その後:夏の終わりに
「おめでとうリィナ。可愛い娘の誕生だ」
助産師がひとり。その助手がふたり。それからジョエルがひとり。
この瞬間は人生で一番苦しかったと思う。そしてこの世で一番幸福だったと思う。これほどの苦しみと引き換えに、信じられないほどの達成感と幸福を与えられた。今日だけは神様を信じて、神様に感謝したい。
夏の終わりに娘が産まれた。
ジョエルが私の身体に触れて傷を癒していく。それでも疲労までは回復しない。ジョエルの力を持ってしても、お産というものは回復に時間を要するらしい。助産師が私に、取り上げたばかりの娘を手渡してくれた。温かい生命の塊を受け取って、私はそっと抱きしめた。
「アンジュ…生まれてきてくれてありがとう。私、きっと貴女をとっても幸せにするわ。たとえ能力者であっても絶対に手放したりしないわ…」
囁きかけると、大泣きしていた娘が微かに微笑んだような気がした。
ジョエルが扉を開けて、夫のコリンを招き入れる。コリンは娘そっくりに大泣きしながら私に駆け寄って、何度も私の額に口付けした。
「リィナ!ありがとう、本当にありがとう…!よく頑張ってくれたな…!」
「コリン…目が腫れているわよ」
「だって…気が気じゃなくて…それに、俺の子供だって思ったら感極まって…」
ぐず、と鼻水を啜ってからコリンはアンジュをわたしから受け取って不器用に抱きしめた。アンジュ、と囁きかけて宝物のように抱きしめる。
「生まれてきてくれてありがとう…愛してるよ、アンジュ。これからお父さんと沢山遊ぼうな」
コリンは早速娘にメロメロになりながら、眠りにつく娘を再び助産師に預けた。生温い目で私たちを見守っていたジョエルがこほん、と咳払いをする。コリンは慌てて背筋を伸ばした。
「ジョエル様、この度は本当にありがとうございました…!」
「リィナは大切な仲間だからね。まだ完全に回復していないから、気をつけるように。コリン、ちゃんと妻を気遣うんだよ」
「はい、もちろんです」
コリンは恐縮して頭を下げた。
「これで予習はばっちり?」
「そうだね。これでいつプリシラが産気付いても大丈夫だ」
私が笑いながら言うと、ジョエルも笑いながら答えた。
といってもジョエルは私の周りをおろおろしながらうろうろしていたせいで、助産師に座ってろ!と怒鳴られていた。…プリシラのときは怒られないといいけれど。
「またプリシラと様子を見に来るよ」
「待ってるわ」
コリンがまた頭を下げた。私がひらひらと手を振ると、ジョエルも軽く手を振って帰って行った。
子供って超可愛い。
でも超大変。
元々大した家事能力のない私ひとりでは子供の世話ができず、コリンにはずっと仕事を休んで手伝ってもらっている。コリンも手伝いたいと言っていたので、丁度良かったようだ。ジョエルもフリオも、コリンが長い休暇を取ることにさして抵抗がなかった。それどころか暫く休んで当然だと言ってくれた。
「リィナ、アンジュが眠りました」
「ん…?」
時折顔を見せる『コルトロメイ』は、泣き叫ぶのをやめた。子供が生まれてからコルトロメイの恐怖は随分薄れたらしい。恐怖よりも守りを、と思ったのか。コリンほどの逞しさは無いけれど、アンジュに優しく神様の話を語りかけているのを度々見ていた。コリンもコルトロメイも2人で1人だけど、なんとなく2人の教育方針は違うと思う。
コリンは神様の話をしない。
コルトロメイは神様を知ってほしい。
私の妊娠発覚の前後にコリンとコルトロメイは完全に分離し始めていた。私の夫は今では完全に…所謂二重人格者になっている。普段はコリンだけども、時折嘆くコルトロメイが現れるのだ。
今日はコルトロメイが子守をしてくれたようだ。私はコルトロメイに微笑みかけた。
「ありがとう。部屋を片付けなきゃね」
「シスタリナ」
コルトロメイは私を呼び止めた。
「なあに?」
「ありがとう」
「何が?」
コルトロメイは優しく微笑んだ。ゆっくり目を閉じて、同じようにゆっくりと目を開く。
「ん?」
不思議そうに彼の顔が傾いた。
「あれ、俺なんでこっちに…」
コリンに戻ったらしい。コリンは心底不思議そうに首を傾げていた。コリンとコルトロメイは記憶を共有していないから、たまにコリンは混乱してしまう。コルトロメイの方は…コリンの記憶を完璧に持っているというのに。コリンのほうは今は主人格だけど、後から私に作られたものだから主導権がないのかもしれない。
