終.ふたりのその後
「おーい、コリン。これも冷やしといておくれ!」
「はいはい」
隣を歩くコリンの手には大荷物。それにさらに大きな果物がぽいぽい乗せられていく。コリンは軽々と荷物を持ち上げた。
「リィナちゃん、暑いんだから外に出ちゃ駄目だよ。身体に障るだろう」
「平気ですよ。コリンが氷くれますし」
コルトロメイをコリンと呼ぶのにも随分慣れた。この村で暮らし始めてから何度目かの夏が巡って来た。今年の夏の私はいつもとは違っていた。仲良しの近所のおばさんに心配されながらお腹を撫でる。
お腹が大きくなった。
もちろん---妊娠したからだ。
「早いわねえ、もう臨月でしょう?」
「そうですね」
「女の子かしら、男の子かしら」
「うふ、女の子です」
ジョエルが私のお腹に手を乗せて、ぱっと性別を教えてくれたからきっと正しい。
「ボスがみてくれるなんて贅沢ね」
「本当に…感謝してもしきれません」
お産の瞬間も、何か起こらないように側に控えていてくれるらしい。…というのも、彼の妻のお産に備えての勉強、というのが本音らしいが。
コリンと一緒に歩いて、私が勤める診療所の前で別れた。コリンはそのまま教会まで行って、教会の地下の貯蔵庫に渡されたものを置いてくるのだろう。コリンの能力で巨大な冷蔵庫になった教会の地下室は、村全体の貯蔵庫になっている。
診療所では、私は基本的には医者のサポート役…なのだが、私が主として施す治療もある。それは心理的なトラウマを、洗脳によって封じ込めることだ。
「夫が死ぬ瞬間を何度も何度も夢に見て、眠れないのです」
今日私を遠路はるばる訪ねてきたのは、ギャングに所属する寡婦だった。正しくはギャングの夫とその妻だった。夫は目の前で敵対組織の人間に殺されたらしい。その瞬間を夢に見て、ついに不眠症になったから助けてほしいと、私に頼ってきたのだ。
「夢に現れぬようにすることは、できます。でも…貴女の夫が亡くなった瞬間の記憶を消さない限りは、また思い出すことになると思います」
ここ数年で自覚したこと。私の能力は万能じゃない。都合良くもない。頭が割れそうになる程強くかけないと、何れは思い出す。
「夫を忘れたいですか?綺麗さっぱり、どんな思い出でも平等に無かったことにしますか」
「いいえ」
彼女は強くそう言った。
「夫を忘れるくらいなら、眠れないくらいなんてことないわ」
それを聞いて、安心した。私はふっと表情を和らげ、彼女に優しく声をかける。
「…安心いたしました。最近は…冷やかし半分の方も多いですから。暗示はかけましょう。ですが、自分で克服することも諦めないでくださいね」
それがたとえジョエルからの紹介であっても、変な客が来る。安易に洗脳すると、それがどう身体に影響を及ぼすか分からないから、私は本当に必要な人にしか能力をかけないようにしている。
そう思ったのは、コリンが『気弱なコルトロメイ』に戻る瞬間があると気付いたからだ。全てを覚えたまま善良で弱いコルトロメイに逆行する。これは、どうしたって心に負担がかかる。
私の洗脳は一生涯続くものではないし、長持ちさせるために心を壊すほど洗脳しては、コルトロメイのように苦痛を感じるだろう。
「貴女に、眠っている間は幸せな夢を見るという暗示を与えましょう。きっとゆっくり眠れますから。…でも、起きた時にはきっと見た夢を忘れています。幸せだったと、その感情だけを覚えているわ」
昔毎日そうしていたように、女性の額に口付けを落とした。彼女は夢見る瞳になり、ぼうっと虚空を見つめる。私がまた席に戻ると、彼女ははっと我に返った。
「あ、ありがとうございます」
「また何かあればいらしてください」
村には上手く馴染めた。
