19.脱走
勇治の頭の中では満足感と後悔、二つの感情がせめぎ合っていた。
彼の視線の先には既に空っぽになってしまった紙コップ。
彼にとっては二食目の食事だが、この四六時中閉ざされた空間の中では、これが朝飯なのか昼飯なのかすら分からない。駄目もとで秋山にも今何時くらいか尋ねてみたが、さらりと返されるのみ。
「気にしてもどうしようもないことを気にすんな。せめてもう少し楽しい事考えようぜ」
「……秋山さんは、ここから逃げ出そうと思った事はないんですか?」
「色々試してみたけど、どうにもならねーわな」
諦めと言うにはあまりにも軽すぎる声と共に、隣の牢の鉄格子を軽く叩くような音が聞こえる。人生経験、知識、身体能力も自分より遥かに上であろう秋山にそう答えられては、勇治も何も言い返せない。
「そうだ、お前さん高校二年生って言ったよな。どこの高校だ?」
「杉浦高校です」
「おーそうか。なぁ、花田優って奴知ってるか?」
勇治は単なる話題変更だと思って普通に返してしまったが、当の秋山は待ち望んでいた言葉だと言わんばかりの食いつきを見せる。
「……隣のクラスにいますね。直接話した事はないですけど」
「そいつ俺と同じジムに通ってんだよ。で、どうなんだ?学校でのあいつ」
「どうって聞かれても……」
勇治は回答に困る。
直接話した事はないのは本当だが、花田の事についてはよく知っていた。同じ学年で彼の名前を知らない者はほとんどいないだろう。もちろん悪い意味で。
隣街の不良共との喧嘩に明け暮れているとか、昔先生を病院送りにしたとか、彼の周りでは悪い噂が絶えない。だが、学生の誰もが彼が実際に人を殴ったところを見たことがない。そして、その情報の出所がどこなのかも誰も知らない。いや、知る必要などないのだ。要は単なるゴシップ。学生達は不良がいると言う事実がありさえすればいいのだ。退屈な学生生活の一つまみのスパイスになればいい。
勇治も正直言って、そんな中の一人であった。花田本人も寡黙だから話しかけようがないし、学校では何もしないから、こちらも何かしようがない。ただ、何となく周りの噂を信じて、近づかないようにしていた。
「その分だとあんまり評判は良くないみたいだな」
「……ですね。秋山さんと同じジムにいるってことは彼もボクシングを?」
「ああ、結構いい筋してる。あの歳で始めるんだったら、不良崩れか、いじめられっ子だと思ったんだがな」
あるいはその両方なのかもしれない、と勇治は思った。
「一応言っときますけど、うちの学校は格闘技系の部活は駄目なんですよ。俺はあいつがボクシングなんてやってたの知らなかったんですけど、それで先生に目をつけられていたのかもしれませんね」
「何で駄目なんだよ。暴力反対ってか?」
「校長がそんな風に言ってましたね」
「はは、俺、そいつとは絶対に話合わねーわ」
それについては勇治も同感であった。
別に暴力はあってしかるべき、とまでは言わないが、如何せん極端すぎる。格闘技が直接暴力に繋がるとはとても思えない。
勇治は父親が警察ということもあって、小さい頃は剣道の他に空手も少しやっていた。中学に上がってからは両方は無理と言う事で剣道一本になった。そして父が殉職し、高校に上がってからは、普通のスポーツをやろうと経験者の少ないハンドボールへ。
あまり人に堂々と言えるような理由ではない。高校の部活は健全な精神を養うためでもあると聞いているが、当の本人がこうも投げやりな態度でどこまで教育できるのか。
「そいうえば、秋山さんはどうしてボクシングを始めたんですか?」
「俺、こう見えても昔はいじめられっ子だったのよ」
姿は見えないのは置いといて、勇治は素直に感嘆した。
