子な母によく映えた。まるで母のためにあしらわれたようにすら思えて、少し嫉妬したぐらいだった。

「ううん、すごく良く似合ってるよ」

 素直に感想を言うと、母は顔にぱっと笑顔を咲かせて喜んだ。たかだか四千円程度の髪留めでこれだけ喜ばれると、悪い気はしなかった。

「有希ちゃんも、つけてみて」

「でも、ママみたいに似合わないと思うよ」

 母は有無を言わさず私の髪に手を伸ばす。私も母と同じ、肩にかかる程度の黒髪だったので、つけられないということはない。本当に嫌なわけではなかったので、されるがままに身を預ける。バレッタを付け終えると、満足そうに母が頷いた。

「うん、思った通り似合うわね」

「ほんとー?」

 それは何だか母と同じという意味合いにもとれて、嬉しさと同時に気恥ずかしさも感じた。何となく表情を見られるのを嫌で、母の方に向き直れなかった。

 口に出して言ったことはないが、私は母に憧れていたし、尊敬もしている。そして、母のように綺麗で強かな女性になりたいと、心から思っていた。

 そんな母も、私が行きたいといった高校の入学金を工面するのには苦労したようだった。仕事は残業が増えたのか、私が学校から帰ってきても帰宅していないというのは日常茶飯事になった。休日はゆっくりできるのかなと思っても、内職で何かの袋詰めや、検品作業をしていて働きづめだった。

 日に日にやつれていく姿を見て、進学先を変えるといっても、お金のことは気にしないでと何度も言われた。なら私もアルバイトをしたいと申し出たこともあったが、子供の本分は学業だといって許してもらえなかった。

 後から聞いた話では、未亡人となっても母はモテたようで、異性からの誘いも引く手数多だったそうだ。けれど本気にすることは一度もなかったという。金銭面のことを考えれば、再婚して夫に協力してもらうというのも一つの手段に思えたが、母はそうはしなかった。

 ひょっとしたら、亡くなった父に対する愛情がまだあったのかもしれない。一度も父のことを悪くいったことはなかったし、お墓参りにも欠かさず行っていた。だがそうでないとしたら、こぶ付きということがあって一歩踏み出せないでいたのかもしれない。今となっては憶測することしかできないが、私が枷になっていたというのはいかにもありそうなことだ。

 結局母は、女手一つで私を育てあげてくれた。

 成人式の日に、振り袖を着た私を見て涙を流している姿は感動のほかに、達成感も覚えていたように見えた。その表情は、三十代になった今でもまざまざと思い出せる。

 母は艱難辛苦を乗り越えてきた。いばらの道を、脇目も振らずただひたすらに突き進んできた。そうしなくてはいけないとでもいうように、それはまるで縛られているようにすら感じた。そして、その努力の結晶が、私。そう思わざるを得なかった。

 母のように綺麗で強かな女性になりたいと思っていた私はそこで理解した。決して甘えず、自分の力で何かを守護していった先に、同じ景色を見られるのではと。

 それからの私は、何か選択を迫られる場面になると母ならどうするかと考えた。楽な道は邪だと信じて、ひたすらに自分を追い込むように行動した。そしてそれを鼻にかけない。あくまで淑やかに。そして、同情を買うように。

 もはやそこに、自分の意志はなかった。ただ自分をより苦しい状況に追い込み、それでいて嫌な顔一つせず笑っている。そんな自己犠牲の境地に、少なからず愉悦を覚えていた。私は、母そのものになりたかったのかもしれない。

 いや、なりたいのではない。なるのだ。

「ばぁばね、わたしの誕生日にケーキ作るよって言ってたの」

 物思いに耽っていた私は、母から視線を逸らした。柚月がどこか申し訳なさそうな顔をしてこちらを見上げていた。

 来週はもう、柚月の四歳の誕生日だった。私は屈みこんで、目線を合わせる。

「ケーキはね、ママが作ってあげるよ」

「ほんと?」

 柚月はその場で小さく飛び跳ねた。その小さな頭を、優しく撫でる。

「イチゴの乗ったケーキが良いんだよね?」

「うん。でも柚月と、ママと、パパと、ばぁばの四人で食べるから、大きいのを作らないとだよ。柚月もね、お手伝いするよ」

 そういえば母の寝室にはケーキ作りの本が置いてあった。きっと柚月と誕生日ケーキを作るために色々と準備をしていたのだろう。

「でも、ばぁばはもう食べられないから、大きいのはまた今度だね」

 柚月は口をすぼめて、小さく頷いた。

 母は死んで、もうこの世にいないんだよ、などと直接的なことは伝えていなかったが、どういう状況なのか薄々感づいているのかもしれない。どこか聡い子ではあったが、私の気が付かないところで無理をさせてしまっているかもしれない。

「でも柚月は四歳になるから、蝋燭を四本も立てられるよ。ちゃんとふーって全部消せるかな?」

「消せるよぉ」

 まだ去年のことを覚えているのか、柚月は楽しみを抑えきれずに私に抱き着いてきた。

「そろそろ、パパのところに戻ろうか」

「うん!」

 よいしょ、と柚月を抱きかかえて立ち上がる。

「柚月は、パパのこと好き?」

「うん、好きだよー」

「そっか」

 私も柚月と同じぐらいのときは父のことが好きだった。玩具を買ってくれたし、ケーキだって一緒に食べた。蝋燭を一回で吹き消せなくて、父が代わりに吹き消したことに対して泣き喚いた。その姿を見て、父が慌てていたのを覚えている。

「……」

 柚月には少し酷かもしれないが、私は母と同じ境遇になりたいのだから、仕方がない。そのためには私が四歳の誕生日に起きたことから始める必要がある。茨の道を切り開いていった道の先に、母の見た景色があるのだ。

 私は、それが見たい。

 窓に水滴が叩きつけられている。いまだに雨が降っているようだった。来週の夫の葬儀は、晴れるだろうか。

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