みんなとても親切にしてくれる。それに、ギャングのほうにも馴染めた。確かに完璧に真っ当な組織とは言えないけれど、きちんとしている。決して騙してこき使おうなどとは思っていない。あくまで対等を今まで貫いている。だから信用している。
「リィナちゃん、こっちこっち」
診療所を出て歩いて帰っていると、気の良いおばさんに呼び止められた。
「なんです?」
「うふふ、なんだとおもう?」
おばさんは楽しそうに笑って私を大きな家に連れて行った。家は綺麗にデコレーションされていた。吊り下げられた大きな紙に「リィナちゃん出産激励会」と書かれている。嬉しくて笑うと、おばさんも嬉しそうに笑って私をふかふかのソファに座らせた。
「きたきた!待ってたのよ」
紺色の髪をした女性が私の隣に座った。さらにその隣にはくるくるの金髪の女性がちょこんと座る。紺色のほうは、プリシラという。金髪はコンチェッタだ。ただし、2人ともこの村に住んでいるのではなく、ジョエルの屋敷で生活している。
「お久しぶり」
「本当ね。元気にしていた?」
「ええ。お二人もお変わりなく?」
「もちろんよ。まあ…コンチェッタは相変わらず火傷が絶えないけど」
そう言われてコンチェッタはくすっ、と笑った。火傷が絶えないうちは多分幸せなのだろう。…なにせ、コンチェッタはあのフリオの恋人だ。能力の制御ができないフリオは愛情を表現するたびにコンチェッタを傷付け、その度にジョエルがコンチェッタを何食わぬ顔で治療していく。
「生焼けのうちは、良いんです」
コンチェッタが微笑った。プリシラは引き攣った顔で言う。
「コンチェッタの妊娠は遠いわ」
当面どころか一生無理な気がする。…本人には言わないけれど、私とプリシラは同じ結論に至っていた。
「プリシラも妊娠したって聞いたわ」
そしてプリシラは、ジョエルの唯一の人だ。あのジョエルが何年も何年も探し続けた人。小さい頃に離れ離れになった幼馴染のプリシラを、彼は長い間ずっと探していた。
私を教団から助けたのも、プリシラを探すためだったという。
プリシラが騎士団にいる可能性を考慮し、騎士団の人間を洗脳してスパイに仕立て上げ、プリシラを探し出そうと計画していたらしい。…尤も、私がギャングに救われた時には、既にプリシラは騎士団を捨ててギャングに入っていたのだが。
プリシラは愛おしげにお腹を撫でて頷く。
「ジョエルが大喜びしちゃって。コリンもリィナが妊娠した時は飛び上がって喜んでいたでしょう?」
「うん、とても」
「あれだけ喜んでもらえると、安心するわよね」
本当にそう。私もコリンも家族というものがわからないから、上手く両親というものになれるのか分からなかった。不安はたくさん。だからコリンが素直に喜んでくれると思わなかった。
沢山悩んで、コリンが嫌がっても産むと1人で決めてから報告したけれど、そんな心配は杞憂だった。コリンは私より喜んでいた。
「ジョエルがリィナのお産に立ち会うって聞いたけど、本当に良いの?気持ち悪くない?」
「とても有り難いと思ってるよ。ジョエルが居てくれれば安心だもの」
「本当?良かったわ。私のお産に備えたいってうるさいの」
「気持ちは分かるわ」
プリシラはくすくす笑った。
「わたしもいつか、欲しいな」
コンチェッタがそう言うと、プリシラはよしよしと頭を撫でた。
「フリオだってコンチェッタが相手じゃなければ触れたくらいで燃やしたりしないんだけどね。…初めて本気で人を好きになって、完璧に制御が追いつかないらしいの。大切に思えば思うほど、身体に火がつくらしいわ」
「ロマンチックな話なのは分かるのだけど…正直迷惑ね」
あのフリオがここまで骨抜きにされるのだから、コンチェッタは相当すごい。ちなみにジョエルもコンチェッタが大好きだ。