「まぁ、実際にいじめっ子をぶん殴ったのはボクシング始める前だったけどな。それで少年院入りになって、退所してから折角だから始めてみようかってなった」
「なんだか……凄いですね」
「へへ、そうか?」
勇治は秋山の漫画のような人生にやや呆れつつも、自分にはとても考えられないと思った。当の本人も自嘲混じりではあるが、決して後悔はしていない声色だ。
「俺はよ、いじめってのが大嫌いなんだ。だけど、今じゃあ、いじめられてる奴も悪いとか……そんな風潮あるだろ?」
「そうですね……時と場合にもよるのかも。いじめって、定義っていうか、線引きが凄く難しいじゃないですか」
「たしかに。大抵の奴はそれでお茶を濁すだろうな。俺もどこからがいじめで、どこまでがそうじゃないっていう線引きなんてものは分からない。……だけどよ、いじめであろうとそうでなかろうと自分で絶対に許せないってラインはあるのさ」
勇治は今までの人生ではただの傍観者であった。花田のことについても、何も介入しようとしていない、そう思うと自分を情けなくすら感じる
相手から蔑まれたことはないにしても、代わりに父がそのような目にあったのを見ているはずなのに。
「その、ラインってのは?」
「いいか、勇治。俺は頭は良くねぇし、ガキ共に誇れるような大人じゃない。だが、お前より少し長く生きてはいる。だから、これだけは聞いてくれ」
秋山は急に改まった調子になり、ピンと張り詰めたような声になる。
「自分は安全な所にいながら、人を傷つけるような人間……大概のいじめっ子ってのはこれに当てはまるのさ。そして、世の中の『偉い』大人どももな。俺はこういう奴らは許せねぇのよ。そして、お前もそんな人間にならないでくれ」
「自分は安全……ですか」
「ああ、だから、リングの上が好きなのさ。あそこは誰だろうと対等に殴れる。審判だって間違って殴られる可能性は0じゃない。だから、必死に動き回る。だけど汚い人間ってのは違う。決してリングには上がろうとしないのさ。自分が殴られたくないからな」
人は平等なのか、不平等なのか。
その答えはとても分かりそうにないと、勇治は思っていた。
しかし、対等に向き合う事さえも許されない世界。
それは、もしかして、とてつもなく恐ろしいことではないのか。
勇治が秋山にもっと詳しく尋ねようとした時、遠くから重い金切り音が鳴り、灯りと足音がだんだんと近づいて来る。
「秋山尚人。君の番だ」
「……」
いつも食事を運んで来る人物と同じような白い防護服を着た男達。しかも今回は三人。背丈は微妙に異なるようだが、食事を運んで来る人物と同じかどうかは全く判別がつかない。
秋山のいる隣の牢から、かちゃり、と音が鳴り、男達が何やらごそごそと音を立てる。
勇治はただ茫然と牢の中から外を見ることしか出来ない。
「じゃあ、短い間だったが、さよなら、だな」
「秋山さん……!」
勇治の視界に入って来たのは、手首から腕に至るまで拘束具をはめられた、想像よりもやや細い風体の男の姿。
「次の新入りが来たら、この話でもしてくれや」
勇治は思わず叫んでしまったが、防護服を着た男の一人が勇治の顔を軽く睨みつけると、それ以上は何も言えなくなってしまう。秋山もそのまま無言で連れて行かれ、牢の中は今までに増して冷たく重たい静寂が支配する。
勇治の頭の中にはこれまで以上の孤独と不安と、絶望感が渦巻き、何とかして牢を出る方法がないか、片っ端から暗がりの部屋の隅々まで調べてみたが、とても希望と呼べるようなものは見当たらず、かえって自分の無力さを思い知らされる。
喉の渇き、尿意、便意もそれに伴ってさらに勢いが増し、どうにもままならぬ状態のまま、時間が過ぎて行く。
「……食事」
気が付くと、いつの間にか、牢の前に防護服を着た人物が例の飲み物を持って立っていた。
もうそんな時間が過ぎたのかと戸惑いつつも、勇治はよろよろと鉄格子の前に近づく。