「アンジュが眠ったって教えてくれたのよ」
「またあいつか」
そしてコリンは…コルトロメイをやや迷惑がっている。
「コルトロメイもコリンでしょ?嫌がらないであげて」
「捨て去った弱い自分が表に出てくるなんて、それこそ恐怖でしかないだろ。それに…気持ち悪くはないのか?」
「夫が2人いるみたいで楽しいわよ」
コリンであれ、コルトロメイであれ、私の夫には変わりない。とっても愛しているのは2人とも同じ。
「夫が2人ねえ」
「どっちの貴方も大好きよ」
「でも俺は…コルトロメイには負けたくない。リィナがあっちのほうが好きだって言うのも分からないでもないけど…」
「別にそんなこと言っていないわよ。優劣をつけるつもりもないわ」
逞しくて頼り甲斐のあるコリン。優しくて守ってあげたくなるコルトロメイ。正反対の2人だけども、どちらのほうが好きだとか…そういうのは本当にない。どちらも大好き。
「もういっそ消してくれてもいいんだけどな」
「本来の人格は消えないものよ。押し込めておくのが精々だわ」
「…俺って二重人格なわけだよな」
「そうね」
コリンは確かめるように言った。
「リィナが好きになるような人に作ったわけだろ?」
「違うわよ」
ポジティブな考え方をしているコリンをたしなめる。別にコリンのことも作ろうとしたわけではなく、その必要があったからそうしただけ。
「なんだかんだと言って、結局のところコルトロメイには負けたくないだけなんだよな」
「同じ人間なのに勝ち負けねえ」
「想像してみろよ。コルトロメイが『シスタリナがこんな人だったらいいのに』って作った人と恋愛してるって」
「それはかなり複雑」
自分であって自分じゃない人と、愛する人が恋愛している。コルトロメイから見ればまさにそんな感じなのか。コリンは…そう思っているようだけど。
「だから俺は、リィナには『コルトロメイよりコリンが好き』って言ってもらいたいわけ。あいつがこれ聞いてどう思うか知らないけど」
「私も答え辛いんだけど…」
コリンが好きって答えてあげれば安心するのは分かってるけれど…コルトロメイの手前そういうこともできないし…
「ま、主導権握ってるのは俺だから、リィナは結局俺が好きってことで」
「ああ、うん、そうね」
コリンが納得したからそれでいいか。
「うわあ、可愛い!」
「よその子とは思えない…多分20年後にはうちの家族になっている気がする」
約束通り、プリシラとジョエルがやってきた。アンジュのゆりかごを覗き込んで、プリシラが感嘆の声を上げる。ジョエルは思案顔でぽつりと呟いた。しかしその内容にコリンはむっと眉を寄せた。
「どういう意味で?」
「僕には軽い予知能力的なものもあるからね」
「…つまり?」
コリンが問い詰めると、ジョエルはにこっと笑った。清らかな笑みだった。
「さあね。ちなみに僕の子供は男の子だよ」
コリンは口をぽかんと開いた。顔からさあっと血の気が引いていく。
「ぜ……絶対に嫌だ!やらねえ!」
「命の恩人に向かって何ということでしょうねえ、リィナ」
ジョエルは私に向かって、真面目くさった言い方をした。身に覚えがありすぎる私は、うぐ、と喉を詰まらせる。
「アンジュちゃん、絶対に美人になるわ!だって2人の子供だもの。私、とっても楽しみ」
「プリシラの所の男の子も多分美形よ。…だからといって娘が恋愛するとは限らないけど」
ジョエルの所なら決して嫌ではないんだけど…でも何だか癪というか…
「いつ産まれるの?」
「予定は5ヶ月後よ」
「楽しみね」
「そうね。うふ、ご近所さんになるから宜しくね」
「ん?」
ご近所さん?プリシラとジョエルは村の外の屋敷に住んでいるのに?意味が分からなくてコリンと顔を見合わせるが、プリシラとジョエルは意味深に微笑むだけだった。
それから2ヶ月でジョエルはボスの座を降りた。
ついでに引退したフリオを連れて、村へ移住したのだった。あまりにも突然だった。次のボスは、ジョエルの臣下だった男に決まっていた。ジョエルの前のボスの息子らしい。なるべき人に座を返しただけだとジョエルは微笑んでいた。勿論ジョエルとフリオはボスの臣下として組織に貢献もしているが、積極的に関わろうとはしなかった。
望んだ通りの平穏な生活になったと、彼はそう言った。
「あったかくてふわふわ…」
引退騒動のすぐあとになって、やっとフリオとコンチェッタがアンジュを抱きにきた。コンチェッタはおっかなびっくり、渡されたアンジュを抱きしめる。抱きしめられたアンジュはきゃっきゃっと笑いながらコンチェッタに手を伸ばした。