コリンはコンチェッタを見ているとアンゼリカを思い出して辛いと言うけれど、その気持ちもわかる。コンチェッタはどこか妹っぽいのだ。無条件に誰にでも懐く、裏表のない底抜けに素直な良い子なのだけれど、これはアンゼリカのコルトロメイへの態度に似ている。だからコリンはコンチェッタを少し避けている。
「でもわたしは、そんなフリオが、好きだから」
コンチェッタは詰まりながらもそう言って幸せそうに頬を緩めた。
「ねえ、子供の名前は決めた?」
「…付けたい名前があるのだけど、コリンがどう思うかまだ分からないの」
「話し合っていないの?」
「うん」
ずっと話さなきゃ、って思ってはいるのだけれど。…難しい。簡単に打ち明けられる話でも、ないし。
大騒ぎの激励会を終えると、コリンが私を迎えに来てくれた。貰ったプレゼントをコリンが1人で両手に持ち、私はコリンの右斜め後ろを歩く。コリンの随分逞しくなった背中を見ながら、私は決心を固めた。
「こ、子供の名前…なんだけどね」
「ん?」
私がそう切り出すと、コリンは顔だけこちらを向いた。
「アンジュ、はどうかな」
「アンジュ?」
コリンは聞き返して来た。どくり、心臓が跳ねる。
「本当はね、アンゼリカって名付けたかったの。…でも教団っぽくて仰々しいでしょ?だから、アンジュ」
子供が女の子ならアンゼリカ、と付けたかった。子供が生まれて来れるのは間違いなくアンゼリカが命をかけてコルトロメイを守ったからだ。…私とアンゼリカは決して良い仲ではなかったけれど、彼女への感謝は忘れたくない。コルトロメイとアンゼリカの間には…私には言えないようなドラマがあったのだろうから、こればっかりはコリンがどう思うかわからなかった。
「も、勿論気に障るなら別のを、」
「良いと思う」
私が堪らず逃げ道を探すと、コリンは即座に肯定の答えを吐き出した。
「俺もアンゼリカって名前にしたいと思ってた。…リィナは俺とアンゼリカの仲を気にしていたから、嫌かな、って」
意見が一致した。コリンは微笑んで、また前を向く。
「…同じこと考えてくれてたのがすごく嬉しい」
「コリン」
気恥ずかしいのか、嬉しいのか、コリンの声は少し弾んでいた。
「でも気を遣わせたみたいで申し訳ないな」
「そんなんじゃないよ…でも、コンチェッタに会うのも嫌がるでしょう?アンゼリカっぽい、って。だから思い出したくないのかと思っていたの」
話している間に家に着いた。コリンは荷物を部屋に置きながら答える。
「コンチェッタのフリオへの健気さと従順さは胸に詰まるから嫌なんだ。アンゼリカの最期とか…教団の嫌なところを思い出すから。アンゼリカを思い出すのが嫌なんじゃないよ。…ただアンゼリカに絡む嫌なことを思い出す」
「そっか…」
荷物を置き終わったコリンは、私の頭をわしわしと撫でた。
「悲しそうな顔しないで。俺、本気で嬉しいんだから」
「本当?無理してない?」
「全然!アンゼリカって付けたいけどそのままだと難しい、けど良いのが思いつかない…っていうドツボに嵌ってたから。アンジュって本当に良いと思う」
コリンは嬉しそうにそう言った。私も安心して、ほっと表情を緩めた。
「良かった…」
本当に良かった。安心した。年々短くなっていくコリンの髪をくしゃりと握る。コリンは私の背中に手を回して優しく抱きしめた。
「フリオが生まれたら見に来たいって」
今日は、私が激励会をしていた間にコリンはギャングでフリオと一緒に仕事をしてきたらしい。あれから随分フリオと仲良くなったコリンは、事あるごとにフリオの話をする。
「勿論、喜んで。コンチェッタと来てくれたら嬉しい」
フリオは忙しいのか滅多にこちらには顔を出さない。ちょっぴり、寂しい。
「今日は何をしていたの?」
と尋ねると、コリンは少し困ったような顔をした。