「……わぷっ!?」
やや霞んでいた勇治の視界に突如冷たい液体が飛んで来る。
目が覚めたかのように、牢の前の人物を見据えると、蓋の開いた空っぽの容器に目が行く。頭が必死に状況を整理しようと働くが、考えが纏まる前に、今度は空の容器が投げつけられ、勇治の額に軽く当たる。
「ばーか、何びびってんのよ」
女。しかもかなり幼い声。
よく見ると、先程までの男達とは打って変って、小柄な体格。
相手が女の子かもしれないという期待のもと、勇治も軽く反論する。
「い、いきなり、飲み物をぶっかけるのはないだろ!折角の食事が!」
「こんなの飲んでもお腹壊すだけだよ。分かってんでしょ?」
「う……」
目の前の少女(?)は呆れたかのような声を出す。
「それにしても馬鹿よねー。こんな暗い所でいい歳した男が一人でピーピーと……何やってんの?」
「な、泣いてはいないぞ!だいたい、こんな所に閉じ込められてどうしろってんだ!」
少女はさらに大きな溜息をつく。
「今のあんたなら、こんなとこ余裕で抜けだせるってのに。折角マスターが……」
「な、何言ってんだ?」
「まぁ、知らないなら仕方ないことにしとくわ。命令だし」
そう言うと、少女は鍵を取り出し、勇治の牢の入り口を大袈裟に開いて見せる。
「はい」
「いや……え?」
「出て、って言ってんの」
「いや……俺は?」
「好きにしろって……もう!面倒くさいなぁ!」
少女はあまりの急展開に茫然としている勇治を無理やり牢の中から引っ張り出し、地面に顔から叩きつける。小柄な体格からは想像もつかないような力だったが、そんな疑問はそれ以上の混沌の中に飲まれる。
「一回しか言わないわよ!ここから出て真っ直ぐ進んだら非常階段があるわ。一階まで昇ったら、階段近くに女子トイレがあるはずだから、そこの窓から庭に出る!そして、塀を乗り越えたら一般道に出るから、そこから好きに逃げなさい!」
「ままま待ってくれ!一辺には覚えられない!塀を乗り越えるとか無茶な!」
「老いぼれか障害者でもない限り余裕よ。エレベーターや普通の入り口は絶対使わない事。いいわね!?」
勇治の理解などお構いなしと言わんばかりに少女は早口でまくし立てる。
慌てふためく少年を一しきり眺めると、少女は一息つき、再び声のトーンを落とす。
「それと、隣の男は2階の部屋に連れて行かれた」
「え……!?」
「どちらを選ぶかはあなた次第」
「ど、どちらって!?」
「ま、このまま放っておくとあの男は死ぬわね。それじゃ」
そのまま立ち去ろうとする少女を、勇治は飛び掛かるように捕まえる。
「ど、どういうことだよ!秋山さんが死ぬって!?」
「その……まんまの意味……よ!あんたは逃げるか、助けるかそのどっちかを選ぶの!」
「た、助けるって言ったって……」
「助けられるわよ。あんたなら」
断言。
勇治は全くその根拠が分からない。
だが、一番分からないのは、この少女が自分に一体何をさせようとしているのか、だ。
「私も早く帰りたいのに……ったくー」
「事情を話してくれなきゃこっちは何も判断しようがないじゃないか」
「今のあんたは何も知っちゃいけないの!」
「何でだよ!?」
「しつこい!」
鳩尾に少女の肘打ちが入れられ、勇治は崩れ落ちて悶絶する。
少女は勇治を見下すように立ち、防護服で余計に短小になった指を彼につき立てる。
「もし、ヤバくて死にそうな状態になったら、『アルク・ライズ』って言いなさい。でも、もし、この力を使うと、それが何時であっても結果は同じになるわよ」
「あ、アルク……?」
「今言うなって」
少女は勇治の頭を踏みつける。
勢い余って、舌を思いっきり噛んでしまった勇治は、少女の姿が消えるのも気づかないくらいに、胸と舌の激痛と格闘していた。