フリオはコンチェッタとアンジュから少し距離を取って、コリンのとなりに座っていた。
「ねえ、見て、フリオ」
「僕には近付けないで」
コンチェッタが一歩踏み出すと、フリオは顔を青くして首を振った。コリンはべちんとフリオの肩を叩く。
「赤ちゃん相手にビビる奴がいるか」
「僕は君たちとは違うんだ!間違ってこんなに可愛い赤ん坊を燃やしてしまったら…!」
「そりゃ能力コントロールのいいトレーニングになるな」
冷や汗をだらだらかくフリオに、コリンがコンチェッタから受け取ったアンジュを押し付けた。ひやひやと見守る私に向かってコリンは片目をぱちんと閉じる。
安心していいのだろうか。
フリオが能力を暴発させるのはままあることだが……最近コンチェッタを大怪我させてから、一切使わないように必死でトレーニングしているらしい。
特に、引退したからもう二度と発火する必要はない、と。
能力枯れの劇薬を飲んでいるせいか、このところいつ見ても顔色が悪い。
「ほらほら、可愛いだろ。うちの自慢の娘」
「か…かわいい」
フリオがつい指を差し出すと、アンジュはきゃっと笑ってその指を掴んだ。フリオは一瞬びくりと身体を跳ねさせたけれど、ゆっくり深呼吸して、アンジュに微笑みかける。
「初めまして…フリオです。おじさんとも仲良くしてね…」
「フリオったら。真面目ね」
私が揶揄うとフリオは頬を赤らめて照れた。なんとなくコンチェッタがフリオはかわいいと言い張る理由が分かった。横暴で嫌な奴になる時もあるけれど、フリオはこういう生真面目な一面があるから憎みきれない、なんて。
「そういえばフリオ、禿げた?」
「ばっかお前!ストレートすぎだ!」
私が素直に問いかけるとコリンが焦って立ち上がった。コンチェッタはくすくす笑っていた。
「禿げちゃいないよ。色が変わったから貧相に見えるだけ」
フリオは聞かれ慣れているのか、何でもないように答えた。たしかにフリオの青みがかった銀髪の髪は、ただの白っぽい銀髪になりつつある。あの迫力のある青が無くなっただけでこうも違うのか。
「気にしないで、よく言われるから。薬の影響もあって顔色も悪いし」
「みんな病気だと思っているわ」
「仕方ないよ、病気みたいなものだしね。そうそう、能力が枯れたら…一度父に会うよ」
「お父さんに?」
なんだか羨ましい。私は…彼の父を軽蔑すらしたけれど、会える家族があるという事が羨ましい。わたしには生まれ故郷どころか両親の記憶すら残っていない。幼い時に引き離されて以来、全く会っていないのだから。おそらく貧しかった私の家族はそう長く生きていないだろう。もう死んでいるとも考えられる。
「コンチェッタのご両親は?」
「んん、わからないなあ。覚えていないの」
コンチェッタは曖昧に笑った。
「私も覚えていないわ。コリンもよね」
「俺は…臨月の母が神殿に転がり込んできて、俺を生んでそのまま死んだってことしか知らないな」
教団で言われたことだから、それが本当かどうかは分からないけれど…コリンは別に気にしていないようだ。
「もし子供が能力者だったら…って思うと、とっても怖いわ」
「ジョエル様は、取り上げたり、しないよ。マルコもね」
コンチェッタはそう言って微笑んだ。アンジュと離れ離れになるなんてきっと耐えられない。ジョエルは私から子供を取り上げたりしないだろうけれど…新しいボスはどう思うか。
「マルコ様、信用に値する?」
「うん。すごくいい人だから、大丈夫」
新しいボスはマルコという。コンチェッタはにこにこと笑いながら頷いた。
「僕からも保証します。マルコは良い奴ですし、能力者に理解もあります」
同僚だったフリオがそう言った。流石に説得力がある。
「そっか、リィナは会ったことなかったな。また連れてくるよ」
コリンも同調する。みんながそういうならきっと大丈夫だろう。
少しだけ安心した。
夏になると思い出す。
冷たい神殿と、生きる歓び。
生命を謳歌しながら私は何度も回想する。孤独に生きてきた私がコリンという伴侶を得て、娘までもうけたこと。愛するということ。
来年の夏にはアンジュも少しだけ大きくなって、私の思い出話も少しずつ聞いてくれるようになるだろうか。
ああ、待ちきれない。私は貴女のお母様で、大親友になるの。
夏が終わる。そして次の夏を待つ。
いつだって、変わらない。