「教団の監視…的な」
あの腐った教団の中心部をよく知るコリンは、その後ギャングが教団を糾弾するのに進んで利用された。それは今でも続いている。
教団は随分小さくなった。
大きな神殿は最終的には教皇もろとも討ち滅ぼされたが、地方の小さな神殿は細々と残っている。今では敬虔な信者だけが残った。しかし逃げ延びた神官たちが大神殿の復興を目指して暗躍している。だからコリンはそれを追いかけている。
正直に言ってしまえば、もう関わって欲しくない。ここでのんびり、ゆったりと暮らして欲しい。その手の仕事だって、コリンが望まなければしなくても良いのだから。
「…その、やっぱり…俺にとっては滅ぼしたいものだから」
「危ないことだけはしないで」
「大丈夫だ……たぶん」
たぶん、か。絶対に危ないこともしている。…でも今更止められないだろう。私の洗脳で好戦的になったのも影響しているだろうし、偉そうなことは言えない。コリンを信じて待つくらいのことしか私にはできない。
「心配かけてごめん。…でも、罪滅ぼしのためにも辞めたくないんだ」
コリンは小さく頭を下げた。私はその頭を乱暴に撫でて、笑った。
「許すわ。でも私が貴方の身を誰よりも大切に思っていて、心配してるって、覚えておいてね」
昔私へ同じことを言ったコリンになら、この気持ちはきっとわかる。案の定コリンは眉を下げた。
緩やかに時間が過ぎていく。
時を重ねる度に苦しんだ思い出は薄れていく。
『シスタリナ』と『コルトロメイ』の忌まわしい記憶はいつか完全に消えていくのだろうか。聖女と呼ばれたあの日々。逃げ出したくて足掻いたあの日々を。
背筋を伸ばして、前を向いて生きるには沢山の時間と、犠牲が必要だった。教団の中で生きるために罪を犯し続けたコルトロメイや私、そんなコルトロメイを守るために死んだアンゼリカ。私のせいで記憶を奪われたコルトロメイ。どれもこれも、誰も望まなかった犠牲だ。
記憶が薄れても神殿の恐怖が薄れることはなかった。
今でもこの生活は夢か幻ではないかと疑ってしまう。夜中に目が覚めて、これが現実か、神殿の冷たい寝台で見ている夢なのか、分からなくなる。本当にこれで良いのか、パニックになることもある。起きている間は幸せなのに、眠るとこれが夢で目が覚めればまた辛い現実が待っているのではないかと思ってしまう。
コリンは『コルトロメイ』の罪から目を背けられず、時折思い出したかのように泣き叫ぶこともある。優しい『コルトロメイ』では自らが犯した罪を背負いきれないのだ。私の罪は今も彼を壊し続けている。フラッシュバックする記憶と、元々の弱い心では耐えきれなかった良心の呵責という苦痛に苛まれるコリンに、今更記憶を改竄する洗脳を掛ければ…今度こそコリンは壊れる。
私たちの罪と傷跡は未だに癒えない。きっと一生このままだ。
でも、そんな生活だからこそ、この不完全な自由が愛おしいと思う。
罪と向き合い、ゆっくり普通の生活に馴染み、過去を許していく。私に許せないならコリンが許す。コリンが許せないなら私が許す。こうして2人で許しあって、傷を癒していく。彼と2人なら、なんでもできる。そのためにここに来た。
新しい命を育み、穏やかに日々を過ごして、ただ生きていく。そのことの何と尊く得難い幸せであることか。
私は胸を張って、今の生活が好きだと言える。幸せだと言える。
きっと来年の夏には、小さな赤ん坊を抱いて同じことを回想し、明るい未来を想うのだろう。その次の年も、またその次も。いつかおばあさんになって、隣におじいさんになったコリンがいて、また昔を思い出す。綺麗な恋の思い出と、苦しい罪の記憶の狭間で私たちはずっと生きていく。
ただ生きていく。
お付き合いありがとうございました!




